さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

香港のこと

2020-05-31 18:02:11 | アジア


1989年6月4日。
天安門前広場の様子を、芝居を書きながら、テレビで見ていた。
デモに集まる人々のさわやかな顔を見ているうちに、なんだか落ち着かない気持ちになってきた。
「みんな、逃げろ!」
と、思った。
「この人たちは殺される。」
そんな気がした。
不安な気持ちが、どんどん膨れ上がり、
「お願いだから、逃げてくれ!」
と、祈るような気持ちで見ていると、画面が乱れた。
戦車が人間の上を走った。


遠く香港から、デモの人たちを勇気付けていたテレサ・テンの、悲痛な叫びが忘れられない。
1997年に迫った「香港返還」を前にして、香港の人たちを、大きな不安が襲った。
台湾人は奮い立ち、「祖国台湾」を求めた。
それからの香港は、投げやりなほど明るかった。
自分たちの「未来への不安」を、笑い飛ばそうとしているかのようだった。
ジャッキー・チェンは、早々に香港を裏切った。
チョー・ユンファはシンガポールへと去った。


1995年、香港返還を前にして、テレサ・テンが亡くなった。
色々と悲しくて、香港を守りたい人たちへのエールのつもりで、芝居を書いた。


イギリス人であったはずの香港人の未来を屠り、目先の利益を選んだ大英帝国が、心底嫌いになった。
「香港の次は台湾」
良くも悪くも、そんな空気が立ち上っていた。
「せめて、台湾は守りたい。」
そんな気持ちだけで、台湾の民主化(本土化)運動には、体を運ぶことにした。


それから、もう、20年も過ぎてしまった。
いつの間にか、
「香港もつまらなくなってしまった」
と、他人事のように嘆く自分を見つけて、無性に腹が立ってきた。


あの夜からは、30年。
6月4日から続く道は、ずっと、続いているのに。
私は、何を呆けていたのだろう?


大英帝国と同じように、台湾企業も、日本企業も、未来のことなど考えもしないで、目先の利益を貪る「餓鬼」だ。
チベットで仏教徒を虐殺する政府の御用機関でしかない仏教会と「交流なるもの」を楽しみ、嬉しそうな顔で写真に納まる坊さんたち。
〇京大学○○教授という紙切れを与えられ、歓待され、ご満悦な仏教学者たち。
右だ左だという色分けが、狂おしいほど鬱陶しい。


右だとか左だとか、言っていられるのは、自由で、かつ、平和ボケしているからだ。
右でも左でも、「自由」って大事だよね。
理由もなく、人を殺しちゃ、ダメだよね?


「人の心を自由にしてくれるのが仏教だ」
ということを、忘れていました。
「餓鬼」「畜生」から、抜け出したいと思います。


でも、何をしたら良いのか、わからないまま吠えてるんですけどね。
お恥ずかしい限りです。


お盆に仕込まれた経済学?

2020-05-30 19:52:59 | 仏教講座


閉じこもっているうちに、春は過ぎ、もう、ほぼ夏になってしまいました。
夏と言えば、「お盆」ですね。
昨日、台湾のことを考えていたら、他にも色々と思い出しました。


華人社会では、旧暦の七月を「鬼月」と言います。
早い話が、日本のお盆と一緒で、「死者があの世から戻ってくる月」だということです。
「鬼」は「死者」のことですね。


死んだ台湾のばあちゃんに、「鬼月だから、飛行機に乗るな、危ない、台湾にいろ」と、よく叱られたものでした。
「死者」が「あの世」から「この世」に戻って来て、色々と悪さをする。
だから、事故が起きやすい。
そんな理屈です。
人々は戻ってきた死者が悪さをしないように、たくさんのお供え物を捧げ、ご機嫌をとります。


仏教とは関係の無い習慣です。
道教と言うよりは、自然発生的に練り込まれて出来上がった慣習、と言うべきですかね?
この習慣を、仏教が取り込むことで出来上がったのが、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」だという気がします。
専門外なので、断言できませんが。


その「盂蘭盆会経」と、インド発生の「救抜焔口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)」が伝わって来て、ごちゃ混ぜに混同されて出来上がってきたのが、日本の「お盆」ですね。
ただし、「鬼月」の習慣は、仏教より早く日本に伝わっていたと考えられています。


華人と日本人とは、死後観がかなり異なりますから、日本の方は、仏教に上手く収斂されていったのかもしれません。


そういうことなんですけれど、私、何もお盆の説明がしたいわけではありません。
あのね、「盂蘭盆経」も「救抜焔口餓鬼陀羅尼経」もね、簡単に言うと、問題の解決方法が、
「坊主をもてなせ。」
「坊主を饗応しろ。」
と、いうことになっているわけですよ。


「餓鬼を救いたいなら、坊さんたち集めて、御馳走して、お布施しなさい。」
これ、調子良すぎない?
書いたの誰?坊さんでしょ?


