サンズ・トーク

同志社創立者、新島襄さんの妻女

新島襄さんについては、昨日、このブログでふれたのだが、その妻女がまた凄い人物だったのだ。

彼女は、会津藩の砲術師範役山本家の三女、山本八重さん。
会津藩主は幕府の京都守護職に任じられた山内容保。
慶応4年、戊辰戦争が勃発し、鳥羽伏見の戦いに破れ、徳川幕府が大政奉還したのち、官軍が会津に侵攻、鶴が城を包囲した。
会津方は城に篭城し、八重も城に立て籠もった。
城では女が軍に出ることは敵に侮られるということで、参戦を禁じられたが、弟が鳥羽伏見の戦いで戦死したので、その装束を着て男装、山本三郎と名乗って刀を腰に、新式スペンサー銃をもって1ヶ月のあいだ篭城戦を戦った女傑であった。
砲術師範の娘だったので、砲や鉄砲の扱いは、見よう見まねでできたらしい。
若者に鉄砲の撃ち方を指導し、引き金を引くたびに砲声に目をつぶるので、臆病ものには教えないと叱ったらしい。
1ヶ月ののち、敗軍となって彼女は城を落ちる時、城の壁に和歌を書き残した。

明日の夜は 何国の誰が 望むらん なれし御城に 残す月影

戊辰戦争で最も有名な歌だという。
土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の「荒城の月」は、滝廉太郎の郷里大分の竹田の岡城とされているが、土井晩翠のほうでは、会津若松の白虎隊の自刃や、義に殉じた会津藩士の悲劇と鎮魂を、この歌を見て歌詞に纏めたのだといわれる。
昭和22年、鶴が城に荒城の月の歌碑が建てられた。

彼女の長兄は山本覚馬といい、会津藩の知恵者だというので薩摩藩に幽閉されていた。
明治維新の新体制に関する覚馬の高い見識が薩長に認められて、彼は京都府顧問に迎えられ、京都の近代化に寄与された。
八重は兄を頼って京都に移住し、新島襄のキリスト教信仰や、近代教育への襄の熱意に共鳴して、明治8年、彼と結婚することになったのである。
キリスト教の結婚式というのは初めてだったらしい。
その後、同志社に女学校を作ったが、新島八重も積極的に構築に参画した。
また、日清、日露の戦役には、広島その他の軍病院に篤志看護婦として奉職し、このことにより、勲七等宝冠章を受けた。
新島襄は、病をえて明治22年、47才で死去したが、八重はそのずっとあと、昭和7年、88才の長命を全うされたのであった。

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