【シンプルでスタイリッシュな包み紙のチョコ】
アメリカからのおみやげに、チョコレートをもらった。
「有名なお店なんだって。すごくおいしいよ!」と笑顔とともに
手渡された茶色い紙袋をそっとひらくと、チョコの香りのほかに
ふわ・・・っと甘い薫りがした。
これは、アメリカのにおいだ。
サンフランシスコやラスベガス、N.Yでも、そしてハワイも
グアムもサイパンも、アメリカはどこでも
空港に降り立ったとたんにこの甘い薫りに包まれるのだ。
滞在中はそのうち、だんだんと鼻が慣れてしまうのだが
日本に戻ってトランクを開けたとたん、
この甘さが部屋中に漂いはじめる。
私はそんな瞬間がひそかに大好きである。
この甘くて心地よい薫りに気がついたのは、息子だった。
「お母さん!アメリカのにおいがするよ~!」と
喜んだりするのである。
シンプルな生成りの紙袋の中には、3枚のチョコレートのほかに
一緒にシカゴの薫りまで入っていたようでなんだか嬉しい。
****************************
先日、花の講師仲間の先輩から“蓮の蕾”について
こんな話を教えてもらった。
近所の植物園には3000年前の種から発芽させて栽培した
蓮の池があるという。6月中旬から7月までの短い間、
幻想的に咲き誇るのだそうだ。
「蓮ってね、すごく良い香りがするのよ!知ってた?
膨らんでいる蕾をそっと手のひらでにぎると、
蕾のてっぺんから空気がふ~っと抜けるの。
その芳醇な甘い香りは本当に上品なのよ。
一度ぜひためしてみて!」という。
「3000年前のそのままの蓮でしょ。品種改良されてないからね、
人間に媚びてないわけよ。その力強くて、凛とした姿は
本当に近寄りがたいくらいに気高いわよ。」と講師仲間の
大先輩ならではの味のあるコメントである。
****************************
そうそう、花にも意外に流行がある。
ここ最近はすごく大振りな昔ながらの原種に近いタイプが
人気だけれどバブル時代あたりから小型化するのが流行っていた。
ガーベラやヒマワリやバラもどんどん小さくなって、もともとの
大きな花を見なくなった時期があったが、このところまた復活。
ダリアや菊もポテっとした大きいサイズが人気である。
それは、経済的にもお得ってことだから?
景気とも微妙に関係しているのかもしれない。
そういった意味で先輩は、“原種のまま=人間に媚びてない”
という表現をするのだと思う。
****************************
私の名前にもなっている“薫”と“香”の違いを英会話の先生に
説明することになって、ハタとそのニュアンスの
差に困ってしまったことがある。
今まで特に考えたことがなかったのだ。
日本人ばかりの中で暮らしていると、あえて説明する必要もないし、
聞かれることも考えることもなく、漠然ととらえていた。
ところが、最近のパソコンでは文字変換の時、
とても親切なことに意味まで表示してくれるのだ。
我がパソコンから思いもかけず答えをひょっこりと教えてもらった。
「香り」は“花が香る”“茶の香り”など一般的・具体的なことに使う。
「薫り」は“風薫る”とか“夏の薫り”など比喩的・抽象的な
表現のときに使用するのだそうだ。
つまり、アメリカの甘いにおいは「薫り」。
蓮の気高い甘さは「香り」を使うのが正しい、ということだろうか。
****************************
そして私、「清水薫」は名前のゴロがよいのか、
実は同姓同名がすごく多いのだ。
今までで、そうだな・・・。10人ぐらいいただろうか。
男性も2、3人はいたかも。
学生の頃、私は初等教育の家庭科で、
中等教育の家庭科のクラスにも「清水薫」ちゃんがいた。
洋裁の授業で提出物のスカートを出したら、
「初等教育にも清水薫さんがいるのよね」とつぶやきながら、
先生が成績表に採点を始めたのだ。
「先生!私がその清水薫です!」と言ったら、
「あら、いけない!間違えるところだったわ!」と
慌てて書き直していた。
もちろん、似た名前の「清水香」さんも何度もお会いした。
****************************
この世にもっとたくさんの同姓同名の方がいるのだと思うが
最近は、この「清水薫」にしかできないことをやっていこう、と
なんだか腹が据わった気がしている。
私にしかできないことはなんだろうか。
私だからこそ表現できることはなんだろう。
「清水薫」というフィルターを通してお伝えできることを、
もっともっと探してみたい。
「薫」は抽象的でいいのだ、と思うとなんだか気が楽になった。
ひとつの枠にとらわれずに、可能性を広げていけそうである。
夕涼みをしながらの散歩道、深呼吸をしながら空を見上げると
入道雲が夕陽に輝いていた。
毎日少しずつでも、あの太陽や雲みたいに
私も輝いていきたいな、と思う今日この頃である。
アメリカからのおみやげに、チョコレートをもらった。
「有名なお店なんだって。すごくおいしいよ!」と笑顔とともに
手渡された茶色い紙袋をそっとひらくと、チョコの香りのほかに
ふわ・・・っと甘い薫りがした。
これは、アメリカのにおいだ。
サンフランシスコやラスベガス、N.Yでも、そしてハワイも
グアムもサイパンも、アメリカはどこでも
空港に降り立ったとたんにこの甘い薫りに包まれるのだ。
滞在中はそのうち、だんだんと鼻が慣れてしまうのだが
日本に戻ってトランクを開けたとたん、
この甘さが部屋中に漂いはじめる。
私はそんな瞬間がひそかに大好きである。
この甘くて心地よい薫りに気がついたのは、息子だった。
「お母さん!アメリカのにおいがするよ~!」と
喜んだりするのである。
シンプルな生成りの紙袋の中には、3枚のチョコレートのほかに
一緒にシカゴの薫りまで入っていたようでなんだか嬉しい。
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先日、花の講師仲間の先輩から“蓮の蕾”について
こんな話を教えてもらった。
近所の植物園には3000年前の種から発芽させて栽培した
蓮の池があるという。6月中旬から7月までの短い間、
幻想的に咲き誇るのだそうだ。
「蓮ってね、すごく良い香りがするのよ!知ってた?
