さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【生きてることって、ありがたいですか?】

2020-06-26 22:26:16 | 仏教講座
課題だ!
と言って、投げっ放しにしている話題に、少しだけ触れておきましょう。


「生きてることをありがたいと思わせるには、どうしたらいいのか?」
という課題ですよ。
皆さん、考えてくださいましたか?
てゆーか、皆さん自身は、
「生きてて良かった!」
「生まれて良かった!」
と、思ってらっしゃいますか?


思ってらっしゃるなら、
「なぜ、そう思えるのか?」
ということを、よくよく考えてみてください。


そうは思えないと言う方、いらっしゃいますか?
いらっしゃったら、教えてください。
全力で発剄をブチかましに行ってあげますからね。
死にそうな目にあうと、本当に、
「生きてて良かった!」
と、実感できますよ。
あ、じゃあ、これで問題解決だ。
違いますね。


「生きてて良かった!」
と、思えるのは、「生きていたい」「死にたくない」という煩悩の所為です。
その点では、「生きていたくない」「死にたい」と思っている人は、「生きてて良かった」と思っている人よりも、煩悩が少ないのかもしれません。
煩悩が少ないということは、私たちにとっては、先生みたいなものですから、よくよく話を伺って、勉強させていただく必要がありますね。
事実としては、「死にたくない」のが煩悩なら、「死にたい」のも煩悩なので五分五分なんですが、そうだとしても、「死にたい」という方からは、学べることがたくさんあります。
「生きていたい」ばっかりの私たちは、「死にたい」のが異常だと、思いこまされているのですから。


そもそも、仏教的には、「死にたくなる」のが自然であって、「生きてて良かった」なんて思えるのは、非常におかしいのです。
第1号を思い出してください。
「人生は苦である」
ですね。
だから、「こんな苦しい所には、二度と生まれて来ませんように」と、シッダールタ青年(御釈迦さま)は旅立ったのでしたね?
覚えてますか?
これ、「生まれて来なければ良かった」ってことですよね?
だから、「もう生まれてきたくない」って、思ってたんですよね?


実は、「生まれ変わる」というシステムには、人から「死にたい」という気持ちを奪う効果があります。
死んだって、また生まれてくるんですから、この苦しい世界に。
次の人生が今よりマシかどうかなんてことは、誰にも分りません。
下には下があるのです。
だから、生まれ変わりワールドには、
「苦しみから逃れるために死ぬ」
なんて選択肢など、端から無いのです。


ちなみに、生まれ変わりワールドには、「生まれて良かった」を感じさせる仕掛けも仕組まれています。
「あいつより上に、生まれて良かった!」
カースト制度、大活躍ですね。
人民を生かさず殺さず酷使するための、実に良くできた支配システムです。


そんな社会に!
「生まれ変わらないよ」
というカウンターをぶち込んだのが、お釈迦様です。
どうなりますか?


「生まれ変わらなくていいなら、早く死んだ方が楽じゃん。」
という気持ちになりませんか?


それが仏教です。


それでも、お釈迦様は、それもお見通しで、解決策も教えてくださいました。
「煩悩無くせば、苦もなくなるよ!」と。
苦が無くなれば、死にたい理由もなくなるわけですからね。


しかし!
煩悩、無くなりますか?
煩悩、減りますか?
減ってませんよね?
苦しいですよね?
辛いですよね?
死にたくもなりますよね?


と、いうのが、自然な流れですよね?
そうなのです。
仏教は、死にたい気持ちを止められない。
まず、謙虚にそこを受け止めましょう。


さらに、浄土教は、もっと大変ですよ。
「死んだら極楽って、素晴らしい所に往けるんだぜ!」
と、死にたい気持ちの背中を押してしまったのです。


ふざけて言ってるわけではありませんよ。
「捨身往生(しゃしんおうじょう)」という言葉がありますが、これ、浄土へ早く往生するために、自ら死ぬことです。
こんな用語があるということは、実際にそうした人たちが、少なからずいたということですね。
中国では、五世紀くらいから記録に残っていたと思います。
なにせ、親鸞聖人がたいへんに御尊敬されていた善導大師という方の伝記には、
「早く浄土に往きたいので、柳の木から身を投げて、捨身往生を遂げた」
と、いうことが書かれているものもあるのです。


事実かどうかは不明ですよ。
おそらく事実ではない・・・と思いたいです。
しかし、そのような記録が、善導大師を顕彰するために書き残されたということから考えれば、そのような最期が理想的な姿であるという認識が存在した、ということです。


こんな仏教を学んで、「生きてて良かった」なんて思えますか?
思えそうにないので、次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0023より)

