ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

ゲームの労力や報酬

2012年04月17日 | Weblog

 「ゲームで得られる労力も、それで得られる報酬も何の意味もない」と誰かが言った。間違ってはいない、ただそれでは足りない。恐らく、こういう人にとって「労力」とは仕事などの労働であり、「報酬」とは生活するために必要なお金以外の意味を持たないのだろう。彼らにとって、将来プロ野球選手になるつもりでもないのに部活動で必死に練習をする学生は理解できないし、ましてや外野から必死に声を張り上げて応援する人たちなど意味が分からない。それで勝てば喜び、負ければ涙を流す人たちを見て、盛大な茶番だと呆れ果てる。

 

つまり、「ゲームで得られる労力も、それで得られる報酬も何の意味もない」と言った人は、お金が貰えるからわざわざ発言しているのだろう。恐らく、そういうことでお金を貰える仕事があるのだ。しかも食っていくのに困っているから、わざわざネットでキーボードを指で叩くという疲れることをやっている。世知辛い世の中である。

 

……些か嫌味が過ぎたが、別に言っていることはそこまで飛躍していないと思う。生きていくために必要な労力と報酬、それ以上は全て余剰だ。その余剰をどうしたところで、不必要ならば無駄であることに変わりはない。だが、実際に必要最低限で生活をしている人などまずいない。それは、個々人にとって労力(努力といいかえてもいいだろうか)とは、その報酬(価値)とは必要以上の意味を持っているからだ。「労力」、それに見合った「報酬」。少し考えれば、それがどれほど多種多様であるか分かるだろう。

 

仕事は疲れる? ゲームだって疲れる。ただ、それを楽しさで忘れているだけだ。報酬がない?  「報酬」はお金以外の意味を持っていないのだろうか。定義を矮小化せず、もう少し広げて考えることからはじめよう。ゲームの報酬とは何だろうか。うまくなること。それを通じて得た人間関係。それに費やした経験や時間。それともお金を稼ぐことだろうか。どれもが「報酬」だろう。こういうのを「個人の価値観」というのである。いうまでもないと思っていたのだが、どうも自らの求める「労力」や「報酬」を共通のものか真実と考えてしまう。

 

魔王を倒すことも、ただの作業にしか見えないブロック積みも、課金をするソーシャルゲームも、理不尽で支離滅裂なクソゲーでも、俺たちは各々でそれを楽しめる生き物だ。有象無象、全ての「楽しさ」が「報酬」なのだ。そしてその「楽しさ」があれば「労力」など苦にはならない。何も画一的な価値観を選ぶ義務なんてない。「労力」も「報酬」も、みんな自身で選ぶことができる。


「マナー」の主成分は“主観”である。

2012年04月15日 | Weblog

平日、昼の時間帯はその電車に乗っている人は少ない。俺はラッシュでいつも座れなかった座席に悠々と座りながら、時間つぶし用に買っていた本を読み始めた。次の駅に着くと、ドアが開くとほぼ同時ぐらいに車内に女性が入ってきた。俺の座っている席の向かいに座ると、早速といった感じに化粧を始めた。

俺は一瞬気になったが、見ず知らずの女性の化粧風景なんかより、今読んでいる本の展開が気になっていたためすぐに読書を再開した。ただ、他の乗客は女性の行為をとても不快に思ったようで、マナー違反だと指摘していた。

俺は見ず知らずの他人に全く興味を持てないのでよく分からないが、実際ここでいうマナーは、とても個人的な、主観的な、曖昧な線引きなのではないのだろうか。

そもそもマナーとは、物事を行うときの、その場に合ったふさわしい態度や動作らしい。確かに、図書館で騒音や、映画の上映中にライトを照らして携帯を覗くのはまずい。そのように、明確な目的のある場所での明らかな阻害行為なら分かりやすいが、電車のようにそこでの立ち振る舞いが曖昧な場所で、マナー違反と呼ばれている行為の一部に疑問を抱く。

