さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【死と成仏 その1】

2020-06-18 20:57:31 | 仏教講座
こうしてみると、重々しいテーマに見えますね。
けっこうなことです。
問題は、いよいよ核心へと迫ってまいりました、のか?


そんなことは、どうでもいいのですが、本日は、
「なんで、死ぬと成仏するの?」
ということについて、考えてみたいと思います。
とりあえず、「往生」「浄土」は後回しにしますね。
触ってしまうかもしれないけれど、基本、今回は触れません。


「成仏」って、どういうことですかね?
「仏に成る」ということですね。
そうすると、「仏」とは何か、ということを理解しておかなければなりません。
「仏」くらいわかるって?本当に?
意外と、これ、わかってることにして捨て置かれている場合が多いですよ。
大丈夫ですか?
大丈夫ではない、と仮定して、話を進めます。


まず、前提として、
「目覚めた人」=「仏陀」=お釈迦様(人間)、という場合の「仏」、つまり、お釈迦様(人間)を「仏」と敬称する時の「仏」と、大乗仏教が生み出した、働きとしての「仏」、つまり、象徴として名付けられた「仏」とは、本来、まったく別物であるということを充分理解しておいてください。


つまり、仏教には、定義の全く異なる二種類の仏、お釈迦様(人間)と、それ以外の「仏」という二種類の「仏」いう概念が存在しているということです。


経典類の中には、この二種類の「仏」が、意識的にだか、そうでないのだかはわかりませんが、区別されていたり、されていなかったりしながら混在しています。
ごっちゃごちゃ、です。
だから、読み手、つまり私たちは、その区別をしっかりと忘れずに、物事を整理していかなければなりません。
それができないと、余計にごっちゃごちゃになって、ごっちゃごちゃのまま終わります。


練習のために、ここでは、私も、二種の仏概念をごっちゃ混ぜのままでお話しいたしますので、皆様、区別してみてください。


それでは、「仏」の定義を確かめていきましょう。


1「煩悩が無い」
2・・・・・・・・・?
2・・・・・・・・・・・・・?
2・・・・・あれ?


・・・・・・・思い浮かばない。
思い浮かびますか?


思い浮かばないので、とりあえず、「煩悩が無い」ということについて考えてみましょう。
人間以外のことまで考えるとややこしいので、人間に絞りますね。


「煩悩」というか、欲の源は、人間の「生存本能」です。
生き残ろうとする本能が、煩悩として発露しているのです。
人間のあらゆる営みが、煩悩のなせる業であると考えても良いでしょう。


食う、寝る、働く、勉強する。
自殺するのも、人助けをするのも、煩悩のなせる業です。


人助けは、自分の為ではないのだから、「欲」があってはできないでしょ。
と、思われるかもしれませんが、生きている間の人助けは、自己顕示欲だったり、自己達成欲だったり、何かは人それぞれでしょうが、何らかの欲の所為でしているわけです。
社会的善悪で言えば、煩悩は、良い方にも、悪い方にも働くのです。


だから、生きている限り、人間から煩悩は無くなりません。
ということは、死んで人間でなくなった時、その人と共に、その人の煩悩一切が消え失せます。
煩悩が無くなったのだから、「仏」になりましたね。


ちょっと待て!
じゃあ、「成仏」するというのは、何も無くなるということか?
そうとも言えます。
と、お答えしても、もう、みなさん大丈夫ですね?


何も無くなるけれども、永遠に無くならない。
「仏」は永遠ですからね。
あ、そうか、じゃあ、これ2だ。


2「永遠」(仏は死なない、と覚えてくださってもけっこうです)


それでは、次に、働きの面から、「仏」を考えてみましょう。
親鸞聖人は、阿弥陀如来と人を繋ぐ働きをする「人でないもの」を「諸仏(阿弥陀さん以外の仏様)」と定義されています。
生きている人間が阿弥陀さんと人とを繋ぐ働きをしていたとしても、それを「仏」であるとは、断じて考えません。
それは、もう、絶対に考えてはいけません。


生きている人間は、立場はどうであれ、それに「煩悩」で取り組んでいるからです。
多くの場合は、お金(生活)の為であったり、名誉の為であったり、自己満足の為であったりしますが、いずれにしても、自分の欲を満たすための仕業ですから、「仏」とは断絶しています。
あくまでも、阿弥陀如来と人を繋ぐ働きをする「人でないもの」が「諸仏」です。


