ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

他人が決めた価値を容易く受け入れすぎではないか。

2016年02月27日 | Weblog

ソーシャルゲームなどで何らかの不備があった際、ユーザーへのお詫びとしてゲーム内通貨が配られる。これを「侘び石」というらしい。

 

ゲーム内で起きた問題で、ユーザーが何らかの(ゲーム内での)損失を受けた場合、それに対してのフォローをゲーム内で完結させるというのは、筋が通っているような気がする。だが、そのゲーム内での損失が現実のお金と関係しているのなら、どうだろう。

 

これで一万円の損失をしたとしよう。そして、そのお詫びとして“一万円分の石”を配る。これは果たして同価値だといえるだろうか。それを同価値だと思うには、よほど金やモノの価値に無頓着でなければ難しい。価値というものは、「個人にとっての価値」と「大衆にとっての価値」が複雑に絡み合っているからだ。

 

石を作ろうと思えばいくらでも作り出せる立場の“お詫びをする側”にとって、「一万円分の石」を配ることは「一万円」を配ることと同価値ではない。なのに、その石とお金のレートを決めているのは「お詫びをする側」だ。それって、すごく一方的な“侘び”なのだが、ユーザー視点では同価値にされてしまう。ゲームに参加した時点で、それもヨシとされる。

 

それって資本主義の皮を被った、もっとオゾマシイものだと思うのだけれども、他人が決めた価値を無批判に受け入れられる度量がなければ、あのテのゲームをすることは難しいのかもしれない。“そういう人たち”をアテにして成り立っているゲームって、すごく倒錯していると思うのだが、それはオレがそういうゲームにお金を払わない人間だからなのだろう。

 

そうやって楽しんでいる人たちをバカにするつもりはない。馬の目の前に人参をぶら下げて走らせていたので気になっただけだ。調教師が「これがウチのやり方なんで」といい、馬も「自分は納得した上でやっているんで」と言ったら、オレの立場から言えることは「そっか、じゃあ何も問題はないな」くらいだ。それでも問題なら、何か政治とかに頑張ってもらおう。

 

やっぱりこういうことを深く掘り下げて語ろうとすると、オレ自身がその世界に身を投じないといけないのだけれども、個人的に「他人の決めたレートでお金を支払って戦うゲーム」の究極は現実世界だと思っているので、少なくとも今のオレには間に合っているかなあ。


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