そりゃあ、電車内での化粧は人前でして美しい行為とは思えないが、それが電車内でダメだという合理的な理由が果たしてあるのだろうか。女性が電車内で化粧をして、誰かが目的の駅に着けなくなったりすることがあるのだろうか。合理的な理由がない以上、それをマナー違反というのは、極めて個人的な主観に基づくものだと思う。

だから、車内で化粧をするのがマナー違反なのは、ただ「何となく目障りだ」という理由が主なのだろう。それを、さも民意という皮をかぶせて、マナー違反といって批判するのである。明らかな迷惑行為や犯罪行為、そして上記の図書館や映画館のように目的が明確な場所での阻害行為を除けば、ほとんどは主観と個人的な感覚による批判に過ぎないと思う。

俺たちがマナー違反だと思った行為は、もしかしたら単なる快、不快の問題の域を越えていないのではないのだろうか。となると、そう思って批判することは自重すべきかもしれない。ただ、それが判断できるほど、公共マナーと寛容のバランスは安定していない。

……全くの余談だが、ワードで「杏マナー」と打ちまくると、文字が傾いているように見えるっていうのを思いだした。

 数年後に改めて言及してみたもの→「快適度の均衡化」から見たルールやマナーの必要性。

 


俺が“教えて! goo”を利用しなくなった理由。

2012年04月15日 | 教えて! goo

 はじめに、俺はうろおぼえだが昔の記事で「何かをやらない理由を説明する義務はない」といった旨のことを書いたはず(別に撤回してもしまってもいい程度の持論だが)。なので、これから書く「教えて! goo」を利用しなくなった理由の内容は、義務感など大層なことで書いたわけではない(もとよりこのブログそのものが自己満足の吐露なのだが、ここではそれを強調しておく)。

 

俺が当時「教えて! goo」を利用していたのは、何かを回答する快感を得る目的が強い。これは、当時から公言していたことだし、自身の善意は自己満足であると考えている。それでも利用していたのは、目的が不純にせよそれで誰かの心が少しでも晴れるならば問題はないと思っていたからだ。

 

しかし、このコンテンツにつまりは飽きてきたんだろうと思う。「教えて! goo」に寄せられる質問は一見多種多様に見える。だが、実際にそれなりの回答をしようと思ったら、少なくともその分野である程度の知識があるか、思慮深くないといけない。自己満足を得たいと思っているのならば、少なくとも自身を納得させなければならないわけだから、ここですら妥協すればもはや回答は無駄な労力でしかない。そうなると、一個人が回答できる質問はそこまで多くない。必然、分野が少なければ回答する質問も似たり寄ったりになり、飽きがきてしまった。

 

また、意図が分からない質問が多すぎると思い始めたからだ。自己満足でやっているのだから、そのあたりはどうでもいいと感じていたのだが、「需要にこたえられた」という快感もあるため、意図を読み取って回答することは重要であると考え始めた。のだが、その意図がさっぱり分からない質問が少なくなかった。「そんなこと尋ねて、この人は一体どうしたいんだろうか」と思ったのだ。これは、俺の理解力が乏しいわけでは、多分ない。実際、質問者自身よく分かっていないのだと思う。そう断言してもいいような質問が本当に少なくなかったのだ。何の成果もない質問に答えるのは、ただの徒労だ。

 

また、ここ最近はそういった方法で自己満足を得たいという欲求がなくなってしまった。心を穏やかにする欲求を満たしたいのならば、もっと他に自分にとって最適な手段が、場所があると感じたからだ。何かを語りたいならばブログやツイッターがある。自己満足という欲求を満たしたいならば、他人を介さない分「教えて! goo」より適しているだろう。

 

色々と述べたが、そもそも俺自身が他人に対してあまり関心を示さないのが主な要因だと思う。もし語っても、それは自己表現の材料に過ぎない。必要以上の対話を求めなければ、必然そうなってしまうだろう。しかし、別にこれは悪いことではないと思っている。求められない自主的なことは、善悪の対象となりえない。いずれも、退屈しのぎでしかないのだろう。そして、これは恐らく俺だけの話では、多分ない。