ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

日々の食事に習慣はいらない。

2009年06月25日 | Weblog
 最近、小難しいことを気取って書いていたので、今回は自分の些細な食事事情を書こう。

 毎日、或いは毎週宅配する類の食品が俺は苦手だ(牛乳とかヤクルトとか)。その食品が苦手というよりも、その毎日、毎週宅配するという形式からくるのが苦手なのだ。基本的に、毎日食べなければいけないからだ。食べなければ一日に複数食べることになる上、自分の中のペースに合わせるのが難しい。

食事はその場の体調や気分によって、食べないか或いは食べるものを決める。しかし、上記の形式はその波長に合わせてくれない。一週間の間に食べきらなければ、まだ残っている状態で食品が来て、どんどん食べきれなくなっていく。そもそも毎日同じものを食べていたら飽きるから、毎日食べるペースをつける気にもなれない。そういう理由もあり、俺はどうしてもそういう形式をとったものを「食べなければいけない」という認識で食べることしかできない。

俺にとって、食事はただの栄養摂取ではない。その時の気分で食べたいものを決め、決して日々のライフスタイルに準じたものではない。だから、「食べなければいけない」ものは美味しく食べる気になれない。ただ、そのように習慣的に食事を摂る人も多いことを考えると、そういう形式を取って食べることが、俺のライフスタイルに合っていないということなのだろう。

食事をする時に考えることには好き嫌い以外にも、もちろんその時の気分や体調もある。「いつか食べるだろう」と言って、あらかじめ買っておくことを俺はしないし、その時によって食べたいものを状況によって判断する。

とりあえず母には、ヤクルトの宅配申し込みをそろそろ解約して欲しいものである。食べきれない、飲みきれないものは俺を含めた他の家族が処分する破目になるのだから。

多様性の認識は、あくまで己のキャパ内でいい。

2009年06月12日 | 教えて! goo
 この世には色々な人がいる。そんなことは、わざわざ書くまでもなく分かっている。ただ、それをどう認識するかによって、他人の見方が変わってくる。

世の中あまりにもいろいろな人がい過ぎないでしょうか?

不毛な方向に見方が肥大化すると、リンク先の質問者のようにどうしようもないことを恐れる。質問者の書いている、人間の多様性による殺伐感、そこから来る恐れがなぜ不毛でどうしようもないかというと、人一人にはキャパシティがあって、大抵はその中で人と関わっていくからだ。己の人生の中で、関わることのできる人間の数や度合いには限界がある。つまり、いくら人間の多様性が際限なくとも、俺達の認識できる多様性はせいぜいそのキャパ内でしかないし、それ以上の認識をすることは大きな負担になるということだ。

このキャパの内容量は人それぞれだろう。別に大きければいいというわけではない。大きければ、その分色々な人間を認識しなければならないから、無理に広げる必要はない。広い方が他人への理解と許容範囲が広がるが、自分にとって苦痛でない程度に広げればいい。

かなり噛み砕いて言えば、これは単に好き嫌いの問題である。嫌いな人とは可能な限り関わりたくないし、気が合う人とは仲良くしたい。最初にややこしく書いているが、結局のところ、大抵の人が自然と行っていることである。つまり、ほとんどの人が己のキャパ内で他人と関わっているため、リンク先の質問者が感じている殺伐感は杞憂に過ぎないと思う。

もちろん、例外はある。それがいわゆる人間関係のトラブルとなったりするのだろう。だから、俺たちが知るべきなのは、己のキャパシティを知ることだ。そこから外れるような人に出会えば関わることを避け、避けるのが無理そうならばキャパシティを一時的に広げたりする。これだけでも、多様性に対する恐怖は大分和らぐはずだ。

確かに人は多い。だが、せいぜい俺たちが認識できるのは自分自身のキャパ内のみだし、それで充分だ。俺は俺の人格を尊重する。が、それは多様性を祝福しないということではない。己のキャパシティを知り、人と接しようという心構えの表れである。