ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

俺たちは存在するだけで排他性を持つ。

2009年04月02日 | 教えて! goo
 排他性を嫌うのはごもっともだろうし、それによって起きる影響も良いとは言えない。

自分の身を守るのはいけないことでしょうか

残念なことに、排他性は他者と関わる以上起こりうるものである。これは社会的な利益に絡まなくてもだ。自分と違う要素を持つことがあれば、それを受け入れるのは難しい。なぜなら、場合によっては、それは己の思想や信条を否定することに繋がるからだ。己の思想信条を否定してまで、その要素を受け入れようとする奇特な人間はごく稀だろう。

社会に限っていうのならば、これは顕著に出てくる。己がより良い生活を求めるのに、利益は分かりやすい。それに向かって、向上しようというのは当然のことだろう。当然、向上が絡むのならば競争は避けられない、競争する以上、ある程度の取捨選択は効率的に重要だ。つまり排他性は社会でまず避けられないし、現状としてその社会を変えようとしたりするのはあまり得策ではない。

社会性は個人が尊重されない。正確に言えば、一定の考えを共有せざる負えない。その中に排他性があることが問題だと、質問者は考えている。しかし、小規模な社会においても、大規模な社会においても、その排他性は避けることはできない。これは俺たちが人間だからと言っても過言ではない。意識していなくても、俺たちは生きているだけで他の存在に排他性を持たせてしまっている。

例えば、先天的に足を動かせない人が、二足歩行で歩いている人を見たとする。それだけでも、その人は劣等感を持ち、排他的な気持ちになるだろう。これは、別に他の二足歩行する人間が悪いというわけでも、そうやって排他的な気持ちになる人が悪いわけでもないと思う。生きている以上、他の誰かと関わる以上、己と違う要素を持つ人間はそれを否定される。これはどうしようもない。

だから、せめて俺たちができる精一杯の歩み寄りは、多様性を祝福することしかない。だが、それを持ってしても、排他性を取り除くことは出来ないだろうし、変えることもできない。排他性を取り除くためには、そうしないための思想信条を社会的に共有の考えとして認識させなければならない。現実的ではないし、排他性をあらかじめ持っている俺たち人間が、それを絶対的に否定することはできない。こればかりは社会的に生きる人間として、仕方のないことのなのかもしれない。

とはいえ、それを納得しない人の気持ちを、俺は強く否定することはできない。

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