【宗教嫌いの謎】

2020-06-26 15:31:08 | 仏教講座
別に謎なんてないんです。


「坊主嫌い」という人には、「嫌い」な原因があります。
その原因なら、私だって実例を上げ乍ら24時間語り続けることができます。


「宗教団体が嫌い」という人にも、「嫌い」な原因があります。
過分に八つ当たりである傾向もありますが、許容範囲内だと思います。
腐ってる団体、多いです。


しかし、「宗教嫌い」と言う人のほとんどは、アホだからそう言うのです。
間違いありません。
何故か?
「宗教嫌い」な人達の圧倒的多数は、宗教について、ほとんど何の知識もないからです。
良く知りもしないのに批判するのは、頭が悪いだけでなく、人間としての品性にも欠けていると言わなければなりません。
前から歩いてきた見知らぬ人に、突然、「俺、あんた嫌い」と言うのと同じですからね。


「宗教なんて必要ない」と、言う人も同じですね。
たいていの場合は、頭の悪い人ですね。
必要があったから生まれたたわけですから。


そういう人は、
「神様なんて、所詮人間が作ったものだから、人間の方が偉いんだ。」
などと、吠えたりもしますが、愚かですねえ。
作ってないんですよ、人間は。


人間がしたのは、名前を付けることだけです。
出会ってしまった不可解な現象や、理解を越えた働きに、人間は名前を付けたのです。
人知を超えた、制御不能な力に、畏敬の念を込めて、名前を付けたのです。
そして、抗うことのできない力と親和する為に、信仰の対象としたのです。


人間は「神(仏)」を「創造」したのではなく、発見して名付けたのです。
だから、その「神(仏)」が、この世の創造主であるような大きなというか、宇宙レベルというか、グローバルというか、ま、とにかく、そんな「神(仏)」であった場合は、世界各地で、複数の人間に発見されます。
世界のどこかで、誰かが発見し、それぞれに名を付けられます。
後は、それぞれの地域に特有の歴史や文化、社会構造に育てられ、独自の宗教体系を持つ「異なる宗教」として育ち、今日に伝えられたりもしているわけです。


人間が作った「神」は、けっして「神」ではありません。
それは、政治や権力の道具にすぎません。


東照宮だとか、豊国神社だとかありますが、徳川家康や豊臣秀吉が「神」になったわけではありません。
彼らが死んで成ったのは、「仏」ですからね。
東照大権現様は、幕府が作った支配ツールなので、間違っても「神」ではありません。
だから、東照宮や豊国神社は、彼らを祀った仏壇だと思えばよろしいかと思います。
仏壇ですから、そのつもりで、敬意を持って手を合わせるべきだと思いますけどね。
「南無阿弥陀仏」です。


かつては、日本にも、発見され、大切に護られてきた神々が、大勢いらっしゃいました。
今となっては、どこへ行かれたかわからない神々や、忘れ去られた神々が大勢いらっしゃいます。
「神仏分離」「廃仏毀釈」「国家神道化」「神社合祀」などなどの、明治政府の暴挙によって、日本人の信仰形態は滅茶苦茶にされてしまったのです。


壊されたのは仏教だけではありません。
むしろ、神道の方が被害は大きかったのではないでしょうか。
なにしろ、その土地で発見され、その土地ならではの方法で、大切に信仰されてきた神様たちが神社から追い払われて、神だかどうだかわからない古事記や日本書紀の登場者(神もいらっしゃるとは思います)たちが、神殿に押し込まれたんですから。
その上、そこで神様が発見された、という証でもある土着性まで、経費削減のための強制的な引っ越しで奪われて、身も心もズタボロにされ、形骸化されてしまったのです。
政府が政治利用のために社に押し込んだ神など、神ではありません。
もう元には戻せませんが。


一例だけ上げると、「八坂神社」や「津島神社」は「牛頭天王社」ですからね。
「素戔嗚神社」なんかじゃないんです。
「牛頭天王社」だから、ドラマがあるんです。
「祇園祭」のドロドロなドラマが深く味わえるんです。
「祭神スサノオノミコト」では、薄っぺらなドラマですら描きようがありません。


だから、私は、維新の志士と呼ばれる人たちが大嫌いです。
明治政府を作った輩は、日本人の心と信仰を壊した大罪人だと思っています。
明治政府によって心が破壊されたことで、日本人の信仰心が形骸化してしまったのではないか?とさえ思います。


まあ、もとを糺せば、仏教にしても、神道にしても、国家権力と一体化して、権門として君臨していたわけですから、政権が代われば滅ぼされるのが当然ちゃ当然なんですけどね。
一番の被害者は、全国津々浦々にいらっしゃった、それでも、それぞれの土地で大切に護られてきた、名もなき神様仏様方かもしれません。


て、なんか、話が飛びましたが、本日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0022より)