彼らの虐殺の模様はつぎのようなものであった。
虐殺は9月4日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。
刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23歳、加藤高寿30歳、山岸実司21歳、近藤広造26歳、北島吉蔵20歳、鈴木直一24歳、吉村光治24歳、佐藤欣治35歳の8名、それに純労働組合の平沢計七34歳、中筋宇八25歳 の2人をくわえた計10名であった。
南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく6人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町3519番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。9月3日、夜10時すぎのことであった。
同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれも同時刻なのがきわめて計画的であることをうかがわせた。
彼らの逮捕は当初から意図的であったために、その抹殺のされ方も計画的であった。ことさらの理由もないまま闇から闇へ、彼らは犬のように刺殺されていった。
「復も(また)も」というのは、実際は、この事件のあとで起こったのだが、世間に報道されたのが先であった大杉栄の虐殺事件のことを指している。そして、「軍の手によって」とある軍隊は近衛騎兵第十三連隊の田村春吉少尉とその部下の兵たちである。
活動家10名を逮捕した警察は、当時、亀戸周辺の警備にあたっていた近衛連隊に彼らの処分をまかせた。警察と軍隊とが手をむすんでの虐殺行為である。
虐殺は大震災の混乱のどさくさのなかでおこなわれたため、殺された日時も場所も現在では推定の域を出ない。しかし、周辺の状況、目撃談から総合すると、9月5日の早暁、亀戸警察署内の中庭で殺害がおこなわれたことが推定できる。
そして、殺害後、遺体は直ちにその場で焼却されたと、新聞は報じた。しかし、焼却された場所については異説がある。近くの荒川(放水路)の河原に運ばれ、そこで焼却されたとも、大島八丁目の沼の多い原っぱで焼却されたともいわれている。実際、これらの場所から、後日焼却された死体が見つかっている。
そもそも亀戸地区の地震被害は、他の箇所と比べると少なかった。にもかかわらず、忌まわしい虐殺行為が最も激しく、大量におこなわれたのである。
伝えるところによると、この地区での虐殺行為の発端は、9月1日の午後であったという。それは、習志野から派遣された軍隊が、亀戸駅付近に避難していた罹災民のなかにまぎれていた、ひとりの朝鮮人を血祭りにあげたことからはじまった。しかも、その行為を目撃していた群集のなかから、期せずして万歳歓呼の声がわきあがったというのだ。
この時期、朝鮮人来襲という流言飛語は、不安と恐怖にかられたこの地区の住民の心を完全にとらえていた。彼ら住民は自警団を組織し、見えぬ敵の来襲にそなえていたのである。
攻撃は最良の防御でもあった。自分たちの周囲にいる朝鮮人を捕らえろ、という声が卒然として巻き起こったのである。その後は集団ヒステリーにも似た心理状態での虐殺の横行であった。
亀戸地区を中心に大島町の各所でおこなわれた虐殺は悲惨をきわめた。軍隊と警察と自警団が連合して、朝鮮人及び中国人労働者、社会主義者を殺戮したのである。
その土地のイメージといったものがある。
亀戸地区が攻撃の対象になったのは、この地区が帯びていたイメージのためだった。
亀戸地区が、外国人労働者、主に朝鮮人、中国人の多く住む場所であったことから、胡散臭い場所ととらえられていたことがその一つ。これは民族的偏見にもとづく差別的イメージというものである。二つめは、治安当局から、この地区が労働運動の拠点として、不逞の輩の集まる場所としてイメージされていたことがある。
取り締まり当局は、これらふたつながらのイメージを、大震災の混乱に乗じて一挙に払拭すべく、虐殺行為に出たともいえる。それは「峻厳、人の肝を寒からしめる」ことを目的とした行為であった。
当時、日本の大都市の周辺には沢山の朝鮮人が住んでいた。彼らのほとんどは、日本の植民地政策により母国の土地を奪われた農民であった。ある者は土木工事の飯場などに集団的に住みつき、ある者は工場労働者として働いていた。
江東・南葛地区には、明治三十年代から多数の工場が誘致されていた。これらの工場は、いずれも職工数千人をこえる規模をもち、竪川や横十間川、今、スカイツリーが立つ北十間川沿いの運河に点在していた。
工場群が川沿いにあったのは、原料および製品の運搬をすべて船運にたよっていたためである。そもそもこの地区に工場が多く集まるようになったのも“水運に恵まれた土地柄ゆえであった。
ちなみに、大正11年の業種別工場分布をみてみると、亀戸地区だけでも化学工場六四、機械工場61、染色工場22を数えていた。いかにこの地区にたくさんの工場が集まっていたかが知れよう。朝鮮人などの外国人労働者の多くがこれら工場の労働者として働いていたのである。
大正という時代は東京がモダン都市化してゆく時代であった。都市化の進行によって、都市のなかに暗闇が成立する。それは秘密めいた空間である。治安当局が、そうした空間を胡散臭い、禍々(まがまが)しい場所ととらえたのも自然の成り行きであった。
そして、その闇の部分を、暴力をもって取り除こうとした。大震災の混乱に乗じておこなわれた虐殺行為は、そうした意図のもとで起きたのである。
犠牲者たちはいずれも正式な死亡届けのないまま、戸籍から消されず、それゆえに墓もない状態であるという。
現在、亀戸天神にほど近い浄心寺というこぢんまりした寺に「亀戸事件犠牲者之碑」がひっそりと立つばかりである。