これまでの日本の習慣で言えば、たいていの場合、人は死んだ瞬間から、仏(直接的に阿弥陀如来でない場合もありますからね)と人とを繋ぐために、お仕事を開始されます。
枕経、通夜、葬儀、中陰と、仏と出会う場を、残された人に設けてくださいます。
現在のそれらが、仏と出会える場になっているかどうかは、甚だ疑問ではありますが、亡くなった方は、懸命にその機会を与えようとして、働いておられます。
いかがでしょうか?
これ、亡くなった方が「仏」として働いているわけですから、成仏の証拠だと言えませんか?


だからこそ、せっかく「故人(成仏済)」からいただいた機会を最大限に活かすために、僧侶が、本来、係る謂れのない通夜や葬儀や先祖供養に係るようになり、そればかりか、それを導師として執り行うようになったのです。
「諸仏」が、人と阿弥陀様を繋ぐのを、お手伝いさせていただいているわけですね。


ちなみに、親鸞聖人のお考えでは、阿弥陀様でない仏様や神様も、阿弥陀如来と人を結ぶ方便だと位置付けられていますから、葬儀が阿弥陀様でなくとも、それぞれの御本尊を通して最終的には阿弥陀様とつながるので、他宗であろうが他宗教であろうが、例外とはなりません。
亡くなった方は、死の瞬間に仏と成り、仏としてのお仕事を開始されるのです。


そんなわけで、
3「阿弥陀如来と人間を繋ぐ働きをしている」
と、いうことにしてもよろしいですか?


整理しましょう。
人は死ぬと「煩悩が無くなり」、縁起に還元されることによって「永遠」を手に入れ、「阿弥陀如来と人間とを繋ぐ」ために、働き始める。
これ、「成仏」したと言ってはダメですか?


次回は、生きている人間側からも、「成仏」ということを考えてみたいと思います

(見真塾サルブツ通信Vol.0012より)

【人は死んだらどうなるの?】

2020-06-18 13:04:45 | 仏教講座
「人は死んだらどうなるの?」
「人は死んだら仏になります。」


ま、そういうことです。
もう少し詳しく言えば、
「人は死んだら、浄土に往生して、仏に成る。」
これ以上は、詳しく言えません。


ちょっと、待てや!
そう言われても、これ以上のことは・・・・・。
そうじゃないですか?


私、お釈迦様が死後のことについて、何も仰らなかったのは、
「死んだら何も無くなる」
と、思われたくなかったからではないかと思うのです。
お釈迦様の時代には、今、我々が考えるような「仏」という概念もありませんでしたし。
困っていらっしゃったのではないかと、思うのです。


と、言うのも、「死んだら何も無くなる」というのも、あながち間違いだとは言えないからです。
間違いではないと言うか、実際、何も無くなるんですね。


例えば、Aという人が死んだとします。
Aという人は、その肉体とともに、思いも、恨み辛みも、喜びも悲しみも、そんな、Aという人の一切合切は、この世界から消え失せてしまいます。
骨は残るかもしれませんが、それは、Aという人ではなく、Aの遺物という、単なる物でしかありません。
それが、Aという人の「個」としての「死」です。
「個(人間)」としてのAは、跡形もなく消え失せます。


「故人の意思で」という台詞を耳にしますが、それは「故人の意思」を受け止めて実行しようという、生きている「他人(その人でない人)」の意思であり、故人の意思などではありません。
その証拠に、「故人の意思」というものは、しばしば捏造されるものです。
正式な遺言書であれば、故人の意思じゃないか?とか言います?
それは、生きていた、ある時点での、その人の意思が書かれた「物」であって、その人ではありません。
ましてや、その人が死後も同じ意思を持ち続けているかどうか、の確認もする術はありません。


死んだら何も無くなります。
それが、仏教が考える第一義的な死の姿です。
そのため、「仏教は唯物論だ」と、言う人たちもいます。


「人は死に、その肉体と共に無に帰する」


この命題は「真」であると言えるんです。
しかし!仏教は、そこでは終わりません。


「人は死に、人としての一切は無に帰するが、縁起(の一部)として、永遠に働き続ける」


これが、縁起という方程式に則った、仏教の死観です。
人は死んで無に帰するが、その人が生前に結ばれた縁は、どこまでも繋がり続け、その人が忘れ去られたとしても、永遠に消えることは無い。
と、言うことができますね。


