何かをアウトプットし、それを不特定多数の人が見れる場所で晒す以上、評価の対象であることは避けられない。そして、評価の対象であるということは、賞賛も批判もあるということは前回の記事でも触れた。賞賛を享受するならば、批判も甘受せざるを得ないだろう。
前回の記事 → 自由だけれど、“自由なだけ”である。
とはいえ、中には「賞賛や批判は区別しないけれど、『評価の対象になることそのもの』は欲しい人」がいるのである。理由は様々で、賞賛や批判に無頓着であったり、広告で稼ぎたいから、単に注目を集めたいから、etc...。背景は様々だが、賞賛も批判もさして重要視していない点は同じだ。
PVは賞賛や批判を明確に区別せず、「同じ評価」として扱う。もちろん、評価の内容は同じではないが、それら比率は必ずしも重要視されない。ならば人間の中にも、それらを明確に区別しない者がいるのはそこまで不思議ではない。
そういう人たちにとって重要なのは、「如何に評価(注目)されるか」だろう。評価時の反応を考慮しないならば、内容や書き方もそれを重視したものになっていく。要は、多くの人が関心のあるテーマを、センセーショナルに扱った内容になる。また、極端な話それが十中八九、批判される内容でも構わない。
ここに金銭的な利益を絡ませる極致が、いわゆる「炎上商法」と呼ばれるものだろう。まあ受け手目線では、金銭が絡まなくても「(賞賛や批判関係なく)評価されること自体が目的」の人も、本質的には同じだと考えていい。
これらは是非を語るならば、間違いなく「非」だと俺は思っている。彼らがどこまで意図しているかは知る由もない。だが、不特定多数の人が見られる場所で、賞賛や批判に対して無頓着に振舞い、それが大きく評価(注目)されることが有名無実と化すのは無秩序といっていい。
「正当な評価」、「正当な対価」なんてものが幻想であることは重々承知だ。けれど、批判を甘受どころか享受する世界なんて、さすがに倒錯しているにも程があるだろうと思う。いずれ、“そういう人たち”がこの世界の隅っこに住処を移し、批判が少なく賞賛が多い人々が表舞台で最も輝く、そんな世界を夢想している。
だが、賞賛と批判を明確に区別せず「同じ評価」として扱う世界で、それらを排除することは可能なのだろうか。不特定多数の人間が利用し、多様な価値観が触れ合うこの世界で、それらの区別が正確に行えるかは難しいとも思う。