場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

2022-08-21 09:38:07 | 場所の記憶
 三ノ輪の浄閑寺といえば、またの名を投げ込み寺で知られる寺である。投げ込み寺の由来は、遊里吉原に身を沈め、そこで不幸にも命を落とした身寄りのない遊女たち二万五千人余りを、投げ込み同然の状態でその寺に埋葬したことによる。
 東京メトロ日比谷線三ノ輪駅を出て、商店街を東に少し入ると下町には珍しく、そこだけ濃い緑に包まれる一角がある。
 山門をくぐり、秋の日が長い影を落とす境内に足を踏み入れると、ふいにあたりの物音が絶え、不思議なくらいの静寂に包まれる。
 投げ込み寺と知って訪れるせいか、寺に漂う雰囲気がなにやらいわくあり気である。この寺のある地は、かつて吉原への遊客が足繁く通った、日本堤の入口にあたる場所にあった。
 日本堤と呼ばれたのは、当時そこに音無川という細流があり、流れに沿って土手が連なっていたためである。吉原への遊客はその土手を徒歩で、あるいは、その流れに船を浮かべて吉原を目指したのであった。この音無川はこの辺りに来ると、山谷堀と呼ばれた。その流れは現在も暗渠となって一部が残り、隅田川に注いでいる。
 今は桜並木の細長い公園となっている山谷堀ではあるが、髪洗橋、地方(じがた)橋、今戸橋など橋の名に往時の面影がしのばれ、何とも懐かしい。
 その浄閑寺が創建されたのは明暦元年(1655)。二年後の明暦三年正月の十八日に、俗に振袖火事と呼ばれる江戸の大火が起きる。江戸の主要部は灰燼に帰し、それを機会に、日本橋にあった吉原遊郭が浅草田圃の一角に移された。その後、名前も新吉原と呼ばれるようになって江戸の名所のひとつとして繁栄する。が、その繁栄は薄幸の遊女たちの身を切る犠牲の上に咲いた徒花だった。
 そもそも江戸という町に、吉原のような幕府公認の遊郭がつくられたのは、江戸の町の男女の人口構成が、極端にバランスを欠いていたところに理由があった。江戸は開府以来出稼ぎの町であった。地方から上京する働き手のほとんどは男だった。それに加えて、幕府の参勤交代制度が敷かれたことで、国許に妻子を残して単身赴任する武士がたくさんいた。
 幕府はこうした江戸の町の実態を憂慮して、犯罪防止のために一定の場所に公認の郭(くるわ)を造ることで、治安の確保、風紀の乱れを防ごうと目論んだのである。かくして新吉原開業から昭和三十三年四月の廃業までの三百年もの間、吉原はお上の公認の遊郭として栄え、さまざまな文化と風俗を提供することになった。
 そして、そこに身を沈め、不幸にして命を落とした女たちが、浄閑寺に葬られつづけたのである。
 もちろん、遊女のすべてがこの寺に葬られたわけではない。ほかにもこの種の寺が吉原近辺にはあったし、多くは楼主の菩提寺に埋葬されたのである。浄閑寺には、病死した者、情死して引き取り手がなかったり、身寄りのない者が埋葬された。
 そのありさまが今に伝えられている。 
 骸(むくろ)になった遊女は、大引過ぎ、今の午前二時過ぎになると、青楼の裏門から、そっと担ぎ出された。骸(むくろ)は筵(むしろ)にくるみ、戸板に乗せられて、それを楼の若い衆が土手沿いに運んでいった。 
 この寺には今もこれら遊女たちの顛末を伝える過去帳が残されている。そこに記載されているのは法名と没年、楼閣名だけで、本姓も、どこの生まれかも分からない。江戸時代、遊女は身を売ると同時に、人別帳(戸籍簿)からその存在を抹消されていたのである。
 永井荷風は人も知る、遊里を徘徊し、遊里小説を著した作家である。その関係で、荷風は遊女にゆかりある浄閑寺を幾度か訪ねている。最初に訪ねたのは明治三十一、二年の頃で、その頃の浄閑寺はそれこそ堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていたらしい。並び立つ小さな墓はみな蔦かつらに覆われていたという。
 そして最後にこの地を訪ねたのが、昭和十二年六月のことだった。
 その時の印象を荷風の日記、『断腸亭日乗』のなかで次のように記している。
