イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

動きだした2016年

2016年09月27日 23時57分10秒 | 日常のあれこれ

カフェでの個展初日の夜、
作品をご覧下さったある方がご自身の感想と共に

他のお客様も喜んで下さっていた旨、facebookのチャットでお伝え下さいました。

発信したものに対し反応が返ってくるということは

やはり嬉しいものであり創作活動をする上での励みになります。

自分も含めてですが(笑)世の中には色んな考えを持った方がいらっしゃり、
snsを活用する理由も様々です。
私の場合はですが、
ある意味希薄が当たり前のこうしたsnsと言えども
何らかのご縁あって
繋がった方々なので、無理をしない程度に記事に立ち寄り、
心動かされ、いいナと感じた記事には
応援の意味も含め素直に心動くままに
イイネやコメントを寄せています。

 ただ残念なことに同性に多くみられる傾向なのですが、中にはこちらに対し
勝手にライバル視する方やビジネスライク色の強い方々もいらっしゃり、

また、こちらの記事をご覧頂いている様子が見受けられても
足跡は残さないという頑なな方もいらっしゃる現状に違和感を覚えることも多く
そんな中、
そうした方々と繋がっていることに意味を見いだせなくなり、
違和感を覚えていながらそうした場に留まり続け、
自分の大事な時間をそこに割くことは勿体ないナと悟った故、
現在繋がっている方々はごくわずかになりました。

snsをされる方の中には傍から見ても、双方のやりとりは
なく
一方的なのでは?と感じるような関係に見えても
 友達の数が多いということに
一種のステイタスや繋がりであり、
安心感を感じていらっしゃる方々もいらっしゃいますが、
私の場合はこうした場であっても
やはり一方通行な関係は無意味と感じています。
また、特定の誰かが発信することだけを鵜呑みにし、目をハートマークに崇拝し
のめりこんでしまうことは依存とも感じるので自分の軸をしっかりと持った上で、
妙な探りあいのない、互いを応援しあえるような
心地良い関係を築けるような方と細く、願わくば長く いい距離感をもって
節度あるお付き合いしたいと日々考えています。

こうしたこととは別に、色々とお忙しく更に数百人の方々と繋がっていらっしゃる方は、
気持ちはあったとしても 1日24時間という限られた時間の中で、
仕事であり、家事であり、その他諸々の所用がある中で空いた時間を使ってのsns、

数多くの友達の記事にまんべんなく立ち寄りイイネをしたりコメントを寄せたりというのは
物理的に不可能ということも十分理解している為、そうしたことを感じ取った場合は
お相手の負担を少しでも減らす為に こちらからそっと身を引くことにしています。
一旦途切れても、本当にご縁の深い方というのは、
また時期がくれば自然に繋がるものと思っています。

 またご本人は気づいてはいませんが繋がった当初と比べると明らかに方向性が変り、
祀り上げられることに心地よさを感じているように見受けられる方もいらっしゃいます。
そうした方が発信する内容は表面的には素晴らしく穏やかで柔らかに見えるのですが
よく見るとあちらこちらに断言する様な言い回しが実に多いことに気付かされます。
こういう方というのは教祖タイプにまっしぐらという危険をはらんでいたりするので
あれ? と思うと、その方のプライドもあるので口にはしませんが
一定の距離を保つ体制に入ります。
また、そうした方々の分かり易い特徴としてはご自身を特別視させるような
表現であり、言い回し、予言めいたメッセージを出されることが
多いことも気付かさせられます。また何かにつけ
「○○(←神々の名前)から○○というメッセージを受け取った。」と表現されたり
自分はこんなにも沢山の存在と繋がっていると、まるで履歴書の免許取得欄に
書くかの如く敢えて開示している方もお見受けしますが、そんな時、
神に選ばれた存在とご自身を思いきっと嬉しいんだろうな、と
優しい気持ちで思うのと同時に、そうしたことを多くの人に知らしめることで
自分への信頼度を高めているのかな?
肩書とは意味合いが異なりますが、つまるところ、
自分を特別な存在として認め、尊敬して貰いたいことのあらわれなのかな?と
率直に思ったりもします。

所謂唯一無二の神といわれる存在は人間が真摯に祈り、訊ねてもいないのに
御自ら毎度お出ましあそばし、人間の暮らしに介入し、
「何か困ってはおらぬか?」などの御用伺いなどもは勿論なさらず
全てをご自身の分身、光の子と慈しむ神が
ごく
一部の人間だけを選び、
「私の名はどこそこの○○であり、そなたにこういう役割を授ける」などと
高みからそ
の名であり、存在であり、ミッションを託すというような
贔屓をするようなこともまたありません。

人間社会においてもそうですが、出逢う人、出逢う人全てに
「自分はどこそこ大学を首席で卒業し」などと自慢する人というのは
敬遠こそされ、信頼はされないと思います。

神であればなおのこと、聴かれてもいない、しかも必要のない
自分の名など敢えて明かす必要はないとお考えのようです。

かつて霊的学びをした時、課題図書に出てきた下記高級霊の霊言を
師が講義の中で噛み砕いて話してくれたことがあり深く共感し
全くもってその通りだなと思ったことがありました。(他にも沢山ありますが)
高級霊曰く
「貴方は私が有名であれば耳を傾けそうでなければ耳を傾けないのですか
?」
当にその通りだと感じます。

