広島県農協労連

広島県農協労連の活動をご紹介します!

連合広島2005平和行動in長崎

2005-08-12 13:46:08 | 反戦・反核・平和
被爆60周年核兵器廃絶2005平和ナガサキ大会
2005年8月7日(日)~9日(火) 長崎市内

8月7日(日)~9日(火)の3日間、連合広島が主催する「2005平和行動in長崎」に連合広島加盟組織22名の仲間と参加した。

若い世代の積極的な平和行動を感じる
 nagasakikoukouseisyomei
 連合・原水禁・核禁会議の主催する「被爆60周年核兵器廃絶2005平和ナガサキ大会」に平和ヒロシマ代表団として参加した。会場前では高校生による「核兵器の廃絶と平和な世界の実現を目指す 高校生1万人署名活動」が行われており、高校生が声を上げて参加者へ署名のお願いを行っていた。heiwataikai                 平和ナガサキ大会は黙祷を行い開会した。 主催者代表で連合・笹森会長は「被爆という悲惨な歴史を持つ日本において、連合・原水禁・核禁会議が力を合わせて平和に対する思いを一つの運動として訴えていかなければいけない。ヒロシマ・ナガサキの核兵器廃絶・平和への思い・力を世界へ向けて発信し核や戦争のない、平和な世界を築き上げていかなくてはいけない」と挨拶をした。さらに長崎県・金子知事、長崎市・伊藤市長は「戦争・原爆を知らない若い世代への平和学習の必要性、非核3原則の法制化、全国全自治体での非核宣言」を訴えた 会場では「核兵器廃絶ニューヨーク行動」での国連での核兵器廃絶に向けた訴えや、デモ行進、署名活動の状況などがビデオ上映された。

原爆・戦争の悲惨さを次世代に伝えていく大切さを実感
 hibakusyauttae
 被爆者の訴えでは、長崎原爆遺族会会長・下平作江さんが「もっと早くヒロシマ・ナガサキの原爆の実態を世界に広めていれば、今のような核兵器の数はなかったのでは。私は被爆し、親を亡くし妹も自殺していった中で、死ぬ勇気・生きる勇気の選択で「生きる勇気」を選択した。戦争のない、核兵器のない世界の実現へ向けて、核・戦争の悲惨さ・恐ろしさを伝えていく。二度と被爆者を作らないためにも、国民一人ひとりが戦争・核兵器は要らないと訴えなくてはいけない。地球より重い命を、人の命を大切にしていきたい」と訴えた。
 長崎では高校生平和大使の任命があり、全国また世界で平和の訴えを行っている。代表して挨拶を行った長崎市内の女子高生は「私たち高校生、若い世代が原爆の悲惨さを学び、二度とこのようなことが起こらないよう、核兵器・戦争のない平和な世界実現に向け、声を出し行動していかないといけない。」と平和大使任命にあたり力強く挨拶を行った。平和大使の一人として三原東高校の男子生徒が任命された。kouseisi                                     また、長崎では「構成詩 親子で綴る平和の願い」が行われた。「構成詩」とは、親子で平和を考え、次世代への継承を意識し、歌と朗読(被爆体験など)で一つの物語を構成し、平和を訴えるといった取り組みである。連合長崎構成組織の組合員・家族(親子)・高校生1万人署名活動実行委員らを中心に組織されている。平和ナガサキ大会は「ナガサキからの平和アピール」が会場の出席者全員の拍手で採択され、最後に「原爆許すまじ」を出席者約5,500名で合唱し閉会した。