「人は、縁起によって生じ、死によって縁起に還元される」
とも、言えますね。


先に、「故人に意思など無い」と言いましたが、故人が死ぬ前の意思が、その人と縁が繋がれた「他人」に継承される、ということは、普通にあります。
例えば、故人であるAさんの「生前の意思」を受けて、Bさんが、「故人の意思」としてAさんの意思を遂行する、というような場合ですね。
しかし、それは、Aさんの影響であったとしても、Bさん自身の意思で遂行されるのであって、Aさんという「故人の意思」で遂行されるのではないのです。
それが「Bさんの意思」ではなく「Aさんの意思」で遂行されたと考えるのは、美談ではあっても、責任転嫁でしかありません。
その場面でリアルタイムで働くことのできる「A(故人)の意思」など、存在しないのです。
こういったことの峻別ができないと、論理は組み立ちませんからね。
注意してください。


ただし!私は意地悪なので、皆さんを混乱させたいと思います。
あくまでも、上の論理を踏まえて、ということですが、
「Bさんが、Aさんの死後も、生前のAさんの意思を尊重しようとした」
という事実は、縁起に還元されたAさんが、実際に縁起として働いている証拠になるんじゃありませんか?
Bさんが、「ある意思」を持つに至った「縁」となって現働しているわけですからね、無になったはずのAさんが。
こういうの、怖いですよ。
末代まで祟ったりもできますからねえ。


次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0011より)

【阿弥陀如来を考える その7】

2020-06-17 15:40:41 | 仏教講座

結局、終わりませんでした。
やはり、この問題は込み入ってますね。
様々な角度から、複合的に論理を組み立てる必要がありますね。
完全に理解するために必要なパーツが多すぎるのです。
なので、骨格だけに絞ります。


少し方向性は変わるかもしれませんが、そのうち繋がります。


阿弥陀如来の御利益は、
1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
という三つの普遍則(誰にでもあてはまる)で表現できると思います。


「生まれて、生きて、死ぬ」のが人間ですから、人生すべてが、阿弥陀様からの「いただきもの」と考えるのも間違いではありません。
そもそも、阿弥陀如来の定義に従えば、この世界のすべての事象が、阿弥陀様の御利益として存在するわけですからね。


しかし、すべての人に、例外なく共通する事象となると、「生まれて(過去)、生きて(現在)、死ぬ(未来)」ということになります。
よく、「生・老・病・死」と言いますが、「老・病」は無い場合もありますからね。
「誰でも老いる」や「誰でも病む」は、デリカシーに欠ける表現であるだけではなく、論理的には誤りです。


余談ですが、「浄土真宗は二益法門である(御利益が二つある)」ということを、特に伝統的教学を学んだ人が、よく仰るんですが、ご存じですか?
現代教学の人でも、けっこう仰るような気もしてきました。
「それでは一益しかないから、異安心(間違った教え)だ!」
だとか、
「真宗は二益だから、浄土宗とは違うんだ!」
みたいな使われ方をしています。
もはや、ナンセンスなので気にしないようにしてください。


そもそも「二益」というのは、
(WikiArcよりパクリ)
「現益げんやくと当益とうやくのこと。現生において受ける利益を現益、当来において受ける利益を当益という。浄土真宗では、現在世(此土)において正定聚の位に入る現益と未来世(彼土)において大般涅槃をさとるという当益を説く。」


ということなんですが、「過去・現在・未来」という時間軸で考えるなら「過去」または「過去世」を落としているので、阿弥陀如来の永遠性が損なわれます。
別に幾益あっても良いのですが、そういう意味なら「三益」です。
また、「阿弥陀様のおかげで」という視点で考えると、すべてが阿弥陀様のおかげで、細かく分別などできないので、「すべて」で括れば一益です。


さらに、上の解釈を日本語に翻訳すると、
現益「浄土往生が決定すること」
当益「往生して成仏すること」
と、なるのですが、「往生」=「成仏」なので、事象としては「往生」一つしかありません。
従って、有意味な解は「往生」という「一益」です。


細かいことを言って申し訳ありません。
私、皆様に、「おかしいことをおかしい」とお伝えできないのであれば、異安心でいいです。


話を戻します。


1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
が、阿弥陀様の御利益(阿弥陀如来に救われることの表象)だと、申し上げてはおりますが、これ、本当に御利益でしょうか?
ありがたいですか?
3については、まだ判断できませんが、私は、1と2については、まあまあ、ありがたいと思っています。
皆様はいかがですか?