タイトル写真:浄心寺・赤門
虐殺は9月4日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。
刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23歳、加藤高寿30歳、山岸実司21歳、近藤広造26歳、北島吉蔵20歳、鈴木直一24歳、吉村光治24歳、佐藤欣治35歳の8名、それに純労働組合の平沢計七34歳、中筋宇八25歳 の2人をくわえた計10名であった。
南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく6人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町3519番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。9月3日、夜10時すぎのことであった。
同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれも同時刻なのがきわめて計画的であることをうかがわせた。
彼らの逮捕は当初から意図的であったために、その抹殺のされ方も計画的であった。ことさらの理由もないまま闇から闇へ、彼らは犬のように刺殺されていった。
「復も(また)も」というのは、実際は、この事件のあとで起こったのだが、世間に報道されたのが先であった大杉栄の虐殺事件のことを指している。そして、「軍の手によって」とある軍隊は近衛騎兵第十三連隊の田村春吉少尉とその部下の兵たちである。
活動家10名を逮捕した警察は、当時、亀戸周辺の警備にあたっていた近衛連隊に彼らの処分をまかせた。警察と軍隊とが手をむすんでの虐殺行為である。
虐殺は大震災の混乱のどさくさのなかでおこなわれたため、殺された日時も場所も現在では推定の域を出ない。しかし、周辺の状況、目撃談から総合すると、9月5日の早暁、亀戸警察署内の中庭で殺害がおこなわれたことが推定できる。
そして、殺害後、遺体は直ちにその場で焼却されたと、新聞は報じた。しかし、焼却された場所については異説がある。近くの荒川(放水路)の河原に運ばれ、そこで焼却されたとも、大島八丁目の沼の多い原っぱで焼却されたともいわれている。実際、これらの場所から、後日焼却された死体が見つかっている。
そもそも亀戸地区の地震被害は、他の箇所と比べると少なかった。にもかかわらず、忌まわしい虐殺行為が最も激しく、大量におこなわれたのである。
伝えるところによると、この地区での虐殺行為の発端は、9月1日の午後であったという。それは、習志野から派遣された軍隊が、亀戸駅付近に避難していた罹災民のなかにまぎれていた、ひとりの朝鮮人を血祭りにあげたことからはじまった。しかも、その行為を目撃していた群集のなかから、期せずして万歳歓呼の声がわきあがったというのだ。
この時期、朝鮮人来襲という流言飛語は、不安と恐怖にかられたこの地区の住民の心を完全にとらえていた。彼ら住民は自警団を組織し、見えぬ敵の来襲にそなえていたのである。
攻撃は最良の防御でもあった。自分たちの周囲にいる朝鮮人を捕らえろ、という声が卒然として巻き起こったのである。その後は集団ヒステリーにも似た心理状態での虐殺の横行であった。
亀戸地区を中心に大島町の各所でおこなわれた虐殺は悲惨をきわめた。軍隊と警察と自警団が連合して、朝鮮人及び中国人労働者、社会主義者を殺戮したのである。
その土地のイメージといったものがある。
亀戸地区が攻撃の対象になったのは、この地区が帯びていたイメージのためだった。
亀戸地区が、外国人労働者、主に朝鮮人、中国人の多く住む場所であったことから、胡散臭い場所ととらえられていたことがその一つ。これは民族的偏見にもとづく差別的イメージというものである。二つめは、治安当局から、この地区が労働運動の拠点として、不逞の輩の集まる場所としてイメージされていたことがある。
取り締まり当局は、これらふたつながらのイメージを、大震災の混乱に乗じて一挙に払拭すべく、虐殺行為に出たともいえる。それは「峻厳、人の肝を寒からしめる」ことを目的とした行為であった。
当時、日本の大都市の周辺には沢山の朝鮮人が住んでいた。彼らのほとんどは、日本の植民地政策により母国の土地を奪われた農民であった。ある者は土木工事の飯場などに集団的に住みつき、ある者は工場労働者として働いていた。
江東・南葛地区には、明治三十年代から多数の工場が誘致されていた。これらの工場は、いずれも職工数千人をこえる規模をもち、竪川や横十間川、今、スカイツリーが立つ北十間川沿いの運河に点在していた。
工場群が川沿いにあったのは、原料および製品の運搬をすべて船運にたよっていたためである。そもそもこの地区に工場が多く集まるようになったのも“水運に恵まれた土地柄ゆえであった。
ちなみに、大正11年の業種別工場分布をみてみると、亀戸地区だけでも化学工場六四、機械工場61、染色工場22を数えていた。いかにこの地区にたくさんの工場が集まっていたかが知れよう。朝鮮人などの外国人労働者の多くがこれら工場の労働者として働いていたのである。
大正という時代は東京がモダン都市化してゆく時代であった。都市化の進行によって、都市のなかに暗闇が成立する。それは秘密めいた空間である。治安当局が、そうした空間を胡散臭い、禍々(まがまが)しい場所ととらえたのも自然の成り行きであった。
そして、その闇の部分を、暴力をもって取り除こうとした。大震災の混乱に乗じておこなわれた虐殺行為は、そうした意図のもとで起きたのである。
犠牲者たちはいずれも正式な死亡届けのないまま、戸籍から消されず、それゆえに墓もない状態であるという。
現在、亀戸天神にほど近い浄心寺というこぢんまりした寺に「亀戸事件犠牲者之碑」がひっそりと立つばかりである。
タイトル写真:浄心寺・赤門