ハチメンドウ

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俺たちは、誰かのために存在しているわけではない。

2009年04月17日 | 教えて! goo
 誰かのために存在していると言う人を否定はしない。それが生きる糧となるならば大いに結構だと思う。だが、他者の存在にそれを当てはめようとするのはいただけない。あくまで、己の思想信条としてそっと持っているべきだろう。

質問することで批判される危険を避けながら回答を装った反対意見表明で自己肯定ガス抜きがしたい回答専門者の存在理由

存在理由があるといえば、ない。というよりそんなもの必要ないというのが正しいだろうか。もちろん、リンク先のタイトルに書いたような回答者は、普通に考えるならば行動原理がやや捻くれていることは確かだ。その捻くれによって、何か不都合が起きるのならば、それは弁明のしようがないと思う。だが、その行動原理自体が批難されるのは余計なお世話だと思う。これは、「教えて! goo」のフリー性が強いから言えることである。

これは、「回答者に“回答”以外のものを求めてはいけない。」で書いた、俺が回答者をやっている理由に通ずるものがある。つまり、回答者の行動原理が何であれ、その存在を問うことは愚問であるということだ。回答者は回答を与える存在である。逆に言えば、回答を与えればそれだけで存在している理由には充分だ。

この理由がよしとされるのは、「教えて! goo」のようなコンテンツだからだ。回答者には簡単になれる。有料制ではないし、なんなら個人情報が嘘でもいい。質問者にとっても、回答者にとっても、制限が厳しくない、結構フリーなコンテンツである。フリーなのだから、そこに集まる人間の行動原理や目的も多種多様である。必ずしも、善意をモットーにして、質問者の疑問を解決してあげたくて回答しているわけではない。いや、むしろ、「善意」を込めて回答する人間のほうが、俺は胡散臭いとさえ思える。行動原理が何であるべきという問いも、回答者の存在意義が何であるべきかという問いも、問うべきものでもないし、何であれ否定する権利はない。だから、「自己肯定ガス抜き」が回答者の存在意義に対する、批判材料には決してならない。

また、回答が質問者の求めるものと違う「反対意志表明」も、否定の材料にはならない。なぜなら、俺たち回答者は、質問者にとって気持ちのよい回答をすることが義務ではないからだ。これは、上記のフリー性も理由の一つだし、回答を装っていようが「回答」であることに変わりはないからだ。「反対意思表明」も行動原理からきているのなら、それが存在否定の理由になることはない。

リンク先のタイトルに書いたような回答者の言い訳に聞こえるかもしれないが、これはあくまで「存在理由を問いた」場合の話である。確かにリンク先の例のような回答者を善いとは思えない、だが行動原理が存在理由を問う材料にはならないだろう。俺たちは、誰かのために存在しているわけではないからだ。だから、リンク先の質問者が問うべきだったのは、「質問することで批判される危険を避けながら回答を装った反対意見表明で自己肯定ガス抜きがしたい回答専門者って“モラル的”にどうですか?」ということだったと思う。

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