小石に刻まれた平和へのメッセージ
 heiwanoisi
 8日は、ピースウォークとして平和公園・爆心地公園の慰霊碑めぐりを行った。爆心地公園には、「原爆落下中心碑」、爆風により礎石の部分にずれが生じた「浦上天主堂の支柱」など。この浦上天主堂の支柱を囲むように小石が置いてあり、この小石には様々な平和へのメッセージが書き込まれていた。さらに、爆心地公園を整備する際に出てきた被爆当時の地層がガラス張りで保存されていた。そこには、生活用品(茶碗など)や瓦など、被爆当時の状況がそのままの状態で見ることができた。
heiwakinennzou  平和公園には、長崎に原爆が投下されてから10年後の1955年に設置された平和記念像、約5,500名の児童・教職員が奉安されている「原爆殉難教え子と教師の像」、背中に「和平」と書かれ中国から贈られた「乙女の像」などがあった。人類の恒久平和と友好の象徴的なモニュメントとなっている「乙女の像」は以前、心無い人間により赤いペンキが塗られ、今では像の周りが柵で囲まれ、監視カメラも設置されている。広島でもあるような、こうした心無い人間の行動は、被爆者や真剣に平和を考えているものからすれば許しがたい行為である。また、午後には原爆資料館を見学し、大ホールで開催された「内外被爆者援護の強化と支援について」をテーマにしたシンポジウムに参加した。長崎原爆資料館は初めて見学し、広島の資料館にも10数年行ってなく、原爆の悲惨な実態を身にしみて感じ、その後も繰り返される核実験の実態を知り、平和の大切さを再度考える機会となった。

世界中の人々が平和を願う
 kinennsikitenn
 9日には、平和記念公園で開催された、被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加し、原爆投下の11時02分には原爆犠牲者に対し黙祷を行った。爆心地公園でも様々な団体の、多くの人が黙祷を行った。  
heiwanokabe また、公園内の原爆落下中心碑を囲むように、世界10カ国以上の国々から届いた平和の壁(核兵器廃絶の壁・平和へのメッセージ)が並べられていた。木片に平和への願いを書き込み、組み合わせられたもので、世界中の言葉で平和へのメッセージが書き込まれていた。


次世代への継承と国民一人ひとりの平和への願い
 長崎平和行動に参加し、長崎での若い世代の平和に対する思い、行動を強く感じた。高校生による署名活動、平和大使、構成詩そして学校での平和学習。そうした中で若い世代が原爆の悲惨さを知り、平和について学び・考える時間があることで、自分たちが考え、行動する。被爆者から大人へ、大人から子どもへ、60年経った今でも長崎であった原爆の恐ろしい実態が伝え、引き継がれている。家族、地域、職場、学校など、そうした周りの人たちが平和について考えていないとこうした状況にはならないのでは。
 広島ではどうなのか。私が学生の頃は8月6日には登校し、ビデオや話で原爆について知ることができていた。今はほとんどの学校でそうしたことがされてないのが実態ではないか。何故、学校での平和学習が行えなくなったのか。次世代への継承へは若い世代が被爆の実態を学び、表に出て平和に向けた行動ができるように、周りの人間-大人がそうした環境をつくっていかないといけないのでは。自分自身、広島でおこった悲惨な原爆を、平和の大切さをどう子どもにう伝えていくのか、考えさせられた時間となった。
 参加者の一人が言った。「原爆が広島・長崎に落とされたと言う。そうでなく日本に落とされたという認識を持ち、広島・長崎だけでなく日本国民全員がもっと平和について考え、訴え、行動しなくてはいけない。」と。毎日、平和・核廃絶ということを考えることは難しいかもしれない。原爆投下された一日でも、原爆投下時間に行われる黙祷の僅かな時間の中でも、国民一人ひとりが平和を祈ることが必要ではないか。

広島県農協労連 書記次長 上垣



上関原発建設反対カンパのお礼

2005-08-11 12:52:55 | 反戦・反核・平和
 上関原発建設反対運動へのカンパにご協力いただき誠にありがとうございました

 各労組から寄せられた上関原発建設反対運動へのカンパを7月末に現地へ送金いたしましたところ、先日礼状が届きましたので紹介します。

                                2005.8
各 位

           上関原発を建てさせない祝島島民の会代表
           祝島漁業協同組合代表理事組合長 山戸 貞夫

 このたびは、私たちの取組に対して暖かい激励をお寄せいただき、心より感謝申し上げます。
 
 「上関原発」は、問題がおこった年に生まれた子供たちが、すでに大学を卒業し就職して二年目になるほど長い闘いとなっており、これから先も何時まで続くか予想できません。
 
 この二十年間、中国電力・山口県・上関町それに共同漁業権を持つ八漁協のうち他の推進派七漁協などを相手にがんばってまいりましたが、今後ともくじけることなく、これからも「命の海 瀬戸内海」を守り続けるために闘い続ける覚悟でいます。

