さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

信心大好き?ああ、そうですか。

2020-06-01 13:14:39 | 仏教講座
浄土真宗には「信心決定」という言葉が大好きな人がたくさんいるようです。
まあ、蓮如上人がしつこく仰るもんだから、かもしれません。
浄土真宗は「信心為本」(ある意味正解)だとか、解説してあるしね。


「信心を定めなきゃダメだ!」
「あんたは、まだ信心が定まってない!」
だとか、未だに耳にすることがあります。


定まりますか?
ずっと、フラフラしてますよ、私。
もう、どうしようもないです。
始終、グラッグラにグラつき通しですよ。


「(自分の)信心が定まった。」
なんて力強く思ってたら、それは、勘違いか、慢心。
「俺、洗脳されてるんじゃね?」
と、考え直した方がいいです。
秘密結社か!というお話です。


あ、私、作りたいです結社。
「念仏結社さるぶつ団」


それはそうとして・・・・・・。


「(人間の)信心が定まること」が「成仏」の条件ということになると、阿弥陀様は、阿弥陀様でなくなってしまいます。
私は、阿弥陀様は、無条件・無分別・無選別・平等に、すべての人間を成仏させて下さると考えております。
それを、まず、ご了解いただきまして、百歩譲ってですよ、
「阿弥陀様は念仏すれば成仏させて下さる」
と、仮定してもですよ、そこで、「念仏の質」が問われることなんて、ありますか?


あってはならないんですね。
「念仏衆生、摂取不捨」
ですからね。


「念仏すれば救われる」
それが、浄土教ではないですか?
それ以上に何を求めるの?


根本聖典である『仏説無量寿経』に従えば、
「念仏すれば」ではなく、「念仏を聞けば」だとも言えますが・・・・・。


いずれにせよ、「往生浄土」や「成仏」に、お念仏以外の条件を付けたら、阿弥陀様は阿弥陀様でなくなってしまいます。
親鸞聖人の御和讃にもございますね。


「摂取して捨てざれば、阿弥陀となづけたてまつる」


「信心」に執着すると、阿弥陀様がおいでにならなくなってしまいますよ。