ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

聞くは一時の恥だが、聞かぬは一生の恥にはならない。

2009年10月19日 | 自己啓発
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がある。俺の家にある辞書にはこんな感じで書いてある。

『知らないことを人に聞く恥ずかしさはその時だけのことだが、聞かないでいつまでも知らないままでいれば、一生恥ずかしい思いをすることになる』

まあ、所詮は昔の言葉だよなと思った。人に何かを聞くというのは、逸れに対して無知を曝すということだ。それを恥ずかしいと思う程度の羞恥心は持っているつもりだが、別に誰かに聞いて無知を曝さなくてもいいんじゃないだろうかとは思う。

だから、安易に「聞く」という選択を勧めてくる奴をどうにも好きになれない。「答える」側への配慮が欠けている。“無知”は恥ずべきことではないけれど、“無恥”でいいってことではないし、“無知”より“無恥”の方がいいってことでもない。逆もまた然りである。

逸れに対しての対処法が、「恥をかくことは恥ずかしいことではない」っていう、「聞く」ことの認識を変えようという方法である。悪くないけど、ちょっとそれはどうなんだろうかと思う。まず先ほど書いたが、「答える」側への配慮に乏しい。ここでいう「答える」側とは答えを知っている人間のことだが、自分の知っていることを他人に説明するのは結構ハチメンドウだ。説明が好きな人間だとしても、説明させることへの労力を考えれば、説明しないに越したことはない。

そもそも、今はわざわざ恥を露呈してまで人に聞く必要がなくなった。情報を得る手段はたくさんある。本はもちろんの事、ネットならGoogleという高性能な検索ツールがある。直接人を介さなくても情報を得やすくなった。それだと理解できないということなら、なおさら他人の労力が増えることを肝に銘じたほうがいい。さすがに、その手段ですら恥だと思う人はいないだろう。自己消化できるものは自己消化したい。

無論、「聞く」という行動には色々な面がある。「自信」とか「自尊心」とか「積極性」を育むといったこともあるだろう。ただ、それらはあったらいいけど、なくても全然構わないものだと思う。そもそも、それらに相関関係があるのかすら疑わしいとさえ思っている。

結局のところ、「聞く」という行為は無知を曝してそれを埋めるという行為以上のものではないだろう。そして、それだけのために恥を曝すのは随分ハイリスクだ。今では情報を得る手段もたくさんあり、恥をかかなくても情報を得ることが容易になった。恥をかかずに知識を得られるのならそれに越したことはないだろう。

それでもダメならいよいよ「聞く」という選択肢が入ってくるが、それでも「聞く」という行為をする利点はあまりない。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺は、“聞いたら一度で理解し、忘れないこと”ということが前提である。忘れてしまってもう一度聞くようなことを繰り返すのであれば、一生の恥と大差ない。そもそも、「聞く」以外の手段で分からないようなことが、特定の個人に分かるなんてことは稀だ。

結局のところ「聞く」という行為は、行き当たりばったりのとき位しかない。そんな状況になる時点で論外だとは思うが。

意図しない所からの誤読や誤解は避けられない。

2009年10月09日 | Weblog
俺は時おり、「教えて! goo」で質問や回答をしたり、ブログの記事を書いているが、どうしても意図しないところからのアプローチは避けられないでいる。意図せずとも、いい意味で解釈される分には構わないのだが、悪い意味で解釈され悪意をぶつけられると正直困る。

もちろん、俺だって出来うる限りの可能性を考えて、誤解を生みやすそうだと思う部分では自分の意図するところを書いたり、主題や伝えたい部分は繰り返し書いたりして、自分の意図した通りに読んで解釈してもらう配慮はしているつもりだ。それでも、受け手が悪い方に誤読や誤解をして、悪意をぶつけてくることが少なからずある。俺のうかつさや文章力のなさもあるのだろうけれど、ほとんど隙のない文章を書けたとしても誤解や誤読は無くならないと思っている。

書いた文章は俺の元を離れて、読み手である受け手に全てを任される。特に、ネットなどの不特定多数であるのならば、どのように変容して返ってくるかなんて、とてもじゃないけれど予測の域を越えている。だから、どんなに気をつけて文章を書いても誤解や誤読は避けられないし、ネットなど不特定多数のコミュではそれを覚悟して書いたほうがいいと思う。

だから、俺は誤読や誤解で悪意をぶつけられても、「それは意図していなかった」と弁明をする他に手段はないと思っている。