 私たちは、幸いにも貴方様を始め多くの方々のご支援を拡くいただき今も意気盛んで、自分たちの生活は確保しながら、7月以降3回の抗議・阻止行動を繰り返し、更に次の行動を準備しております。どうか、今後ともご支援のほどよろしくお願いします。

 大変簡単なお礼で申し訳ありませんが、ご了承ください。

 なお、数点資料を同封させてもらいましたので、参考にしていただければ幸いです。また、祝島漁協のホームページを開いていただければ、島の紹介もさせてもらっています。

 機会があればぜひ祝島にお立ち寄りください。




広島農協労連ニュース8月11日号

2005-08-11 10:30:59 | 広島農協労連ニュース
広島農協労連ニュースを発行しました。
全国農団労のニュースも職場に発送しましたので併せてご覧下さい。

(主な内容)

1.被爆60年反戦・反核・平和行動

2.全国農団労第18回定期大会報告

3.政権交代のチャンス-解散・総選挙について-

4.契約者の視点で-共済事業革新-

5.第34回定期大会の開催について

広島農協労連ニュース8月11日号をダウンロード






「命の海を守る」上関原発建設反対運動との交流8月6・7日

2005-08-07 21:58:43 | 反戦・反核・平和
momoko20050807平和祈念式典終了後に開催した農業団体被爆者慰霊祭を終え、上関原発建設反対運動との交流のために山口県上関町へ向かった。参加者は上関原発反対運動に取り組む長島の自然を守る会の活動資金の助成を行っているNPO法人高木基金の関係者2名を含めた30名。最も遠いところからの参加は北海道・津別農協労組の園部さん親子(写真中央が長女のモモちゃん、右がお父さん)だった。

午前10時30分に広島を出発しバスで上関町の室津港へ移動した。室津港では長島の自然を守る会の高島さんと島根農団労のメンバーと合流し、ここからはチャーター船で原発反対運動に取り組む祝島漁協へと向かった。

hama20050806途中船上からは原発建設予定地で中国電力がボーリング調査のために設置した海上の台船(写真中央、後方は7日に海水浴を楽しんだ田ノ浦海岸)を見ることができた。6月22日、調査を阻止するために祝島漁協の山戸組合長が自ら乗り込んだあの台船だ。

yamato-kumiaichoh20050806祝島に到着後、公民館で山戸組合長(写真中央)から反対運動について説明を受けた。同漁協は中国電力が上関に原発建設を発表してから20年以上にわたり今日まで反対運動に取り組んでいる。周辺の漁協のほとんどが中電から補償金をもらい原発建設の推進派にまわっていまっているが、祝島の漁師は一時のお金より未来永続に生活の糧を得ることのできる豊かな海を守ることを選んだ。祝島周辺は多くの釣り客が訪れ遊漁船も営なむ漁師も多い。釣り客からは「原発ができたらもう来ない」と言われた。魚を出荷している福山卸売市場の社長からは「原発のある上関の魚は売り物にならない」とも言われた。原発の視察に招かれたおばあちゃん達は「あんまりきれいすぎだ。やっぱりおかしい」と、視察の帰りのバスの中でみんなで反対を決めた。島には核の怖さを身をもって体験している広島で被爆した人や原発へ出稼ぎにいったことのある人も反対を決めた。そんな話を、新鮮な刺身とビールをごちそうになりながら聞かせていただいた。

