ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

回答者の限界。

2008年12月30日 | 教えて! goo
 たまに人生相談とかで、(表現に困るけれど)精神的にもう末期に見える人が質問をしてくる。末期に見えるってのは、文章とかのあやふやさ、ネガティブさだけど、その手の質問を見たことのある人なら何となく分かるはずだ。大体そういう人たちは、突拍子もなく一般から外れたマイナーな考えを持っているらしき文章を書く。俺にはそれがネタかどうか分からないけれど、判断材料があやふやな以上、信じること前提で、俺たち回答者は答えるしかない。

 仮に信じたとすれば、少なくとも俺にできることはない。そこまでネガティブが進行している人が、文章だけで救えるとは到底思えない。カウンセラーのような、現実で救えるほかないと思う。それでも救えるかは難しい。もし仮に、精神的に病気の人がいた場合、それを治すのに数年かかることも珍しくはないと先生に聞いた。そこまでしなければならないのに、俺のような回答者の文章だけでどうにかなるはずがない。なったのなら、それはネタだろうと思う。

 それでも、俺たち回答者は時として物申さずにはいられない。その感情が何かはそれぞれだが、無駄だろうと分かっていても、それでも何も言わないよりはマシだろうと思う。前回、前々回で回答者、質問者の概念について語り、そこでそれらの関係は実にシンプルだよというようなことを語ったけれど、それの事柄の一つとして、今回の記事がある。シンプルがゆえに、限界がある。俺たち回答者が与えられるのは回答でしかないのだ。それ以外を求めても、そこにはない。

 結局、そういう人に言えることは月並みな意見以外、ない。もちろん、それで救えるわけがないのだけれど。

回答者に“回答”以外のものを求めてはいけない。

2008年12月27日 | 教えて! goo
 正直に言うけれど、「教えて! goo」で俺が回答者として質問者に回答をする理由は善意からじゃない。さらに言ってしまえば偽善ですらない。俺は俺の自己満足のために回答をする。そういう動機の質問者は意外に多いと思う。

 その動機が不純だとは思わない。動機が何であれ、質問者から良回答はもらえるし、むしろ善意でやってもうまくいかいないことは多い。俺たち回答者は、各々が思う、その質問者にとって最も有益な回答をすればいい。それ以外を質問者が求めるのは贅沢というものだ。

 もちろん、善意の皆無で文章などにも差違はあるだろうけれど、それは文章力や価値観の問題であって、微妙だが趣旨は異なる。それに、それを良いか悪いか判断するのは個人の主観でしかない。それら個人の主観にいちいち対応できるほど、俺たち回答者は全能ではないし、便利な人間でもない。

 履き違えないで欲しいのは、あくまで質問者と俺たち回答者との関係は、質問者は質問→回答者はそれに回答する、でしかないということだ。それ以外のものを求めるのなら、己にとって都合のいいことを言ってくれる掲示板か、ドッペルゲンガーでも探すしかない(かなり嫌味っぽく遠まわしに言ったけど、まあ、つまり不可能ってこと)。

 だから、回答者に「上から目線だ」とか、「善意が感じられない」ということで文句をいうのは間違っている。質問者にとって、気持ちのいい文章を提供するのは回答者の役目ではない。少なくとも、「教えて! goo」ではそうだと思っている。もちろん、質問→回答という行程を満足に出来ていないのなら、それは物申す余地は大いにあると思う。

 あくまで回答者側から、しかも俺の価値観をもって書いたから、この記事はせいぜい回答者である人の擁護にしかならない。これを適用するというよりも、俺の「教えて! goo」に対する姿勢みたいなものだと思ってくれたらいい。

全ての物事が成果主義で語られる。

2008年12月20日 | Weblog
 いや、タイトルでは否定的な意味合いで書いているけど、経済などの社会で成果主義を重視するのは御もっともだと思う。むしろ、その主義が重視されない経済は発展しないと思う。そうじゃくて、俺が述べたいのは、成果主義でしか物事を判断できない人や社会に対して物申しなのだ。

 まず成果主義は、極論で言ってしまえば“成果以外は評価しない”という裏返しでもある(もちろん、それだけで評価するなんてことはまずないだろうけど。もしそれが徹底的にされているなら、人の入り込む余地がない)。正確にいえば、実力や才能が顕著に評価され、それで格差が生まれることもありうる、ということだ。それがどれだけ由々しき状況か、想像してみたい。

 生産性が重視される仕事において、例えばレジ打ちなどがとても早い人がいたとして、それで生産性が上がっているから給料を上げよう、といった具合だ。一見、その人の才能に見合った評価でもって給料が上がっているのだから、何の問題もないようにみえる。でも結構これが問題となってくる。まず、生産性の仕事において才能は評価しづらい。程度が分からないんだから。今回の例では比較的分かりやすい才能ではあるけれども、“人当たりのいい才能を持つ”人が間接的に他の従業員の生産性を上げるのに貢献していたとしても、それを評価できるといえばできない。というか分からない。

