さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【往生するんだよ】

2020-06-20 23:33:34 | 仏教講座
ええ、前回は需給バランスに見る「浄土」の必要性ということについて考えて来た?わけですが、今回は、なぜ、「往生」というものが必要になったのかということを考えてみたいと思います。


「浄土」というものが建立されてしまったものの、本来であれば、「浄土」で「成仏」すれば事足りるわけで、わざわざ、「浄土」に「往生」して「成仏」すると一手間増やす必要はないのです。
「往生」逝ってよし!です。


なのですが、これ、必要だったのですね。
昔から、仏教では、修行を達成して成仏しなければならないという掟のようなものがあったようです。
「仏教は自因自果だから」
などという文脈で言われるのですが、要するに、成仏(自果)したいなら、自分で修行(自因)しろ、ってことですかね。


浄土教の場合、阿弥陀さんに助けてもらうので、修行という部分が、非常に怪しい、グレーゾーンなわけですね。
特に、親鸞聖人のお考えに従えば、修行は必要ない、全部他力、阿弥陀さんにお任せ、と、完全に修行放棄ですから、自分で修行しなければ成仏できない、ということになると、成仏できなくなります。
実際に、他宗の方から、
「真宗は行がないので、自因自果の原則に反している。よって、仏教ではない」
などと、しばしば指摘されたりもしています。


それに対して、真宗側は、
「いや、真宗にも行はある。ただ、阿弥陀さんが代わりにしてくださっているから、衆生はする必要がないんだ。」
と、反論したりもしています。
でも、反論になっていませんね。
「自因自果」になってませんから。
ま、しかし、それはどうでもいいです。
昔も今も、ややこしいことを言いたがる人はいる。
それだけのことで、議論には値しません。


今となっては、そんなことどうでもいいことだと思うのです。
「別に因(行)なんてなくたって、果(成仏)がありゃいいんだよ。結果オーライだろ?そもそも、果があるってことは、それがなんだかわからなかくても、どっかに必ず因はあるんだから。文句があるなら、お前が見つけ出せ。」
という程度の扱いで充分です。


しかし、昔はそうもいかなかったのだとも思います。
すべての人間が成仏するというのは、たいへんなことなのです。
真面目に徳を積んでいる人もいれば、何かの修行に励んでいる人もいるでしょう。
それと同様に、どこをどうひっくり返しても、「行」も「功徳」も、欠片も積んではいなさそうな人間もいるわけです。
そんな人間が成仏すると言われたら、真面目な人たちはカチンと来るはずです。
いや、絶対に来ます。
「成仏なめるんじゃねえ!」
と、いうことになります。
殺意すら抱かせてしまうかもしれません。
「俺の人生を馬鹿にするのもほどがある!」と。


命まで狙われては、堪ったものではありません。
そこで、浄土教一派の人たちは、この世で修行をする代わりに、死後、成仏を目指して修行する「場」として、「浄土」を設定したのです。
生きている間は、修行もせず、徳の欠片も積むことのなかったような人間も、死ねばそこへ行き、そこで、成仏するための仏道修行を成し遂げ、そして、成仏する。
そんな、修行の場が浄土です。
「自因自果」の達成です。


「人は死んだら成仏する」
ここに、ワンクッション入れます。
「人は死んだら浄土へ行き、そこで修行をして仏に成る」
ですね。


実は、これ、阿弥陀さん的には不必要でも、浄土教における一般的理解です。
そもそも、お経にもそう書いてありますからね。


論理的には、「死」=「成仏」なのですが、浄土で修行をして成仏するという設定を用いると、「死」が「成仏」では整合しません。
そこで、死んだら、まず「浄土」へ行く(往生)、というクッションが採用され、「死」=「往生」と定義されたのです。
「死んだらすぐ成仏するわけじゃないからね、浄土に往生して、そこでちゃんと修行するんだからね。浄土ってのは、そういう所なんだからね。甘くないんだよ。」
という建前を貫いたわけです。


しかし!だが、しかし!
親鸞聖人は気付いてしまったのですねえ。
「往生」=「成仏」であることに。
「死」=「往生」=「成仏」
∴「死」=「成仏」
⇒「往生」いらない


宗門人の方は、これは壁に埋めてください。


次回は、浄土随想ということで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0015より)


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