ハチメンドウ

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賞賛と批判が同じ世界

2016年04月21日 | Weblog

何かをアウトプットし、それを不特定多数の人が見れる場所で晒す以上、評価の対象であることは避けられない。そして、評価の対象であるということは、賞賛も批判もあるということは前回の記事でも触れた。賞賛を享受するならば、批判も甘受せざるを得ないだろう。

前回の記事 → 自由だけれど、“自由なだけ”である。

とはいえ、中には「賞賛や批判は区別しないけれど、『評価の対象になることそのもの』は欲しい人」がいるのである。理由は様々で、賞賛や批判に無頓着であったり、広告で稼ぎたいから、単に注目を集めたいから、etc...。背景は様々だが、賞賛も批判もさして重要視していない点は同じだ。

PVは賞賛や批判を明確に区別せず、「同じ評価」として扱う。もちろん、評価の内容は同じではないが、それら比率は必ずしも重要視されない。ならば人間の中にも、それらを明確に区別しない者がいるのはそこまで不思議ではない。

そういう人たちにとって重要なのは、「如何に評価(注目)されるか」だろう。評価時の反応を考慮しないならば、内容や書き方もそれを重視したものになっていく。要は、多くの人が関心のあるテーマを、センセーショナルに扱った内容になる。また、極端な話それが十中八九、批判される内容でも構わない。

ここに金銭的な利益を絡ませる極致が、いわゆる「炎上商法」と呼ばれるものだろう。まあ受け手目線では、金銭が絡まなくても「(賞賛や批判関係なく)評価されること自体が目的」の人も、本質的には同じだと考えていい。

これらは是非を語るならば、間違いなく「非」だと俺は思っている。彼らがどこまで意図しているかは知る由もない。だが、不特定多数の人が見られる場所で、賞賛や批判に対して無頓着に振舞い、それが大きく評価(注目)されることが有名無実と化すのは無秩序といっていい。

「正当な評価」、「正当な対価」なんてものが幻想であることは重々承知だ。けれど、批判を甘受どころか享受する世界なんて、さすがに倒錯しているにも程があるだろうと思う。いずれ、“そういう人たち”がこの世界の隅っこに住処を移し、批判が少なく賞賛が多い人々が表舞台で最も輝く、そんな世界を夢想している。

だが、賞賛と批判を明確に区別せず「同じ評価」として扱う世界で、それらを排除することは可能なのだろうか。不特定多数の人間が利用し、多様な価値観が触れ合うこの世界で、それらの区別が正確に行えるかは難しいとも思う。

 まあ、個人的には関係のない話なのだが。

自由だけれど、“自由なだけ”である。

2016年04月21日 | Weblog

書いたものを公開する。それは、他人の目に触れることを意識するということだ。自分のためだけに書くのなら、公開する必要なんてないのだから。当たり前だが、当たり前過ぎるが故に、そのことに鈍感な人も少なからずいる。

公開する以上、それは評価の対象になりうる。そして、評価の対象であるということは、賞賛も批判もあるということ。これは価値観の相違を抜きにしても、自分やその周りで構成された言葉が織り交ざる以上、不特定多数の読者がそれを本当に理解することは難しいからだ。書き手の求める理想の読み手なんてものはまずいない。

自分の価値観からくる言動が評価の対象になるという事実は、そういう「理想の読み手」を想定している人の方が過敏になりがちだ。だからこそ、余計に「客観的にみてどうか」ということは踏まえておいたほうがいい。その上で、書き手は賞賛や批判に対して身構えないようにすることがベターだろう。でなければ他人の理解に一喜一憂し、翻弄され、たちまち狼狽することになる。

「どうせ誰にも理解されない」と開き直り、好き勝手書けばいいという意味ではない。あくまで書き手の心を穏やかに保つ処世術としてである。賞賛も批判もあるのは避けられないが、比率は考慮すべきだろう。

もちろん、評価されることだけが大事ではない。何かを書いて公開する目的は人によって様々で、同じであっても重要度が違ったりもする。複数あって、それらが複雑に絡み合い、言語化すらできない人。そもそも自分でも良く分かっていない人もいるかもしれない。最終的には自由だし、好きに書くことも大事だ。けれど、それで結果的に不自由な思いをしたり、書いたものを公開することが嫌になるのは本末転倒だろう。

人が目と鼻の先にいないことから実感が湧かなかったり、錯覚したりするかもしれないが、「自分のアウトプットしたものが不特定多数の目に留まる可能性」というのを、改めて租借してみよう。賞賛や批判への対応をどうするか、それらの是非の判断はそれからでもいいだろう。


「快適度の均衡化」から見たルールやマナーの必要性。

2016年04月15日 | Weblog

マナーについての俺の認識は、数年前に語っている。

「マナー」の主成分は“主観”である。

あくまで個の問題に限っていえば、俺は自身の一貫性のなさにそこまで自責の念がない。過去の俺と、今の俺は同じ人間であって同じ人間ではない。パソコンが更新されるように、自分の価値観が変わることは、むしろ健全だとすら考えている。

なのだが、自分でも意外なことに上記の過去記事の分析は、今の自分から見てもそこまで間違っていないと思った。やはり、マナーの主成分は主観だ。「何となく不快」、「何となく気に入らない」が本質だろう。合理的な理由があっても、それはあくまで大義名分であり、後付けだ。

では、なぜ改めてマナーについて書くか。それはマナーは「主観」だけれども、それを踏まえた上でマナーの必要性に対する自分の認識が少し変わったからだ。

参考記事:[FAQ]よくある質問。 [FAQ]よくある質問。 [FAQ]よくある質問。(タイトルは同じだが、内容が違う)

 要は、例え主成分が主観でも、そして合理的な理由がないケースでも、それでもマナーは必要だということが書いてある。多様な価値観の人間が一つの社会、公共の場所で活動するときは「大半の人にとって最高ではないけれど、それなりには快適な場所」がベターだ。

電車内でヘッドホンの音漏れを俺が咎めないのは、「咎めるのに合理的な理由がないから」というより、俺個人が「そこまで気にならないから」という側面は大きい。そして、それも所詮は“主観”だ。もし、別の似たようなケースで、俺が同じように寛容でいられるかは正直なところ自信がない。個人差が生じることを前提とするならば、不寛容の視点から責めることは現実的じゃないだろう。

また、「合理的な理由がない」というのを理由に、不快になる可能性のある言動が全て許される社会がうまく回るとも思えない。だったら例え主成分が何であれ、ルールやマナー“そのもの”について必要であるならば、そこはさして重要ではないだろう。ルールやマナーとして運用する以上、個々がそれをしっかり理解している必要性もない。「マナーだから、ルールだから」で十分だ。

まあ、ルールやマナー“そのもの”についての認識は変わったけれど、本音としてはそれを踏まえた上でいくつかのルールやマナーはいらないものが混ざっていると俺は思っているけれどね。それら問題は個別に対処していくしかないのかな。『皆』が嫌がることを分かっていて、それでもしなければいけない理由がその『含まれない人』たちにあるのなら、『皆』も分かってくれるだろうし、そのルールもなくなるだろう」ってことなのかなあと。「快適度の均衡化」から判断するとき、個別のルールやマナーが大局的に見て適切かということが一つの分析点になりそうだ。

 追記:漁ったら過去のと割と最近のもあったので、両方ともリンクに載せとく。