まあ、読む度に、そんなことを考えてしまう私は、根っからの悪人です。


マッチポンプはずるいと思う。

2020-05-29 22:06:06 | 仏教講座


数年前、台湾のばあちゃんが亡くなり、葬儀に戻りました。
台湾の葬式は、儒教・道教に仏教いっちょガミ、という華人圏スタイルでしたが、近年、日本のように専用の葬儀場で行う仏教スタイルが増えています。
葬儀の前々日、台北に着くや、さっそく、葬儀に向けた儀式や準備に追われることになりました。
台湾の法事は、立ったり座ったり、一緒にお勤めしたりと、参列者はたいへんです。
私は僧侶なので、「師傳」と呼ばれ、家族とは別席に座らされ、逆に動けません。
渡された経本は『地蔵菩薩本願経』だったと思います。
経本には「ボフォモフォ」という台湾の発音記号でカナがふってありますが、読めません。
なので、
「嘘だろ・・・・・」
と、思いながら、一応、文字を目で追っていました。
なんで、「嘘だろ」と、思ったかと言えば、それは、そのお経の内容が、ちょっと、あれだからです。
身内を亡くして、精神状態が普通でない人たちに読ませられるものではありません。
私なら、5年は禁止したいところです。


厳しい場面というか、えぐい場面が近付いてきました。
心配になってきたので、ばあちゃんの死に激しくショックを受けていた叔父二名を眺めていると・・・。
50男二人が、ぐえぐえ言いながら、鼻から、目から、汁を吹き出して泣き始めました。


「そりゃ、そうなるよなあ・・・・」
と、悲しい気持ちになりました。


いくら、台湾人が漢字に強いと言っても、お経はほとんど理解できません。
それでも、意味のわかる漢字はあります。
むしろ、わかる部分だけ拾った方が、恐ろしく思えるかもしれません。
ほんの一部ですが、こんな感じです。
あえて、読めるようにも、日本語にもしませんので、わかる漢字だけ拾い読みして、内容をご想像下さい。


無間獄者其獄城周匝八萬餘里。其城純鐵高一萬里。城上火聚少有空缺。其獄城中諸獄相連名號各別獨有一獄名曰無間。其獄周匝萬八千里。獄墻高一千里悉是鐵爲。上火徹下下火徹上。鐵蛇鐵狗吐火馳逐。獄墻之上東西而走。獄中有床遍滿萬里。一人受罪自見其身遍臥滿床。千萬人受罪亦各自見身滿床上。衆業所感獲報如是。又諸罪人備受衆苦。千百 画像夜叉及以惡鬼。口牙如劍眼如電光。手復銅爪拖拽罪人。復有夜叉執大鐵戟中罪人。或中口鼻或中腹背。抛空翻接或置床上。復有鐵鷹啗罪人目。復有鐵蛇繳罪人頸。百肢節内悉下長釘。拔舌耕犁抽腸剉斬。洋銅灌口熱鐵纒身。萬死千生業感如是。動經億劫求出無期。此界壞時寄生他界。他界次壞轉寄他。他方壞時展轉相寄。此界成後還復而來。無間罪報其事如是。


死んだばあちゃんの行く末を心配する息子、娘、そして、孫たち。
そんな遺族に、地獄で苦しむ亡者の姿を朗読させたらどうなりますか?
傷口に塩を擦り込むようなものじゃないですか?
壊れますって。


このお経の後で、煌びやかな浄土のお話しである「阿弥陀経」を読みます。
「阿弥陀経」は、私も日本語読みで参加しましたが、いや、フォローにならないって。
あれだけ、ビビらせたら、「阿弥陀経」、少しも入らないって。