そうなんですよ。
これ、ありがたいとは限らないんですよ。
1「生まれて来なきゃ良かった」
2「早く殺せ」
3「地獄だって、今よりゃましだ」
などと、お思いの方は、少なからずいらっしゃるような気がします。
それが、実は、大問題なわけです。
「生きてる」ことが嫌でしょうがない人に、生きてる「原因」である阿弥陀様が「ありがたい」なんて思えるはずがありません。
まずもって、
「生きてることがありがたい」→「生かしてくれてる阿弥陀さんがありがたい」
というところまで、人々を誘導しなければ、何も始まらないのです。


自分の人生を好意的というか、ポジティブに受け入れるところまで連れて行き、そこからスタートしてもらえなければ、この世を生きる苦しさは、微塵も減らすことができないのです。


これが、浄土教(阿弥陀様にたすけていただこうという教え)が、出発の時点から抱え、そして、現在も抱え続けている、最大の課題なのであります。
しかも、これは、私たち僧侶に与えられた課題です。


さあ、どうしましょうか?
答を期待しないで下さいね。
永遠に出ませんから、これ。
体当たりで、試行錯誤を続けていくしかない、そんな課題です。
「念仏」だとか、「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」の刷り込みも、そんな中で編み出された手法かもしれませんね。
調べてませんから、もしかすると、ですよ。


それでも、
「阿弥陀様に生かされて生きる私である」
という出発点に立つことさえできれば、その世界観で社会に向かうことができれば、分量は量れませんが、必ず、煩悩に負ける割合が減り、同時に、この世を人として生きる「苦」も減ります。
それは、論理で証明することができます。


問題は、出発点に立つことができるかどうか、それだけです。
まずは、自分がそこに立つ。
そして、人をそこに立たせるために、悪戦苦闘しましょう。
二千年も前に先輩方が始めた戦いです。
親鸞聖人も参戦され、江戸時代に甘え、忘れ去られた戦いです。
四百年ぶりに再開しましょう。

阿弥陀さん、ありがたいからね!

(見真塾サルブツ通信Vol.0010より)

【阿弥陀如来を考える その6】

2020-06-17 09:51:37 | 仏教講座

このシリーズ、長くなってきた上に、ほかに話したいことも出てきたりしているわけですが、大切なことなので、頑張って続けましょう。
飽きないでね。


前回、お話ししたことをまとめると、
阿弥陀様の救済であるところの、「人間の死=成仏」という方程式は、「人は死んでも生まれ変わらない」というお釈迦様の発見に、大衆を誘導するための方便である、という側面を持つ。
と、いうことになりますね。
他の側面は、おいおい考えましょう。


それでは、今回は、残された、前前号の「②③」と「2・3」の関係について、考えることにしましょう。
兄さんと兄さん?
ま、兄というのは、やっかいなものです。


阿弥陀様の救済は、
②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」
③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」
でしたね。
お釈迦様の教えは、
2 ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。
3 そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。
でした。


ちょっと、その前に、一つ確認しておきます。
今、お話ししているのは、「阿弥陀如来を救済主とする仏教の一派(浄土教)」の中でも、「親鸞聖人が理解した浄土教」からの視点であって、仏教と称されるすべての立場に通底する視点ではありませんからね。
まあ、するかもしれないけれど、ふふふ。
とにかく、「人間は死んだら、一人残らず成仏する」と、考える立場だと、覚えておいてください。
仏教は魔物ですから、立場がぶれると迷路で迷い続けることになります。


さて、話を戻します。
兄さん問題を、もう少し整理しましょう。


「②③」まとめます。
あ、これ、別にまとめなくてもいいね。


それでは、気を取り直して、「2・3」まとめます。
「今生の苦しみを無くすため、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きなさい」
ということですね、要するに。


はい、これをまた分解します。
は?とか、凄まないでください、無視します。
要素は三つですね?
「欲を克服する」
「執着しない」
「苦しみを無くせ」
これ、実現可能ですか?
現実的には、どんなに頑張っても、
「欲には勝てない」
「執着してしまう」
「苦しみは尽きない」
ですね。
まあ、頑張ってない私が言うのもなんですが、無理です。


