ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

自己啓発が俺に何も与えてくれないたった一つの理由。

2012年01月01日 | Weblog

年を越しても、実際は個々人にとっての影響などない。それでも人が年越し蕎麦を食べたりするのは、「してもしなくてもいい」事柄だということを知っているからだ。ただ、晩飯として食べる簡単な理由付けが提供されているのならば、嫌いな物でもない限り拒否する理由がないだけだ。大抵の人にとって年越し蕎麦はその程度の意味しか持たないし、それをほとんどの人は認識している。

そしてどこかでよく聞く自己啓発が今日も聞こえてくる。人はいつか死ぬ。明日死ぬかもしれないし、今まさに死が迫ってきているかもしれない。だから「明日やること」は今日やれ、と。刹那のために生きろと。なるほど間違ってはいない。だが"間違ってはいないだけ”だ。

「一年先をいえば鬼が笑う」とはいうものの、短期的な人生設計は行き当たりばったりでしかない。「明日やること」は今日やればいいかもしれない。でも本当に明日やるのならば別に今日やる必要などどこにもない。それよりも「今日やるべきこと」、「今日やりたいこと」を優先すべきである。大抵の人は「明日死ぬかもしれない」ということを確率的に否定はしないものの、それが焦燥でしかないと知っている。これも間違ってはいない。

「今日やればいい」かもしれない、でも「明日やったほうがいい」かもしれない。今日になって「昨日やればよかった」と後悔するかもしれない、でもやっても「昨日やりたかったことができなかった」と未練がましくなるかもしれない。ただ、それらが結果論としてどちらの選択がよかったかを物語るに過ぎない。結果論は分からない。そしてどちらも間違ってはないとき、判断基準が自分の人生観ではなく、他人の自己啓発のほうがいいなんていえる保障はどこにもない。

自己啓発が一定の説得力を持ちながら俺が時おり嫌悪するのは、「間違ってはいないけれど正しいことでもない」からだ。自己啓発は「本当にやるべきこと」を教えてくれない。だから読み物として一定の力は持つものの俺に何も与えてくれない。それは俺の取捨選択の「捨てる方」を提示したに過ぎないから。もちろん、「取った方」ならばただの既知である。

かくして他人の自己啓発は、俺による俺のための自己啓発に遥かに劣るという自明でしかない結論がまっている。しかし、それでいい。何も俺に与えてくれないのだから。そして、それは誰にとっても同じことでもある。