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生物の最後と人間の最後・・悠久山蒼紫の森散策で考えたこと

2024-10-10 21:28:28 | 日々の雑感

ホントに久しぶりに、散策してきた。

お日様が柔らかくさして・・・心安らぐ。

雨がおおいので、きのこ、きのこ、きのこ

キノコって、見ていると滑稽感あると、思いませんか。

栗も落ちていました。

栗のいがの山

くりちゃん3兄弟 笑

栗いがの山の中で拾いました。

紅葉はまだ、だからあまり人気はないが・・・遠足の小学生、集合写真をとりながら、なんか叫んでた、集団で。

尊い、平凡。取り戻した日常。これが続きますように。

1本だけ、色づいていた洋種ヤマゴボウ。

妙にきれいでしたが、要するに病葉(わくらば)ですね。

それで考えたこと

生物・・・いきているもの・・・つまり、基本、生きることしか考えない。つまり、生き物には死も生であるってことかな。

人間・・・生と死を対立的な関係で考えていることが多い。

それでも生き物であるから、健康なときは生きることしか考えない。(と思う)

しかし、病を得たときや相応の年齢になったとき「死に時」や「死に方」を考える人は多い。

昔、99歳で自殺した人の話を聞いたことがある。

理由は、100歳になるのがいやだった。

これは「人間」として、死に時とか死に方を考えた結果だろうな。

10歳年上のコロナ前に亡くなった友人(親友)、難病だった。亡くなる前の日まで口をきけたらしい。

息子さんがお見舞いにいって、帰るときに「もういい」といった。

息子さんはもう帰っていいよ、という意味にとらえていたが、その後にがくんと悪くなって、翌日には旅立った。

「もういい」とは、この世はもういい、旅立つということだったのか?とは息子さんの言葉。

彼女、その後、私の白昼夢(脳内霊感スクリーン)に出てきた。美しが原高原にいたときに。

それで満面の笑顔で「○○○さあーん!自由になったよう」と叫んで消えた。

○○○さあーん・・って、私の名前、独特のイントネーション、彼女しかあの言い方では呼ばない。

「逝くとき」を自分で決定したんだなあ。と思う。

上の弟も似たような一気に、の旅立ち。

ただ、彼は、遺書のようなものを残していないので、「生き物」的に生きていたんだと思うが、しかし、なんか思うところがあったんだろうと思う。

あのまま生きていたら、寝たきりになり最後はもっと苦しむはずだった。それを悟って、旅立ちを決めたのか?

この3つの例は、「人間」の死、私の思うところの。

母。

たぶん、彼女は「人間」を卒業して、今は「生物」

だから、生きることしか考えていない。

死ぬ時は、生の延長線上で消えるって感じなんだろうか。

8月のピンチを脱して、今は調子がいいってそういうことだと思っている。

先日ケアマネと12月半ばから、越冬ステイの話をしているときに「今のように介護はしてもらえないと思います」

「私が担当している中で、○○さん(母の名前)ほど、細かく配慮した介護をしてもらっている方は、いないです」

と言われた。

優秀なヘルパーさんたちに助けられてではあるが、うれしかった。

母、生物としてケアが変われば弱りも早いかもだが、しかしそれまでは間違いなく生き物として生きる、自分で決断して「逝く」ことはないと思う。

いや・・ガンバランバ。

弱音吐きますが、最近は腰、背筋の痛み、左手の軽いしびれ(手根管症候群)等々、結構 身体にあれこれ出てきている。

ガンバランバ

生き物は手強いよ。

ガンバランバ

 


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