膨らんでいる蕾をそっと手のひらでにぎると、
蕾のてっぺんから空気がふ~っと抜けるの。
その芳醇な甘い香りは本当に上品なのよ。
一度ぜひためしてみて!」という。
「3000年前のそのままの蓮でしょ。品種改良されてないからね、
人間に媚びてないわけよ。その力強くて、凛とした姿は
本当に近寄りがたいくらいに気高いわよ。」と講師仲間の
大先輩ならではの味のあるコメントである。
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そうそう、花にも意外に流行がある。
ここ最近はすごく大振りな昔ながらの原種に近いタイプが
人気だけれどバブル時代あたりから小型化するのが流行っていた。
ガーベラやヒマワリやバラもどんどん小さくなって、もともとの
大きな花を見なくなった時期があったが、このところまた復活。
ダリアや菊もポテっとした大きいサイズが人気である。
それは、経済的にもお得ってことだから?
景気とも微妙に関係しているのかもしれない。
そういった意味で先輩は、“原種のまま=人間に媚びてない”
という表現をするのだと思う。
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私の名前にもなっている“薫”と“香”の違いを英会話の先生に
説明することになって、ハタとそのニュアンスの
差に困ってしまったことがある。
今まで特に考えたことがなかったのだ。
日本人ばかりの中で暮らしていると、あえて説明する必要もないし、
聞かれることも考えることもなく、漠然ととらえていた。
ところが、最近のパソコンでは文字変換の時、
とても親切なことに意味まで表示してくれるのだ。
我がパソコンから思いもかけず答えをひょっこりと教えてもらった。
「香り」は“花が香る”“茶の香り”など一般的・具体的なことに使う。
「薫り」は“風薫る”とか“夏の薫り”など比喩的・抽象的な
表現のときに使用するのだそうだ。
つまり、アメリカの甘いにおいは「薫り」。
蓮の気高い甘さは「香り」を使うのが正しい、ということだろうか。
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そして私、「清水薫」は名前のゴロがよいのか、
実は同姓同名がすごく多いのだ。
今までで、そうだな・・・。10人ぐらいいただろうか。
男性も2、3人はいたかも。
学生の頃、私は初等教育の家庭科で、
中等教育の家庭科のクラスにも「清水薫」ちゃんがいた。
洋裁の授業で提出物のスカートを出したら、
「初等教育にも清水薫さんがいるのよね」とつぶやきながら、
先生が成績表に採点を始めたのだ。
「先生!私がその清水薫です!」と言ったら、
「あら、いけない!間違えるところだったわ!」と
慌てて書き直していた。
もちろん、似た名前の「清水香」さんも何度もお会いした。
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この世にもっとたくさんの同姓同名の方がいるのだと思うが
最近は、この「清水薫」にしかできないことをやっていこう、と
なんだか腹が据わった気がしている。
私にしかできないことはなんだろうか。
私だからこそ表現できることはなんだろう。
「清水薫」というフィルターを通してお伝えできることを、
もっともっと探してみたい。
「薫」は抽象的でいいのだ、と思うとなんだか気が楽になった。
ひとつの枠にとらわれずに、可能性を広げていけそうである。
夕涼みをしながらの散歩道、深呼吸をしながら空を見上げると
入道雲が夕陽に輝いていた。
毎日少しずつでも、あの太陽や雲みたいに
私も輝いていきたいな、と思う今日この頃である。