霊的世界の住人になり何十年も経てば
また、高級霊として人間のサポートにはいる場合は
こちらで暮らしていた時の名前もうすれゆき、
また、こちらが「お名前は?」と伺ったところで
「名などどうでもよいではありませんか」と慎ましやかに仰られるのが普通です。

一見、こざっぱりとした恰好 または煌びやかに衣装を纏い
それらしい教えを立派に説く人の魂(霊格)がイコール高くて素晴らしいのではなく、
物質世界に舞い降り修行していながらも地に足がついておらず、
霞を食べるがごとく現実離れしどこかフワフワと上と繋がることばかりに執着し、
シンプルなことを難しく説く人などでもなく、
どこでもいるような普通の暮らしを大切にしている、
一見普通に見える人の 言葉は少ないけれど、ただそこにいるだけで、
全てを包み込み 溶かしてしまうような温かな佇まいであり、
何気ない行動にこそ 有難いものを感じ、所謂神我が宿っていると
感じさせられることは往々にしてあります。

以前、高千穂の天安河原を訪れた時、天安河原周辺を白い法被を着て
もくもくと掃き清めて下さっているご老人をお見かけしましたが、
私はこの方の中にこそ神を視ました。
心の中で「有難うございます。」とお礼を申しました。

霊的存在、私達人間の人生の伴走者である高級霊というのは、
煌びやかで、パフォーマンス好きで、目立つようなことを起こすとは対極の、
私達を信頼して下さっているからこそ、魂の親として
「我関せず、自身で考え導きだせ、越えられる」という厳しさとともに、
「聞かれたこと以外は答えぬ」の姿勢を貫かれる立ち位置にいらっしゃいます。

スピリチュアルなことを説く側の人は時々、
「自分が神の言葉と思いこんでいるものは果たして本当にそうなのだろうか?
勘違いはしてないだろうか?」と 原点に立ち返ることは
とても大事なことと感じます。

上と繋がる技術だけあっても、意味はなさず、
自分は小さき、弱き存在、一人では霊現象など起こせはしないということを
よくよく知るものこそが、神の道具として長く使って頂けると感じています。

「忙しくて最近殆どfacebookは見ていません。貴方の考えすぎではないですか?」と
堂々とこう仰りながらも、実際には日に何度もチエックをし(笑)
自分を讃えてくれる人たちとのイイネやコメントを寄せるなどの交流は
こまめにしている方がいらっしゃいました。
どうせ分からないだろうと、たかを括っていたのか? こうした
偽りを
まことしやかに言い切ってしまうその人はスピリチュアルなことを
他に説く立場の人だったので尚更、
「あら あら あら~、なんだかな~。こういう人だったんだ~」と残念に思うと同時に
心の中で「そんな風に取り繕わなくても、ほんとのことちゃんと知ってるのに」と
未熟な部分が見えたので可笑しくなってしまいました。

私達人間は皆、未熟だからこそ この世で肉体を纏い学んでいます。

(ご存じの方も多いと思いますがfacebookのシステムというのは、
こちらが設定するしない、のぞむ、望まないに関係なく、
ページを開いている時はそれがボタンで表示され、
また、ご丁寧に何分前にfacebookページを見た、という時間までも
何故か、表示されるので、どんなに見ていない、と言いきっていても
サイキックうんぬんかんぬんなど関係なく実はこうしたことは目に見えて
分かることなのです。)

このように相手を思いやる為の 優しい「嘘」ではなく、
自分を正当化する為のチマチマ
した偽り(まやかし)を
サラッと平気で言ってしまう方というのは
やはり信用できないのでご縁を返上しました。

今年は1月から「スピード」が1つのテーマのように感じています。
普段お会いしないような分野の方々とひょんなことから出逢い繋がっても
ほんとのご縁でなかった場合はスルスルスルスルッとご縁がほどかれる。
また、あきらめることなくコツコツと積み上げてきたものは
意外な形で実を結ぶ。
この2016年という年は喜びも、哀しみも、驚きも
様々な喜怒哀楽を沢山味わっている
私にとって怒涛の様な1年です。
みなさまはいかがでしょうか?

私の場合、夢の中で未来の映像を視せられること(予知)がとても多いので、
昔から夢日記をつけています。
といっても、言葉やシーンを忘れてしまわないうちに目覚めたらすぐ広告の裏などに
40分位かけてダーッと走り書きで見た夢のシーンを書くので、
未だ清書してノートにまとめていないのですが、
数年後に実際にそうなっていることが多いことから、
また、のちに活かされることがとても多いことから
先月から、これまで見て書き溜めた夢の走り書きを地道な作業になりますが
wordにまとめ始めています。
夢の中で出逢った、はじめましての人はたいてい
ご自身のフルネーム(漢字も含め)を名乗ってくれるので、
これにも意味を感じています。

数年前に見たリアルな夢。目覚めた時、
「まさかそんなことある筈ないよね~」と状況から思っていたのですが、
今日、それが現実のものとして聞かされ驚きました。

夢は私の大事な指南役。

見落としがちな日常のなにげない1つ1つの出来事に耳研ぎ澄まし
目を凝らし、意識を向けて、「生かされている」ことに感謝して
一歩一歩あゆみをすすめて参りたいと思います。

幸せの青い鳥は
近くにいたように 本当に大切なことというのは、
誰かの出す素晴らしい予言の中にあるのではなく、
一見、ありふれたとスルーしがちな中にこそ
キラッと埋もれている、そんな風に思えてなりません。


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