備後福山城の大手門と、その東側にある二重櫓の間の、
外堀と御勘定所跡の一部を発掘調査しました。
丁度、JR福山駅の南側にあたる場所です。
備後福山城は、徳川幕府譜代大名である水野勝成が、
元和五年(1619)に備後十万石で入り、
元和八年(1622)に築城された近世城郭です。
以後、水野氏五代、松平氏一代、阿部氏十代と続き明治維新まで、
藩政の中心でした。
明治維新以後は、あまり大きな改変は無かったのですが、
昭和三十年代には、「備後工業整備特別地域」に指定をうけてからは、
のどかな城下町の風情が一変し、開発の嵐が吹き荒れることになり、
例外なく城下町福山はその嵐の中に巻き込まれて行きました。
福山城の縄張りもその市街地化の中に、大きく改変されて行くことになりました。
今回の調査地区は、JR福山駅の南口に当たり、
福山市が、「地下送迎場建設工事計画」により、遺跡への影響が及ぶ可能性が
ある範囲についての、事前発掘調査を実施した、とのことです。
(検出石垣:東より)
(検出石垣:東より)
(検出石垣:南より)
(刻印石垣:刻印石の検出状況)
(控柱穴跡:検出状況)
(出土軒丸瓦)
(軒丸瓦)
(軒平瓦)
(出土陶磁器)
福山城の堀を埋めるために、様々なものが出土しています。
福山が空襲を受けた時の焼夷弾までもが出土しています。
石垣上に見える穴跡は、土塀の控柱穴の検出遺構です。
現地説明会:平成19年<2007>5月12日(土)
時間:13:00~
調査主体:福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財発掘調査団
以上
文責:流水
埋めた堀の中から焼夷弾まで出てきたとは、おもしろいです。町の中心地の遺構の保存は難しいですね。
ところが、余り大きな声では言えないのですが・・
例の、鞆の浦の景観問題もある、現在の市長さんは、文化的な遺跡などに関して、余り関心が無い
みたいで、この近世城郭遺跡についても、
経済関係を優先される考えらしいです。
ので、遺跡が残るかどうかについては、
風前の灯火みたいです。
私達にとっては、何かやるせなさを感じています。
先人達の足跡が、失われて行く様で・・・
文化的後進県の感が否めません。
(どこかの県がうらやましいです。)
なんだか、東京から田舎の変わり行くを見聞きするのにも考えさせられますね
田舎に帰省する度に、福山市内や沼隈の景観が少しずつではあるけれど様変わりするのを見るにつけ残念な思いがあるんですよね
唯一変わらない何かを発見できたとき、ホッとしている自分が居たりします
僕の働く、東京新橋界隈も汐留の調査も終わりどんどんビルが立ち並んでいます。その変わりようの速さは尋常ではないです。
あちこちで、まだ発掘調査を行っているところもあるようです。
第一京浜道路を境にして、綺麗で華やかな汐留のビル群が立ち並ぶ一方で我々の昔ながらの新橋赤提灯の飲み屋街も急速に変わりつつあります。
なんとなく僕が感じているのは、東京大地震に備えての準備のような感じがすることです
阪神淡路大震災前の建築基準で建てられたビルや家々は都心での災害に備えもう準備が始まっているように感じます
発掘調査は、最終手段です。
それは、破壊することになります。
常々考えていることなのですが、
いかに安易に壊しているのかが、疑問に思って
います。
そのことは、国が管理する「高松塚古墳の壁画」の状況を見ても解ると思います。
中国では、確実に調査出来る状況でないと、
発掘調査をしないそうです。
現在でも、道徳・倫理が行き渡っているのでしょう。
日本は、余りにも「先人達を敬う心がけ」が
無いように見受けられます。
悲しいことです。
福山を通過する時、見たような気がします。
何が出てくるか、発掘って楽しみですね。
でも焼夷弾がでてきたとは驚きです。
以前「戦国自衛隊」という映画があったのを思い出しました。
そうなんです。
駅からお城が見える、町です。
福山城の内堀、外堀は市街地を拡張する際に、
埋め立てたために当時のものが数多く捨てられ
ています。
ゴミなども沢山あります。
但し、現在の様にポり袋などは、
ないですが日常使われていた、壊れたガラス系
なども出土しています。
(現在のゴミ捨て?)