ハチメンドウ

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責任感の強い人は自己中心的。

2009年03月21日 | 教えて! goo
<参考にした質問>
責任の範囲 

 自己責任というのは、とある物事について最も大きな要素となったものがそう呼ばれているだけなのだろう。そのつもりで「自己責任」と言っていないのであれば、その人は自己中心的な人間かもしれない。

 自分が被った不利益の責任は自分にある。一見、責任感の強いかっこいい人だと思うが、俺はおこがましいと思う。人はそんなことがいえるほどに全能ではないはずだ。もちろん、自分が被った不利益の一因は自分にもある。だが、不利益全てが自己責任ってのは話が大きくなりすぎていないだろうか。「原因」は「責任」とイコールではない。「自己責任」なんていう人は、自分が失敗さえしなければ不利益を被ることはない、とでも思っているのかもしれない。そんなことはないだろう。不幸はちゃんと理不尽にやってくる。要するに、今まで己に何か不幸が起きなかった人は、別に自分がしっかりしているからでも、失敗をしていないからでもない。

 もちろん、失敗や事故が起きる要因を減らす努力はした方がいい。でも、それは自己責任論とは別の話だ。なぜなら、あらゆる不幸を想定して、その「原因」を取り除くことはできないからだ。端的に言えば、どんな不幸も原因の一部は自分の行動にある。それでも、それらの要因を消さなかった責任は、問われるべきだと考えるなら、それは自由だ。昼間、何の気なしに公園を散歩していて、いきなり通り魔にでも遭った時、自業自得だったといって死ねるかもしれない。ただし、それは個人の価値観として持っておき、公言すべきじゃないだろう。

 俺は軽々しく自己責任を唱える人たちが、そこまで考えてその言葉を使っているとは思えないのだ。自己責任論は原因を単純化し、自己正当化の具にもなり得る。状況にもよるけど、根拠のない問題をそうして単純にしてしまうのは、自分にとっても不利益だと思う。

 捻くれているけど、下手をすれば自画自賛の理由にだってなる。「自分のせいで」はと思える人間は、状況が変われば「自分のおかげで」と思える、ということである。「あの人が不幸なのは自業自得」だと一笑し、「俺が幸せなのは自分の実力だ」と自画自賛する。自己責任が肥大化すると、このような人になると俺は推測してみる。実際にいるかは知らないけど、いたら実におめでたい人だな~と思う。ひとつの不幸の原因が多岐であるように、ひとつの幸福の原因だってひとつじゃない。自己責任ってのは、実際問題ありえない(思っているのなら、おこがましいと思う)し、こうやって分析していくとむしろ安易な考えだとさえ思えた。

 良くも悪くも、俺たち人間は一人では生きていけないのだなと、つくづく思う。

追記:あくまで、今回は責任の唯物論を語りたかっただけで、「責任をとる」ことについて語っているわけではない。責任をとることとは、また別の話だ。「責任のある人全員が取るべきだ」なんて言う気はないし、そんなことをするなんて不可能だ。範囲とかそこばかりは、今のところケースバイケースが俺の結論。

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