去年は初日はそのまま島の民宿に泊まって海鮮バーベキューでさらに交流を深めたが、翌7日にマラソン大会があり宿が満杯だったために室津まで引き返して宿泊した。引き返す船から高島さんと徳島から参加した子どもスナメリ(絶滅の恐れのある小型の白い鯨)を見つけたが他の参加者は見逃した。翌日もスナメリには会えずじまいで、これがスナメリとの唯一の遭遇となった。

boring-iwaijima20050807翌7日には祝島漁協の組合員の漁船3隻に分乗し田ノ浦海岸へと向かった。田ノ浦海岸沖には去年はなかった2隻の台船が設置してあった。一向の一部は海岸から山に登り、陸上でのボーリング調査地(山の頂上付近からボーリング設備を見下ろす。奥に見える島が祝島。目と鼻の先だ)を視察した。

chousa-daisen20050807その他の参加者は瀬戸内海一といわれる水のきれいな海岸で海水浴を楽しんだ。また、磯で生きもの探しに興じた。磯では松葉貝というアワビを小型にしたような貝をとり、その場で海水で洗って刺身で食べるなどして、上関の豊かな自然を堪能した。また、漁船を出していただいた組合員の方からは思いがけずスイカを差し入れていただき、台船に船をとめて甘くて美味しい祝島スイカをほおばった。

sendou20050806田ノ浦海岸からの帰り、船頭さんは徳島から親子で参加した鍵谷さんの子どもたちに船の運転を教えてくれた。ひげのおじさんは祝島の西にある平群島(へいぐんとう)で有機農業を営みながら原発反対運動に取り組む森田さん。

一行は「処分の仕様のない核廃棄物を生む原子力発電は環境を破壊する。豊かな環境を守るために全国農団労は原発に反対する運動を応援するとともに自らの課題としても反原発の運動をすすめる」ことを確認し、反原発の交流・学習を終えた。

joseibu20050806kaminoseki来年も引き続き反原発運動との交流は行われるが、守るべき豊かな自然をもっとふかく体験するために同海域での釣りも予定(?)している。今年参加できなかった人は是非来年参加しよう!(広島からは写真の女性部役員の4名と書記局関係から3名の合計7名が参加した)






語り部から被爆体験を学ぶ8月5・6日

2005-08-06 06:56:08 | 反戦・反核・平和
masuoka20050805 広島高教祖被爆教職員の会 増岡清七さん(写真右)から自らの被爆体験と平和への思に耳を傾けた。
 
 増岡さんは14歳のとき、建物疎開(火事の延焼を防ぐために前もって家を壊すこと)に動員されたときに被爆した。原爆は増岡さんの左上方で炸裂したために左半身に重い火傷をおった。お母さんは即死。お父さんは被爆の翌年に亡くなり、15歳で孤児となった。

 「軍都広島はアジアへ数多くの兵を送り出した。だから加害者の立場でヒロシマを考えなければならない。核兵器を使用したアメリカへの恨みはない。恨みは非生産的だからだ。待つだけでは平和はやって来ない。恨みの代わりに”怒り”をもって三度の核兵器使用をやめさせたい。これが命の続く限り訴えたい私の悲願だ」と語った。

ireisai20050806岡田委員長からは「イデオロギーが平和運動をもてあそんできた。平和は、ひとりひとりが考える問題だ。農協も前身の農業会は満州への開拓団派遣を奨励して戦争に加担してきた。農協も加害者だったのだ。そのような経過もあって、戦後まもなくは原水爆に反対する運動へ農協婦人部も参加していた。しかし、運動がイデオロギーによて分断される中で、運動からは退いてしまった。われわれと同じ協同組合である生協は、今日の平和行進などの取り組みなど、平和の問題に取り組んでいる。農協もそうありたい」と、平和運動にたいする農協の課題を指摘し、労働組合の運動で農協を平和運動を担う組織に変えていこうと呼びかけた。

simizu20050806農業会へ勤めていた義理の妹チエ子さん(当時20歳)が被爆死したという広島市戸坂(へさか)の清水登代子さん(83歳)も慰霊祭に参列された。