もうひとつに、生産性の社会ですら才能で評価されるような事態になれば、ないものとの間に格差が生まれるからだ。俺は自分で才能があるとは思わない。結構下位に位置するだろう。そんな実力や才能を徹底的に評価されるような社会に放り出されたとき、俺はどれだけの富を手に入れられるだろうか。俺は平等を求めるわけではないけれど、格差を望むってわけでもない。賛辞する人は己の才能に自信を持ちすぎだ。それは少し羨ましくはあるが、悪い意味で下が見えていない。

 最近ふと思ったこと…最近の政治は成果主義が見え隠れしている。政治は成果主義ではないと思う。成果に重きを置いていては何も出来ない。実際に、それを言い訳として使って、何もしない政治家をちょいちょい見かけるようになった。仮に政策を持ち出しても、出鼻を挫いて反対しかしない奴もどうかと思う。成果主義を重視して怖がるようになったら何も変わらない。

友達関係にドラマはいらない。

2008年12月20日 | Weblog
 親しい友人、あこがれの先輩、彼らとそうなった、或いはそのような関係になったのには必ず経緯や出会いがあり、彼らと関係が築かれるいわば基盤となっている。特に出会いは友愛でも恋愛でも甘美なものであり、小説ではしばしば出会いを重要視する傾向がある。

 あこがれの先輩は特にいないが、親しい友人に関しては保育園、小、中、高ともに一人ずつ人物を取り上げることが出来る。しかし、どのような出会いをして彼らと親しくなったのかを、なぜかよく覚えていない。恐らく覚えていないのは印象に残っていないのと、それを忘れるほど彼らに膳を与え、与えられたからだろう。いや、正確にいえば出会いはある。

 例えば高校の入学式、後々親しい友人となる彼と俺は同じクラスだった。しかしその時はあくまで「顔を合わせた」といった具合で、出会いというには少し抵抗を感じる。それから半年後、彼と俺は学校でとりとめもない話をしたり、帰りの道を共にした。それから進級して2年となり、プライベートでもよく遊ぶようになったといった経緯である。これが他の年代のころ全てに当てはまっているといっていい。仲がよくなった経緯は思い出せるのに、なぜか肝心の出会いが虚ろどころではなく完全に抜けてしまっている。

 「現実は小説よりも希なり」というが、俺が友人との出会いを思い出せないところを考えると、いうほど現実というのはあまりドラマティックではないように思えた。別にそれが友情に香辛料を効かせるものではないと思うし、むしろそれがなければ友情を感じないというのもおかしい。俺の虚ろな記憶で結論を出すのはちょっと軽薄かもしれないけれど、俺は友情にドラマという香辛料はいらないと思っている。少なくとも、それは要素の一つに過ぎない。俺が友人の話をする際、他人からすれば実につまらない話しか出来ないのは俺が友人に対しての感情が薄いからではなく、それが俺にとって最良の友情談義だからだ。

 最後にふと思ったこと。これは俺の思想とは違うし、ちょっと話が逸れるけど、哲学者などの思想家達の友情に対する思想というのは、一貫性があるというか、共通する所が多いように見える。それは友情というものが誰にとっても重要であることを真理として説いているんじゃないか、と最近俺は思った。

追記:今回の素材として、俺が高校生の時に書いた小論文を参考にしているから、ちょっといつもより文章が固くなっていると思う。昔の俺にしては結構カッコつけたこと書いてるな~、と思った(苦笑)。

信じることには理由が必要。

2008年12月14日 | Weblog
 信じることには理由が必要だと思う。少なくとも、科学をやたらと信じる人が「科学だから信じている」と言っているんじゃ、彼らの毛嫌いする宗教や疑似科学と何ら変わらないと思う。逆に言ってしまえば、信じている理由が適当ならば、科学にしろ疑似科学にしろ宗教にしろ、これらは現実味を帯びてくるというわけだ。

 例えば民間療法というものがある。これは科学的な説明、宗教的な説明、疑似科学的な説明、全ての説明が可能だ。それが効く以上、どの方法で説明しても差はあまりない。というより、これらの事柄に置いて無知に近い俺からすれば、どの説明でも信じることはできる。後は先入観や偏見、人格によるところが大きいだろう。そこを理解していないと、何かを信じるときに、自分はよくても他人が理解してくれない。それでもいいってなら別だけれども。

 結局、信じることに理由がない以上、それらは信仰の域を越えない(信仰という言葉を使ったけれど、それは宗教に信じる理由があれば、信仰よりももっと現実的なものになると俺が考えているから。まあ、つまり今回は信仰レベルの話は排他してる)。これは、自分に問いかける、懐疑的な役割も持つ。自分が信じているものに、他人が納得しそうな適当な理由があるか、もう一度自身に問い直してみてよう。ないとき、少しはそれを疑って、本当に信じるに値するものかもう一度考え直そう。