場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

明日香幻想ーその2

2022-10-20 09:39:15 | 場所の記憶
 甘橿(あまかし)の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊になって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。
 境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。南北朝時代になって建てられたものという。
 蘇我入鹿が誅殺された現場・板蓋宮大極殿跡は、現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除いて、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。今そこに立ってみても、かつてここに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。
 不思議なことだと思う。遠い昔の出来事とはいえこれほどまでに様変わりして、ただの平凡な草原に帰ってしまっている場所があるということが。
 過去はとうの昔に消え去ってしまって、今この世に生きる人は誰ひとりとして、遥か昔の、この地のありさまを目にした者はいない。それ故にと言えるかも知れない。その地に埋め込まれた過去の記憶が、さまざまな想像と憶測をからめて、色とりどりの形をなしてよみがえってくる。
 一説によれば、中大兄皇子が蘇我入鹿を倒したといわれる、いわゆる大化の改新というものは、実際はなかったのだ、という。そうなると蘇我氏の排除というものは、血生臭い出来事によってではなく、もう少し政治的な陰謀のなかで行われたことになる。となると、『日本書紀』に記録されているような宮殿内でのクーデターが語り伝えられているは、正が邪を討伐するという、勧善懲悪物語として作り上げられたものなのか。
 のどかな陽が満ちる野面に立って歴史の虚実を想っていると、複雑な思いがこみ上げてくる。古代王朝が置かれていた頃、この地は権力争いが生臭く渦巻いていたのである。だが、それらのことがまるで嘘のように、今そこは平和なたたずまいに包まれている。
 皇極帝の宮があったと伝えられる板蓋宮跡と県道を隔てて、ひときわ伽藍の大きな寺があるが、それが橘寺である。
 この寺は聖徳太子の生誕地として知られるところだ。太子の誕生は西暦五七二年のこと。それから二十一年後、太子は成人し、時の女帝推古帝の摂政として歴史の表舞台に登場する。
 この推古帝は時の権力者蘇我馬子の姪であり、太子も馬子の血筋をひく係累であった。さらに推古帝は太子の叔母にあたる関係にあった。この蘇我馬子の直系である蝦夷、入鹿が五十年後の六四五年滅ぼされることになる。いわゆる、大化の改新である。
 そもそもこの地は太子の祖父にあたる欽明天皇の別宮があったところで、太子の父(用明帝)もここを別宮として住まわれていた。その因縁で、太子誕生の地として伝えられているのである。
 別宮であったものを尼寺として改造したのは太子その人で、寺の縁起によれば、当初は東西八七一m、南北六五〇の寺域に、金堂、講堂、五重塔をはじめ六十六もの堂宇が建ち並んでいたという。現在みる伽藍からは想像もできない。
 寺名は、この辺りが橘の白い花の咲く里であったところから由来するもので、別宮も橘の宮の名で親しまれていた。ちなみに、橘はミカンの原種といわれ、これには次のような言い伝えがある。
 『日本書紀』によると、橘は、垂仁天皇の勅命を受けた田道間守(たじまもり)が不老長寿の秘薬として、常世の国から持ち帰ったもので、その種をこの地に撒くと、やがて芽が出て立派な樹に育ったというのである。それ以来、この地は橘の里と呼ばれるようになったと伝えられている。
 現在、寺の正門にあたる東門から境内に足を踏み入れると、突き当たりに本堂が見える。およそ三八mの高さがあったと推定される五重塔の跡地は、参道の左手にあり、そこには塔の心礎であった土壇が今も残る。
 太子にまつわる幾つかの伝聞が残る、静かな寺の境内に佇んで瞑目すると、爽やかな風が頬を撫でてすぎてゆく。落葉を焚く煙がどこからともなく漂ってくる。
 いわゆる飛鳥時代と呼ばれているのは、推古帝から文武帝までの九代、ほぼ一二〇年近くの時期をいう。その間、二度ほど都が飛鳥以外の地に移されたことはあったが、代々の天皇が即位した都はすべて飛鳥の地に置かれた。