「これ、マッチポンプじゃん。」
「しかも、ポンプの水足りないし。」


言っておきますが、別に、悪いお坊さんじゃないですよ。
きちんとした、優しいお坊さんです。
決められたスタイルで、儀式を執り行っただけの話です。


何も仏教に限った話ではありませんが、こういうところありますよね。
マッチポンプ。
浄土教が流行ったのだって、地獄で怖がらせたからだもんねえ。
墓石の人とか壺の人よりはマシかもしれないけれど、やっぱり、良くないよねえ。


もう、やめよう、マッチポンプ。







母に「浄土真宗嫌い!」と言われた。

2020-05-28 16:29:58 | 仏教講座
ある時、両親に尋ねてみたことがあります。
「浄土真宗をどう思う?」と。
私は在家出身なのですが、両親とも、所謂「家の宗教」は浄土真宗でした。
すると、
父「生意気だ。」
私「なんで?」
父「善導だけが正しい、とか言うだろ?」
私「善導独明仏正意(善導独り仏の正意を明かす)?」
父「そうそう、そういうところ。」


次は母です。
母「私、嫌い。」
私「なんで?」
母「だって、蓮如?あいつ、女、馬鹿にしてるでしょ?そういうやつ、大っ嫌い。」
私「え?馬鹿にしてる?」
母「してるでしょ。なに?女は字が読めないとか・・・・・」
私「ああ、一文不知の尼入道?」
母「それよ、それ。本当に、失礼。女をなめてる。」


と、こんなご意見をいただくことになりました。
お聖教の文言が、意味も含めて、耳に残っているところを見ると、二人とも、法事の最中、ボーっとしていたわけでもなさそうです。


その頃、まだ、学生だった私は、ムキになって、
「いや、それは、そういう意味じゃないんだ。」
とか、反論したんだと思います。


「わかってないな、こいつら」
だとか、
「いったい、何を聞いたら、そんな風に思えるんだ。」
みたいに、
「わからない方が、おかしい」
と、思ったんでしょうね。
「なぜ、あなたたちは、もっと、きちんと理解しようと思わないんだ!」
くらいのところまで、行ってしまっていたかもしれません。


いやあ、若かったんだなあ、私。
勤行本持たせて、一緒にお勤めだけして終わったら、こうなりますよね?
「独明仏正意」だとか「一文不知」だとか、目につきますよねえ。


「なんで、わかってくれないんだ?」
ではなくて、
「なんで、伝えられないんだ、俺?」
ですよね。



「個性を大切に」は、強者の論理ではないかと思う。

2020-05-27 17:10:37 | 仏教講座
サルブツ通信で、
「個性を煽るな」と名曲『世界に一つだけの花』と我らが『阿弥陀経』をかけた、よくある法話を叱ってみたら、


≪Q≫
「死にたいヤツは死んでみろ!あっちの世界は平和だぞ」になりませんか?
というご質問をいただきましたので、お応えいたします。


≪A≫
「厭離穢土欣求浄土」
という思想ですから、浄土教は、基本則として、
「死ぬのを止められません」
というか、
「死にたい」気持ちを抑止できません。


しかし、「痛み」を共有することはできるはずです。
「痛み」から何が生まれるのかは、人それぞれです。
私の関知するところではありません。


問題は、
「社会が個性を受け入れない」
「違っていると虐められる」
という事実を棚上げして、個性を賛美するという無責任です。


社会を変えることができないのであれば、人が変わるしかありません。
「人は変われる」
「人は変わっても良い」
「人は変わるものだ」
表現はどうでもかまいませんが、仏教が教えてくれるのは、
「守るべき自分などいない」
ということや、
「変わってはいけない自分などいない」
ということです。


≪Q≫
自分で決められるなら、「死にたい」と言わないと思うのです。


≪A≫
自分以外に決められる人がいますか?
決める権利を持つ人がいますか?
他人が決めれば、人権蹂躙ですよ。


親鸞聖人の「そのままでいい」は、
「まだ、あなたには、できることがある」
ということだし、
親鸞聖人の「できることをすればいい」は、
「できることはやれ」
です。


「何もできない人など、いない」んです。



伝えなければならないのは、
「変われ!」と「逃げろ!」
と、いうことじゃないですか?
共に「痛み」、逃げる手立てを考えるお手伝いをする。
こちらで切ることのできる縄を見つけたら、そっと切ってみる。
しても良いことって、それくらいしかないんじゃないのかなあ?


もちろん、洗脳して、より縛って「死なない」ところに、当座置いておく、ということは、可能だと思います。


私には、その熱量はありませんが。