煩悩を消し去り、この世の苦しみから離れてしまった方を「仏」といいますが、生きている限り、私たちには、煩悩を消し去ることなどできません。
繰り返しますが、無理です。
だって、生きてるんだもん。


「欲」というものは、すべからく「生存本能」に起因するものです。
つまるところ、欲があるから、生きていられるんです。
種族としての人類も、滅びていないのです。
だから「欲には勝てない」し、「執着してしまう」し、したがって「苦しみは尽きない」ということになるわけです。
仕方ないことです。
人間は、弱く、愚かな生き物なのですから。


で、そこにお立ちになられたのが親鸞聖人なのですが、お釈迦様の教えを実践して達成することが「無理」だということには、大昔の先輩方も薄々勘付いていらっしゃったのだと思います。
だからこそ、「自分では無理だから仏様を頼ろう!」ということで、仏教が宗教化したわけですしね。
そこから、それぞれが、それぞれに、思いつくまま散り散りに、思考を拡散させていったのでしょう。
そんな中、阿弥陀如来を担ぐと決めた人々は、
「欲は無くならないかもしれないが、減らすことはできるんじゃないか?」
と、考えたのではないでしょうか。
どうやって?
阿弥陀如来の働き、つまりは、阿弥陀さんの御利益で。


以下、フィクション


C「あのさ、死んだら成仏するのはいいよ。それで、生まれ変わらないんだからさ。でも、生きてる間はどうなるの?何か、いいことあるの?」
B「さあ。」
C「軽く言ったね?いいの?そんなに軽く考えて?」
B「軽くも何も、そんなこと考えたこともないってば。」
A「考えろよ!俺は考えてるよ。」
C「え?そうなの?何?教えて?」
A「いや、考えてはいるが、まだ、何も、思いつかない。」
B「なんだよ。それなら、私と同じじゃないか。」
C「いや、違う。考えてるだけ、あんたよりまし。」


不服そうな顔で、何かを言おうとするBをAが遮る。


A「まあまあ、そんなことはどうでもいいよ。でもな、これ、けっこう大事なことなんだよ。」
B「なんで?」
A「お釈迦様は、煩悩を除滅して、この身の苦しみから離れよ、と仰った。それが、教えだ。」
B「だけど、煩悩は無くならないよ。おまえ、無くなった?」
A「そんなわけないだろ。無くなりゃ苦労しないよ。」
C「あ、それ、いろんな意味で正しいな。」
A「茶化すな!」
C「ごめん。」
A「とにかく、煩悩が無くならないとしてもだ、減らすことくらいはできるんじゃないか?」
B「お前、減ったか?」
A「それ、聞くか?」
B「だって、減らせるって言うから。」
A「そういうことじゃないんだってば、阿弥陀さんだよ、阿弥陀さんの御利益で、煩悩も、こう、減らせないかなあ?そうすれば、みんな、阿弥陀さんを信じるんじゃないか?ということを考えてるわけよ、私は。」
C「そうだよね。御利益ないと、信じてくれないもんね。成仏できるったって、死んだ後だしね。」
B「成仏だって御利益だろ?」
C「だけどさ、死んだら成仏させてくれるってだけで、みんな、ついてくると思う?それだけ信じて、苦しいのを我慢できる?ってかさ、ただただ苦しんで、我慢して、死ぬ時を待ってろ、なんて、そんな仏様、信じたいと思う?」
B「あ、それ、私、無理だ。だって、苦しいの嫌だから出家したんだもん。」
A「そういうことだよ!だから、苦しいこと減らせないかと言ってるの、阿弥陀さんの御利益で。」
B「そういうことか。わかったよ。考えよう。」
A「お前、本当は、苦しんでないんじゃないか?」
C「ねえ、前にさ、阿弥陀さんは平等かつ無条件だ、って言ってたよね?御利益も?」
A「まあ、それはそうだろうなあ。成仏も御利益だし。救われない奴が出ると、理屈が通らなくなるからな。」
C「じゃあ、さあ、とりあえず、誰にでもある良いことって、何?」


