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人の生み出したもの「お金」。そして「金神様」。エンデの警鐘

2011-03-18 21:00:10 | 随想たち
経済が、世界の共通言語になってどれくらい経つだろう。
余剰産物を物物交換するところから始まり、時間経過による物の劣化(腐敗)という枷を掃い、広範囲で物流を行うには、ある取り決めで信頼を持たされたものである代替物のコンパクトで持ち運びしやすく壊れにくいものが生み出される。
貨幣だ。
はじめは、貝や石、ところによっては家畜・穀物・布などが代替物として扱われた。
しかし、家畜や穀物は移動に不便で隠しようがない、貝や石は類似品で誤魔化しもある。
そこで、人為的に加工した金属の硬貨が貨幣として登場した。
この見事な発明で、人を取り巻く物質は種類が増え、広範囲な物流ができたことで、食品などのの安定供給が図られ、文明と文化が躍進・繁栄することとなった。
経済には、需要(消費者)と供給(生産者・製造者)の2者がいる。
このバランスは、水平に釣り合うものではない。
いつもどちらかに傾いている。
そうするとその差が、何処かでだぶつき、あるいは歪をもたらす。
それは、富(お金)の片寄りをもたらし、貧富の差ができる。
富を多く持つものは、いっそう豊かな生活と地位を築き、それに倣う者たちがあの手この手と富を得る手段を編み出す。
社会のシステムも、経済の規模に追随して変遷していった。
今は、社会主義はその高い理想と運営する人間の欲を制御できなかった大いなる矛盾にあえなく崩壊寸前の状態と、資本主義は生物的本能によって弱肉強食の原理が横行し理性では太刀打ちできないくらいのヒエラルキーを構築してしまったとおもわれる。
何処にも通じているのは、「お金」だ。
「お金」が絡むと、主義主張は何のためらいもなく変更されるか、ダブルスタンダードなる二枚舌で立場を使い分けるアクロバット的行動を、個人ならずも国家までもがいけしゃあしゃあとやってのけてしまう。
目下、これに翻弄されているのがリビアの国民たちだ。
国も民族も宗教の差もない共通の「金神様」が、「お金」を発明した人間の上に君臨している。

ミヒャエル・エンデの著書に「モモ」や「はてしない物語」がある。
いずれも、ファンタジーを扱った児童文学だが、その作品の底に流れているものは利潤追求が第一目的の経済システムとその僕のお金に対する警鐘だ。
物の代替品として作られたお金が匿名性を発揮し(灰色の男たち)、あらゆるものから本来の顔や性質を剥ぎ取ってしまう(虚無)。
実体のないものがまかり通る世界を憂いているエンデは、さらに無個性でもある”株”に対してひときわ警戒を呼びかけている。
このエンデのお金に対する危機感をまとめた著書に、「エンデの遺言」根源からお金を問うことー著者・河邑 厚徳があるという。
以前から気になっていたが、あらためて読んでみたいと強く思った。

お金は便利だ。
しかし、お金に翻弄され、人としての尊厳がなくなっていいものだろうか。
もともと交換の手立てとしてできたお金の本性を思い出し、経済を考え直してみるべき時に世界がきていると思われる。