Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

あなたの知らない台湾(13)

2023年04月01日 | 旅の情報
霧社事件を考えるー真実は霧のなか

 台中から日月潭へ行く途中、バスは埔里という街に寄る、この埔里のバスターミナルから
北東に20kmの山間に霧社という集落がある。日本では霧社事件で知られた村である。
 霧社事件とは、1930年大日本帝国植民地支配下の台湾で日本人巡査が原住民の若者を殴打
したことが発端で、原住民が反発して蜂起、モーナ・ルダオをリーダとして霧社各地の駐在所を
襲った後、霧社公学校で行われていた運動会場を襲撃、日本人140人を殺害した事に起因する
一連の事件である。
武装蜂起の背景には、日頃からの差別的な取り扱い、原住民に対する侮辱、森林伐採などの過酷な
労働の強制について原住民たちの間に不満が募っていたと言われている。
 台湾総督府が駐留日本軍や警察を使い武力による鎮圧を開始、大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾
などを使い暴動部族を制圧。村が全滅する悲劇的な結果をまねいた。
日本側の投降呼びかけによって投降した蜂起部族はみな殺しにされた。
 霧社事件を代表する記念碑として「日本人犠牲者追悼碑」が建てられ、野蛮な原住民を文明化する
過程で起こった、やむをえない犠牲とされていた。
セゼック族のマヘボ社の頭目、モーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れて、
蜂起を画策したとも言われていた。 


モーナ・ルダオの像


モーナ・ルダオの墓


原住民抗日蜂起記念像


背後から撮影


拡大部分


霧ヶ岡神社跡

 日本の植民地終了後、国民党政権は抗日教育の一環として、「霧社山胞抗日起義記念碑」を設立、
ここに設置されていた日本人の犠牲者追悼碑は破壊された。
国民党政権では評価はまったく変わり、霧社事件は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動とされ、
蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と讃えられるようになった。
その時の権力者の都合によって、歴史のストーリが簡単に書き換えられる。
台湾での植民地政策は天皇と帝国に対する忠誠を示した台湾人は優遇され、反撥する人間は徹底して
弾圧される二面性を持っている事を理解する必要がある。
モーナ・ルダオは英雄か逆賊か?真実は歴史の霧のなかである。


霧社への行き方
埔里バスターミナルから「翠峰」、「清境農場」、「蘆山」行き「霧社」下車。


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