 推古帝の豊浦宮、小墾田宮(おはりだのみや)、舒明帝の岡本宮、皇極帝の板蓋宮、斉明帝の川原宮、天武帝の浄御原宮(きよみはらのみや)、持統帝、文武帝の藤原京といった具合に奠都を繰り返したのである。
 今、これらの都のあった場所を地図の上で確認すると、ほとんどが飛鳥川の流域に点在していることが分かる。平坦な川の流域は建物を建造するにふさわしいし、第一、水利の便がいい場所は、物資の流通に好適であるという実利的な理由があったのだろう。
 が、それ以上に、古代の飛鳥人は、飛鳥川の流れにある意味をもたせていたのではないかと思われてならない。それは現世と他界を結び付ける聖なる場所としての明日香川の存在である。
 次に訪れたのは、飛鳥寺の北西方向に小高く盛り上がる甘橿丘(標高一四八)であった。古くから神奈備山として崇められた山である。神秘的な山として崇められたこの小丘は、こんもりとしたその形といい、雑木の植生といい、神が宿るにふさわしい山容を呈している。飛鳥人がこの山を特別視した理由が分かるような気がする。
 地図を眺めてみると飛鳥の平野部のほぼ中央に位置し、地の利の良さがうかがえる。当時の一等地であったのであろう。豊浦という響きの豊かな地名がそれを表している。そして、その丘の麓には蘇我氏の大邸宅があった。大化の改新で滅ぼされた蝦夷、入鹿親子の時代である。
 現在歴史公園に指定されている甘橿丘は、大和三山を一望するにふさわしい展望地で、この丘に立つと、北に天香久山、耳成山、西に畝傍山を望むことができる。
 ところで、よく飛鳥の地を言い表す際に、大和三山に取り囲まれた地というが、この丘からの実際の眺めはそうした表現からはほど遠い感じがした。 
 というのも、それぞれの山の位置が離れすぎているためと、標高が二〇〇mにも満たないために、取り囲むという景観にはなっていないからである。
 とはいえ、古代の飛鳥人がこれらの山々に特別な感情を抱いていたことは間違いない。特に、天香久山はそうであった。「大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山」と舒明天皇によって讃えられたほどの山なのである。
 王朝人が詠った歌のなかにも天香久山はしばしば登場する。天香久山は他の二山とは異なって独立峰ではない。形もよくない。多武峰の山つづきになる端山である。
 その山が特別の意味をもっていた理由は、そこが国見山として選ばれていたためであった。国見とは、支配者が山の上から地上を眺め下ろすことで、地上を支配する力を身に帯びる儀礼として行われたものである。
 そもそも高い峰つづきの、しかも前方に大平原を望む端山は、天から降り立った神が、地上に足を踏み入れる最初の場所、即ち、国原を見渡すに最適な場所として理解されたのである。そうした聖なる場所にあやかった国見であった。
 それにつけても、飛鳥という地は、日本人の風土感覚にぴたりとあう土地だと思う。周囲の山々がどことなくなだらかで、柔らかく、それらの山々に囲まれて、ちょうどよい広さの平野が広がり、川が流れ、それはまさに山間処(やまと)の地なのである。
 この凹型的風景の中をさ迷っていると、いつしか言い知れぬ安堵感に包まれてくる。ずっと昔、こうした風景に親しんだことがあるような錯覚にとらわれるのである。不思議なことだと思う。
 丘に登り、谷をわけ、田園の中を歩き回っていると、いかに飛鳥という地が古代の土俗的な雰囲気に溢れたところかが分かる。
 たとえば、真神原(まかみのはら)。その地に飛鳥坐(あすかにいます)神社と呼ばれる古社がある。飛鳥の産生神を祀った神社として、また、竜蛇信仰を伝える聖なる地として古くから地元の人々に親しまれている。 
 神社の石段を上ると、うっそうとした樹木に覆われた境内のあちこちに社が立ち、なにやら神々しい雰囲気が漂う。昼なお暗く、森閑としたたずまいだ。
 ふと気づくと、境内の片隅に大小さまざまの石が並んでいる。
 よく見ると、それらはみな陰と陽とを組み合わせた生殖器に見立てられた石で、古来、そこには神が宿るものとされた。古代人の素朴な信仰心を今に伝えるものとしてほほえましいものがある。
 そういえば、飛鳥川の上流、祝谷の地で見たマラ石なるものを、ふと思い出した。そこには古さびた石が斜めになって地面に突き刺ささっていたのである。その古色を帯びた石は、何やら滑稽さをたたえて、地面から這いあがっているのだ
 が、それを周囲の風景のなかに置いて把えて見てみると、なにやら古代人の大いなる意図が見えてくるようで実に愉快であった。