ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

俺流、「教えて! goo」での心得。

2009年01月31日 | 自己啓発
 「教えて! goo」に限ったことじゃないけれど、とある議題について物申すとき、自分なりに気を使っている部分を書いてみた。といっても人生相談や哲学だけでしか活用できそうにないけど。

1.月並みなことしか思いつかないなら回答しない(うまい言い回しが出来ないならなお更)。
これは同じことを回答する人がいるから自分が回答する必要はないのが理由だけど、何より月並みな考えというのは質問者もあらかじめ予想している。予想していることをそのまま拙い文章で書いて有益なことはない。文章力、そして独特な言い回しで書けるならまだしも、内容という点において無益であることに変わりはない。

2.観念的な、或いは概念的な言葉を添える。
もちろん、大抵の質問において、具体的な回答が望ましいのは確かだ。しかし、観念的な、概念的な言葉は、正解が分からない人生相談の回答において質問者に問いかける役割を果たす。それは質問者のアクセルとブレーキ両方の役割を果たすことができるため実に有効だ。しかしそれを説明するのは実に難しいし、下手をすれば的外れな回答になりがち。或いは抽象的な文章になってしまう。定食の漬物の如く、あくまで添える程度でいい。

3.相手をしないほうがいい質問者、或いは質問。
まずは、己のテリトリーで話したがるタイプだ。この手のタイプはあらかじめ身構えている。つまりこちらからの批判を予測済みだということだ。質問者にとって有益なことは恐らくない。例えば一つの議題に対して突拍子もないことを書いて、それを主題に議論しようとするタイプは己のテリトリーを非常に好んでいる証拠だ。己のテリトリーから離れようとしないため、こちらの物申しは全て避けられる。回答で何かを得ようというより、議論をして勝ちたいだけの外道なタイプかもしれない。

もう一つは本心を隠していることだ。これは己のテリトリーで話したがるタイプと似ている。こちらも身構えているため、何を言っても避けられる。回答者が物申した際、己が言ったことを摩り替えたり、確信部分を避けて反論してきているようならまずそのタイプだ。うまくコミニケーションがとれている感じがしないと感じて、自分に非がなければ、相手が意図的(ディスコミニケーションなだけかもしれないけれど)に行っている節がある。こちらも意図が不純であることが多いため、相手にするだけ疲れるだけだろう。彼らが求めるのは救いや回答ではない以上、相手にする必要はない。

 後は、一貫性のありすぎる人間だ。悪く言えば愚直。この手の人間は、議論という形を取っているだけで、そもそも自分の考えを明示したいだけだ(間違っているか否かに関わらず)。故にこちらが何を言っても通じない。

そんなことはないと思いたいけれど、このタイプは実際にいる。逆に言えば、「己のテリトリーから離れない」、「本心を隠す」、これらを心得ていれば批判に打ち勝つことが可能だということだ。そんなことして楽しいかは知らないけれど(というか「教えて! goo」でそんな揚げ足とるみたいなことするのはどうかと思う)。どうしても相手にしたいのなら、一回だけ物申して、後はお礼が来ていても無視した方がいい。

以上、「教えて! goo」で心得ていること。別にこれが正解と言うわけではないし、ベターというわけでもない。ただ俺にとってベストな回答をするのに必要な要素といったほうがいいかもしれない。役に立つかはともかく、他の事柄でこれを使うかは個人の勝手だろう。

将来を一つしか見ていない人、見せていない人へ。

2009年01月19日 | 自己啓発
 受験真っ只中、当事者の人たちはむしろ見ない方がいいかもしれない。これを読んで、気が抜けてしまったり、これをやらない言い訳に使ってしまうのはよくない。どちらかというと、当事者になっていないときに見るべきだと思う。客観的に見れるとき、初めて気休め以上のものになると願って書いてみる。

 受験生は、ほぼ必然的に周りからそれに関する圧力を受ける。別に彼らは圧力を意図的にかけているわけじゃないけれど、当事者にとっては意図の皆無などさして問題ではないだろう。俺も当時、中々の圧力をかけられてきた。その圧力が邪魔だった俺は、他人との干渉をできるだけ避けた。別に当事者にとって、当初の問題を意識するのは当然であり、それを促す周りの対応も至極当然だと思う。でも過度すぎるのは、それはそれで問題だろうし、特に当事者に、そのような機微を理解しろと言われて、理解できる余裕はないと思う。

 受験生にとっては受験が全てだろう。それしか見えておらず、周りもそれ以外見せようとしない。だから常に気休めでもいいから考えておいて欲しいのは、自分達が思っている以上に人の生きる道というのは多種多様であるということだ。

 受験は所詮、物事の一つ、将来をかたどる要素の一つでしかない。大学に受かり、卒業したからといって、いい会社に就職できるわけではないのと同じように、受験に落ちたからといって、それからの人生に暗雲立ち込めるわけではない。理想論などではなく、人というのは結構何でもできる。特に受験するような若い人たちなら、若いだけでも充分武器になることだろう。

 もちろん、ストイックに物事に取り組むために、あえて将来を一つしか見ないのは方法としては悪くない。ただ、意図せず将来が一つしか見えていないんだったら、それが否定されたとき右往左往する羽目になる。だから心がけるべきは、あらゆる可能性に対して心身ともに柔軟に対処できる状態でいることが大切だということ。

“回答”は“解答”ではない。

2009年01月17日 | 教えて! goo
 俺は「教えて! goo」で主に人生相談とかで回答しているから、余計に念頭に置いておきたい事なんだけれど、“回答”は“解答”じゃない。“解答”には答えが用意されているけれど、“回答”にはそれがない。そして、「教えて! goo」では全ての回答は「回答」と名義されている。

 それは、回答者はあくまでどこの誰かも分からない人が書くことだから、何の当てにもならないってことでもあるけれど、何より人生の定義が用意されていないってことだからだと俺は常々思う。少なくとも、人生に正解は用意されていないし、それを他の人に勧められたとして、その人がうまく行く保障はどこにもない。俺たちは俺たちが思うベターな選択肢を選ぶしかないのだ。もちろん、「選ばない」という選択肢もあるけれど。

 この考えは、俺が回答者として常に念頭に置いてあるポリシーみたいなもので、プロフィールにも書いている。それほどに、俺たち回答者は人間でしかないという意思表明でもある。質問者の求める回答ができなかったときの言い訳にも聞こえるけれど、それは前回の記事と一緒に読んで判断してくれていい。

追記:何かちょっと前の質問(俺は回答していないんだけど)で、「あなたのような回答者はお呼びでない」というようなことを書いている質問者がいて眩暈がした。俺が記事で書いたことを編集して言ってやりたかったな~。質問者が回答者を選べる余地がないのと同時に、俺たち回答者も質問者の人格を分析して、その人にあった文章と回答を書けるわけじゃないんだよ(まあ、そんな話以前の問題な気がするけれど)。あれには「世界は自分中心に回っている訳じゃないんだよ」とか陳腐なことを言ってやったほうが的確な気がしないでもない(苦笑)。

 回答者の言い訳にも聞こえなくはないけれど、質問者と回答者の関係は実にシンプルで、それ以外の事柄に文句を言うのは間違っていると俺は思うわけね。それに文句を言うということは、もはやその人の求める回答者は幻想の世界にしかいないよとか、辛辣なことしか言えない。