腕を組み、頭を搔き、考え込む三人。


B「わかった。結婚。」
A「俺たちできないだろ!」


再び考え込む三人。


C「じゃあ、どんな人間にも、必ずあることって何?」
A「死ぬ?」
C「それって、良いこと?」
A「成仏ならね。」
C「ああ、そうか。」
A「もう、決まってる方の御利益だけどな。」
B「死ぬなら、生きてるよな、死ぬまで。」
C「うん。生きてる。それも、みんな同じだな。死ぬまでは生きてる。」
B「で、生きてるということは、生まれたということだよな。」
C「そりゃ、生まれただろう。生きてるんだから。」
B「誰でも生きてるよな?」
C「?なんか、それ、おかしな気もするけど、生きてなきゃいないわな。」
A「なあ、なんで生きてるんだ?」
BC「縁起?」
A「じゃあ、なんで生まれた?」
BC「縁起?」
A「て、ことは、だ・・・・・」


Aが勿体を付けた。
BCは顔を見合わせた。


BC「あ!」
A「そうだよ。生きてることも、生まれたことも、阿弥陀さんのおかげだということじゃないか?」
BC「おお!」
A「阿弥陀さんの御利益で、生まれて、生きて、成仏する。完璧じゃね?」
C「ん?・・・・ちょっと待って。それで、煩悩、減る?苦しこと、減る?」
A「へ、減らないか?」
C「減らない気がする。」
B「人生って苦しいんだよな?生まれて来たから、苦しいんだよな?いっそ、生まれてこなければ苦しくなかった。・・・・・違うか?」
C「阿弥陀さん、余計なことしたなあ・・・・・。」
A「そう言われると、確かにそうだよなあ・・・・。でもな、「生まれて・生きて・死ぬ」、それ以外にすべての人間に平等に起こる出来事ってあるか?」
C「ん・・・・・、思いつかない。」
A「そうだろ。だから、これでなんとかしようや。」
B「なんとかって?」
A「だから、死ぬのは問題ないだろ、苦しいのは終わるし、成仏もできるしで、どちらにせよ、めでたしめでたしだ。阿弥陀さんの御利益だよ。問題は、生きてる方だよ。これがさあ、生まれてこられて良かった!だとか、生きてて良かった!だとか思えたら、ちょっとは、苦しくなくなるんじゃないか?で、それが、阿弥陀さんのおかげだということになれば、阿弥陀さんありがとう!って気になるんじゃないか?」
C「言いたいことはわかるけどさ。そんな風に思えるか?」
B「苦しいよなあ、人生。」
A「そう言わずに、考えようぜ。生まれて良かった!生きてて良かった!って、阿弥陀さんのおかげです、ありがとう!って気持ちになれる理屈をさ。」
B「そんなの無理だろ。お釈迦様でも、人生は苦である、って仰ってるんだから。」
A「無理じゃないって、何か手はあるって。」
C「じゃあ、さあ、とりあえず、言わせちゃったらどうよ?ありがとう!阿弥陀さんありがとう!って。そうすればさ、言わされた方は、そのうち、段々その気になって来るんじゃね?」
B「一万回も言わされたら、本当に、そんな気分になるかもな。」
C「だろ?阿弥陀さん大好き、大好き、大好き、って、百万回言わされたら、マジで好きになるって。」
A「百万回か・・・・・・・。」


こうして、眠れないインドの夜は、静かに更け行くのであった。


以上


色々と考えてみてくださいね。
盛りだくさんです。
まとめは次回!

(見真塾サルブツ通信Vol.0009より)

【阿弥陀如来を考える その5】サルブツ通信0008

2020-06-16 21:23:21 | 仏教講座
【阿弥陀如来を考える その5】


前回は、阿弥陀様の「救済」の内実(具体相)として思い浮かぶこと、
①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
と、お釈迦様の教え、
1 「人間は死んだら生まれ変わることはない。」
2 「だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。」
3 「そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。」
が、密接に関係しているというところまで、お話ししたかと思います。


ちょっと、理屈っぽくなってますねえ。
つまんないかもしれません。
ごめんなさい。
でも、はじめに、必要な方程式を頭に叩き込んでおくことで、今後の学習が可能になりますからね。
我慢して、知恵熱が出るくらい考えてみてください。


本題に戻ります。


まず、①には「1を人々に理解させるための方便」であるという側面があります。
側面でなく、そうだと言い切っても良いのですが、そのほかにも役割があるため、ここでは、側面ということにしておきます。


