ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

憶測の公開は自重すべき。

2009年02月23日 | Weblog
 これは主にマスコミなどの公な場から、友達との会話という小規模なことまで当てはめていいと思う。憶測というものは掴みどころのない結論だ。それを情報として他者に提供するのは軽率すぎるだろう。

 幾度となく流れるように提供される情報は、最初の一種がものをいうことが多い。同じ種類の情報をもう一度見たり聞いたりすることがあっても、そちらを信じる余白が己の中にあるかは疑わしい。むしろ後から来た憶測が的外れなんてこともあるだろう。それを判断しようとするのも無駄に近い努力だと思う。

 とはいえ、考えることが心地よいのは分かる。人間は考える生き物だ。それを放棄することは人間の存在意義に関わる。とはいえ、考える材料として、提供される憶測というものが果たして適当なものであるかは疑わしい。何より提供することは愚考に近いと思う。その憶測からさらに派生して憶測になることを、提供する人間はもう少し自覚するべきだと思う。それで人を悪く言ったり罵倒するのならばなお更だろう。

 個人的には、考える材料として憶測は情報のひとつとして悪くない。ただし提供することは自重すべきだろう。誰もがそれを考える材料として吸収しているわけでないし、語る側はそういうものを真実のように語っている。それは事実をうやむやにし、自分は愚かだと主張しているようなものだからだ。要は提供する側は自重して、提供される側は己でしっかりと判断する力を持つべきだろうということ。

【追記】
 どこまでが憶測の領域かというと、客観的に見て予測可能な範囲なら憶測ではないと思う。とどのつまり俺の言いたいことは、メディアリテラシーの必要性だったわけで。