ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

英語を学ぶ難しさを、他の言語を学ぶ難しさと比較して語ることにさして意味はない。

2016年03月21日 | Weblog

英語は世界共通語で、日本でも義務教育の段階から科目に取り入れられている。現代で、英語の存在を一切無視して社会で生きていくことは不可能といっていい。だが、英語への平均的な理解度は、客観的に見てお世辞にも高いとはいえないだろう。残念ながら、俺もどちらかというとTOEIC的に"そちらのほう”に入ると思う(何点だとか質問は受け付けない)。

 

英語が学ばれない、誰でも分かる簡単な理由(ヒントは水曜日)。

英語への理解度が低い理由を「英語が洗練されていない、だから覚えにくいのだ」とし、その例として有名な単語である「WEDNESDAY」の無発音や、その他の単語も挙げて英語の難解さを説明している。

とはいえ共感あれば反感もあるのが世の理だ。英語への理解度に個人差がある以上、難解さへの認識は最終的に個人に委ねられる。

しかし、他国の言語を持ち出して反論するブコメが多かったのには少し同情した。件の記事で「ほとんどの国の言語はそこまで洗練されていない」、「もちろん、日本語だってお世辞にも洗練されているとはいえない」と書かれていて、それを踏まえた上でなぜ英語だけを批難するのかの理由も書いているのに、理屈に納得するかしないか以前の段階で批判されては議論にならない。

 

さて、件の記事に俺ごときが付け足せることは何もない。俺が以下に書くことは、自身の英語に対する認識の話だ。

自分の国の言語だが、英語と比較するのなら、自身の英語への理解度を加味しても日本語の方が難しいと考えている。俺がもし他国に生まれたのなら、きっと日本語は個人的な理由では学ばないし学びたくない(というか学べる頭脳が俺にないと思う)。それでも俺が話せるのは、それが住んでいる国の言葉だからだ。読み書きにしろ話すことにしろ、日常で使われる上に義務教育で補填もしてくれるのだから、その気があまりなくても覚えられるし自然と愛着も湧く。

これは視点を変えれば英語にだって言える。英語で話す国の人たちは、大小あれど、恐らく英語に対して不満がある。けれど、それで生活しているから、多少の不満はあれど読み書きができるし、話すこともできる。他の国の言語についても、似たようなものだろう(ただ、まあ、その言語がどれだけ覚えやすいかで抵抗感の差は多少出てくると思う)。

理屈の上でそれが分かっていて、なぜ英語に対してだけこうも俺は抵抗感を持っているのか。矢面に立たされることが多いのか。それは件の記事の人物も書いていたけれど、要は世界共通語であり、義務教育の段階で学ぶ必要のある他国の言語」だからなのだろう。

英語の今の立場が覆らない限り、英語より難しい言語の存在があったとしても、言語の洗練さのなさが英語だけのことではないにしろ、対した慰めにならない。なぜなら、その言語を俺は世界共通語として使うことはないだろうし、学ぶこともないだろうからだ。せいぜい第二外国語くらいだろうけれど、それでも英語とは立場や事情が違う。

世界共通語は、俺の中で「色んな国の人に使って欲しい言語」だと認識している。だったら、その言語は可能な限り覚えやすい方が絶対にいいと思う。そんな立場の言語に、「WEDNESDAY」だの綴りや発音のややこしい単語や、不規則変化の複数形があったりしたら抵抗感だって覚えるし、文句の一つだって言ってやりたくなる。そういう「抵抗感」は、俺にとって何かを覚える上で結構無視できない要素だ。……まあ、所詮「WEDNESDAY」を今でも「うぇどねすでい」と言いながらタイプしているレベルの人間の、他愛ない愚痴で切り捨てられる話なのだろうけれど。

 

 

……書き上げて思ったけれど、件の増田記事を、ただ俺の言葉に変えた程度の内容になってしまったな(今回の記事を書く動機になったものなのだから、それに大分寄った記事になるのはそりゃそうなのだけれども)。どうなんだろうと思って一旦非公開にしたが、まあ様子見としてまた公開しておく。

 


文章の価値と、それらの売買に対しての“無邪気さ”

2016年03月16日 | Weblog

今日もネットサーフィンをしていると、よく読むブログの人のとあるボヤキが目に入った。

 