 「掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即ちこれなり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに、三十余年むかしの記憶は、忽ち呼び返されたり。土手を下り、小流に沿ひて歩みし昔、この寺の門は赤く塗られたるなり。今、門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌(みぎり)の左方に角海老若紫之墓あり。‥‥今日の朝の三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなし。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域(えいいき)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を以て足れりとすべし」
 三十余年ぶりにこの地を訪ねた荷風は、余程懐かしかったのであろう。昔の記憶を呼び戻しながら旧知の友にでも出会ったように感慨深げに寺の様子を活写している。
 ここでは総霊塔のことには触れていないが、それは多分、荷風にとって、この寺そのものが、吉原という苦界に関わる事跡であり、遊女たちの奥津城であると捉えていたためであろう。その証拠にというわけではないが、荷風が興味を惹かれたのは、遊女若紫の墓であり、新比翼塚であった。小説の題材を探すために訪れた荷風にとっては、当然の興味の対象であっただろう。
 ちなみに、若紫の墓というのは、荷風も日記に詳述しているように、明治三六年、角海老楼で無理心中のとばっちりの犠牲になった二十二歳の花魁大夫の墓である。若紫は、五日後に待望の年期あけを控えて、胸をはずませていたところを、たまたま登楼した酔客の凶刃にあい、非業の死を遂げたのである。
 また、新比翼塚というのは、明治十八年十月、品川楼で情死した、遊女盛糸と内務省の警部補谷豊栄の二人の追善に建てられた比翼塚である。この事件はのちに「吉原心中」として新聞連載され、演目「盛紫好比翼新形」として歌舞伎上演された。
 荷風も記しているように、本堂と庫裏は震災にも遭わず、その後の戦災にも無事で、ついこの間まで寛保二年(1742)以来の建物の姿をとどめていた。が、それもさすがに老朽化には勝てなかったと見え、現在は取り壊され、新しくコンクリート造りの堂宇に変貌した。
 寺は建て替えられたが、その墓域は昔のままである。薄暗く湿り気のある、決して広くはない墓域には、櫛比するようにこぶりの墓が並んでいる。
 そのなかをぬって奥へと歩んでゆくと、目の前にひときわ高くそそり立つ遊女らを祀る無縁墓がある。「安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目立つばかり」と、荷風が最初に掃墓に訪れた際に記述した、投げ込み寺の由来ともなった供養塔は、今、新吉原総霊塔という文字が刻まれて、蓮の形をした台座の上に乗り、それを支えるように古びた石垣が築かれている。石塔には昭和四年建立とある。また、石垣には、「生まれても苦界、死して浄閑寺」の花又花酔(川柳)の句が刻まれている。
 石垣の横に小さな窓の付いた扉があった。その小窓から内部を覗くと骨壺が累々と積まれていた。思わず見てはならぬものを見てしまった思いと同時に、卒然と胸に迫りくるものがあった。とはいえ、名も知れぬ人が手向けた香華が、ひっそりと石塔に捧げられているのを目にした時には、思わずほっとした気持ちになったものである。
 ところで、『断腸亭日乗』に記し、そう願った荷風の墓は、結局この浄閑寺には建てられなかった(墓は雑司ヶの永井家代々の墓地にある)。代わりに、娼妓たちの霊を祀った総霊塔の前に、荷風散人の文学碑が立っている。その碑面には、「今の世のわかき人々われにな問ひそ今の世と、また来る時代の芸術を」で始まる『偏奇館吟草』の一部「震災」から抜粋した詩文が刻まれている。そして、その碑の左隅に、赤御影石でできた荷風の筆塚がひっそりと添えられている。
 それは、荷風氏のせめてもの願いにそった事跡であるように、私には思えたのである。

タイトル写真:新吉原総霊塔