説明します。
お釈迦様は、「人は死んだら生まれ変われない」ということを発見したわけですが、「人が死んだらどうなるのか?」という問いには、お答えになりませんでした。
「無記」というやつですね。
「それは言わない」ということです。
お釈迦様、けっこう、いけずです。
まあ、言えなかった理由があるのかもしれません。


さりとて、だからわからないのかと言えば、そんなこともありません。
縁起という方程式をあてはめれば、答えは出てきます。


ところが、論理的だと言われるインド人でも、そこのところは、あまり論理的に考えようとしなかったようです。
なぜだかは、知りません。
結果。
「人が死んだらどうなるのか?」という問いの答を、お釈迦様がお説きになられなかったせいで、喧々諤々の論争が引き起こされ、お釈迦様のシンプルな教えは、あっと言う間に、ワンダーランド化してしまうのです。
論理など無視したところから、皆が勝手に考え始めたんですねえ。
印度に日和って、お釈迦様が否定された「輪廻」する世界観に戻ってしまった人が多かったのではないかと想像します。
ちなみに、私は、そのような現象を「インドがえり」と呼んでいます。


仕方ないですね。
民主的でない社会で、社会常識に歯向かうのは命がけですから。
責めてはいけないと思います。


責めはしませんが、決着はつけましょう。


A「人は死んだら生まれ変わらない。」
B「じゃあ、死んだ後はどうなるんだ?」
A「仏になるんだ。」
B「誰でもか?」
A「誰でもだ。」
B「それなら、仏が死んだらどうなるんだ?」
A「仏は死なない。」


ひとまず、こんな感じです。
「仏になる(成仏)」とはどういうことか?
だとかは、いずれお話しするので、今のところ、こんな風に思っていただければいいと思います。


死なない仏になってしまえば、その後のことを考える必要はありませんからね。
「輪廻」の強制終了です。
それに、もともと、輪廻の輪から「解脱」した人、つまりは、輪廻しない人が「仏陀」ですから、インド的にも問題がないんじゃないでしょうか。


しかし、これ、一つ問題がありますね。
すべての人間が成仏できるというシステムでないと、意味をなさないんですね。
成仏できない人ができてしまうと、輪廻を強制終了させられないんですよ。
だから、逆説的に言うと、それで、すべての人間を成仏させる仏様が必要になったのだと思うのです。


以下、フィクション
A「おい、みんな成仏させちまえば、生まれ変わるとか言わなくなるんじゃないか?」
B「ああ、確かになあ。仏は死なないからなあ。生まれ変われないわな。」
C「いや、そうだけどさ。どうやって、みんな成仏させるの?そんなたいそうなことしでかせる仏様、知ってる?」
A B「うーん・・・・・。」
しばし考え込む三人。
A「そうだ!いないならさ、作っちゃったらいいんじゃね?」
C「作るって言ってもさあ、そんなに簡単に作れる?」
B「どんな仏さんならいいんだ?条件は?」
A「それは、すべての人間を成仏させられる仏さんなんだから、大きくないとなあ。」
Bが両手を大きく広げて言った。
B「こんぐらい?」
C「バカ!そんなわけないだろ!もっとだよ。もっともっともっと、ずーっと!」
B「それだって、大したことないだろ。めちゃくちゃたくさんいるんだぞ、人間なんて。」
A「ほら、この前、龍樹が言ってたじゃん。なんだっけ?ほら?」
B「空なる如来か?」
A「そうそうそうそう。あれ、でかそうじゃないか?」
CB「そうか?」
A「そうだよ。無限に繋がるとか言ってなかったか?無限ならさ、ガンジス川の砂粒の数より多いだろ?」
B「それはそうだなあ。無限、だからなあ。」
C「あっ!」
と、突然、Cが立ち上がった。
C「ちょっと、今、無限て言ったよな?」
B「言ったけど?」
C「俺、知ってる。なんか、その、無限っぽい名前の仏さん。」
A「本当か?」
C「確か、波斯の方にいたんじゃなかったかなあ、神様か仏様か知らないけどさ、無量寿だか無量光だかいうの」
A「無量寿?」
B「無量光?」
AとBは、思わず顔を見合わせた。
AB「いいねえ!」
こうして、阿弥陀如来は、遠くペルシャから仏教世界へとお引越しされ、「仏説無量寿経」という経典が、作られたのであった。
以上


ペルシャは、日本からは遠いのですが、インドからは、それほど遠くありません。
なんだか、長くなってしまったので、続きは次回。