内容は要約すると、「有料noteを公開してみたが、まるで儲からなかった」というボヤキだ。そのブログ主の文章や内容はとても面白いのだが、そのnoteをブログ主は宣伝もしていなかったし、ブログをよく読んでいたオレも知らなかったのだから、そもそも認知されていないわけだし、noteの現状を認識している人たちからすれば「そりゃそうだ」としか思わない。その話自体は「よくある」で終わるのだが、それに寄せられたコメントまで掘り下げていくと中々に味わい深い。今回はそれを肴に語っていこう。

 

コメントを見ると「お布施してもいいけれど、note運営とかに金が渡るのはなあ」とか、「稼いだ金で何か欲しいなら、それそのものを要望すればいいのでは」とか、ブログ主の書いたnoteの内容に関して「お金を払う価値があるか」ではほとんど論じていない。これって、とてもスゴイことだ。文章の面白さで有名なブロガーであるにも関わらず、そのザマだ。

 

noteというコンテンツが現状そういう側面が強いことは周知とはいえ、文章で勝負するブロガーが自画自賛するレベルの懇親のnoteに対してでも「お布施」という言葉がファンから出てきてしまう。つまり、大半は「文章そのものにお金を払う程の価値はない」と思っている人が少なくないのである。これは、noteというコンテンツの脆弱さだけのせいでは恐らくないと思う。

 

人はある側面では「モノに価値を感じて対価を支払う」ことに凄まじくシビアな生き物だ。お金は有限で、しかも時に個人が価値を感じないモノに対しても対価を支払わなくてはいけない世の中だ。当然、それらを踏まえた上でお金を払うモノ(払いたいモノ)は更に限られてくる。どのようなモノか、払うかどうか、どの程度払うかなど、“値踏み”をせざるを得ない。自身が買い手になったことがあるなら、この感覚は大半の人が理解できるところだろう。

 

そんな前提は周知のはずだが、全文公開した上で、「金を払ってもいいと思ったら払ってください」というスタンスは厳しい。タダで享受できることが認められているモノに、金を払うというのは中々にハードルが高い。それに、当人がどれだけ自画自賛した懇親の内容だろうが、「タダでも構わない程度の価値」だということを遠まわしに形作っている。一部だけ公開して続きは有料というスタイルが狡っからいからと、気を利かせて全文公開にしたのだろうけれど、逆効果だろうと思う。

 

当のブログ主は俺の視点から見ればとても有名な部類に入ると思うけれど、大局的に見るならnoteで稼いでいる人などと比べれば、ほぼ無名に近い人物だ。そのレベルの人が宣伝も何もなくnoteの世界に飛び込めば、いっては何だが俺がnoteに飛び込むのとさして変わらないだろうと思う。

 

文章を書くことや読むこと自体は、大体の人ができることだ。そんな状態で、勝負できるのが文章の内容くらいしかないというのは、さして有利にならない。文章の価値を名声で担保できない。だから、せめて書いた本人だけはその文章の価値を「金を払う価値がある」と信じてやらなければならない。自身すら「別に金を払って貰わなくてもいい」と思っているモノを、他人に払って貰えるわけがない、と考えるべきだ。仮に、それで払ってもらっても惨めな思いをするだけだと思う。

 

まあ、もちろんnoteの現状や、『人はある側面では「モノに価値を感じて対価を支払う」ことに凄まじくシビアな生き物』ということを考えると、一部公開にしたら払って貰えるというわけでもない。それに、売買の形は多種多様だ。別に当人が価値を感じるかに関わらず、売れるということだってあるだろうし、そこに是非は必ずしもない。けれど、自身が本気で売ろうとは思っていないモノを、他人に買ってもらえないからといって、それは落胆に値しないだろう。書いた本人以外が価値を担保できない上に、その当人が「タダでもいい」と思ってモノを売るということは、そういうことだ。

 

それでも、“このテ”の話題でボヤく人が後を絶たないあたり、なんというか……モノを買うことやそれを作ることに関してはある種シビアであるにも関わらず、売ることに関してのモノの考え方が、大抵の人は鈍感なのかもしれない。俺はそのギャップがとても“無邪気”に見えた。自身のアウトプットしたものにそれなりに価値を感じつつも、売り物にはならないと思っている身としては、皮肉でも何でもなく羨ましく思える。文章に限らず、人に何らかの価値を提供するには、そういう気概が必要なのかもしれないな。まあ、それが結果に繋がるかはまた別の話なのが世知辛いところだが……。

 

 

 

 

余談だが、「文章」を間に挟んでいるだけで、有名人であることをいいことに筆者にお金をあげているに等しい行為が強者になっている現状のnoteは、「コンテンツを売るコンテンツ」として、何より商売として下の下だと思う(それらが実質的に認められているだとか、是非だとかはともかく)。