世間知らず

毎日のやられっぷりを書いていこうかなと・・・

ゆとりについて社説を読んでみた

2007-09-06 | 社説
今回のニュースはこちらです。
ゆとりがあるのは悪いことじゃないはずなのに…『ゆとり』という言葉のイメージがすっかり変わってしまったような気がします。

中学は3年で200時間増 文科省素案(産経新聞) - goo ニュース
 文部科学省は31日、中学校の学習指導要領の改定について、選択教科や「総合的な学習の時間」(総合学習)を削減し、授業時数を週1時間増やすことで、国語や数学などの主要教科の授業時数を1割増やす素案をまとめた。これにより小学校と同様、批判の多かった「ゆとり教育」が転換されることになる。

どんな勉強も無駄じゃないはずなのに。

産経さん1日『学習指導要領 「脱ゆとり」さらに徹底を』
 今回の授業増は政府の教育再生会議の報告に沿ったものだ。素案の脱ゆとりの方向は評価できるが、文部科学省や中教審はこれまで放置してきたゆとり教育への反省や検証をきちんと行っていない。
 学力低下への危機感は強く、各地の教育委員会が独自に夏休みの短縮や土曜活用に取り組んでいる。文科省、中教審はゆとり教育の失敗を率直に認め、学習内容充実への明確な指針をさらに打ち出す時である。


産経さんはほかの社説に比べるとややおとなしめな感じでした。
次の一手が見えてこないことには批判も控えめというところでしょうか。
本当に『脱ゆとり』になるのかを確認してから…という印象です。

『問題は~』という言葉で始まる文章が含まれている社説がふたつ。同じような意味で使っていると思われる『気がかりなのは~』で始まっている文章があるのが一社。

朝日さん1日『授業時間増―大切なのは「質」の方だ』
 いま一番深刻な問題は、できる子とできない子の格差が広がっていることだ。授業についていけない子を時間を増やすことで救えるとは思えない。
 できない子への教え方を大胆に変える。少人数や習熟度別の学級をつくる。そんなふうに「質」を変えなければ、全体の底上げを図ることはできまい。


『質』を変えるためにゆとり教育への変換も行われたのでしょうが…。
さらに朝日さんは『これを機に「ゆとり教育」を変えるのだ、とはっきり説明した方がいい。』とばっさり。気持ちいいくらいです。
でも、失敗だったとか誤りだったとかはっきり書かれるのは、その教育を受けた当事者にとってはどんな気持ちなんだろう…と思ったりします。

日経さん3日『脱「ゆとり」の理念なき授業増』
 問題は、これだけの方向転換をするにもかかわらず、文科省や中教審が「ゆとり教育」をどう総括しているのか、さっぱり見えてこないことだ。授業時間数増加へ向けた新たな理念や学力観も感じ取れない。
 それを物語るのは、ゆとり路線を象徴する「総合的な学習の時間」の扱いだ。素案では、小中学校とも週に1時間減らすものの、「体験的な学習に取り組むことや課題解決能力を育成することは今後とも重要」として継続の意義を強調している。
 その一方で、各教科については「基礎的な知識や技能の確実な定着を重視」して時間数を増やすというのだから、木に竹を接いだ印象だ。これまでの政策を点検し、反省すべきは反省することなく、なし崩し的に路線を修正するものではないか。


悪いのは政策ではなく、きちんと運用できなかった現場にあるとでも言いたげな政府の主張を厳しく批判してる…といったところでしょうか。
国として小中学校でどういう教育を行うのか行うべきなのか、そのへんをもっと考えろと、そういう感じです。

読売さん2日『授業時間増 「脱ゆとり」鮮明な指導要領に』
 気がかりなのは、小学校高学年で、総合学習が減る分、新たに「英語活動」が週1回、全国一律実施されることだ。
 昨年3月、中教審の専門部会が小学校高学年での英語必修化を提言し、議論を呼んでいた。
 文科省は、国際化の流れや、教育の機会均等の確保、中学英語との円滑な接続の必要性などを説き、今回の指導要領改定で必修化を狙う。すでに9割の公立小学校が、総合学習などを利用して英語活動を行っているという実態もある。
 だが、本当に、小学生に英語教育は必要なのだろうか。言われているような学習効果の上がる年ごろなのか――そうした疑念が払拭(ふっしょく)しきれない。小学生にとっては正しい日本語、国語の習得こそが先決ではないのか。
 英語の指導を不安がる小学校教員も少なくない。文科省は、教員の研修や外国人指導員らの確保、教材開発など条件整備を進めるとしているが、それ以前の疑問が、なお残っている。


読売さんはとりあえず『脱ゆとり』になったという事実を評価。
そのうえで、英語教育への疑問です。
学習効果というのが語学としての英語の習得を意味するのなら期待できないかもしれません。でも、日本語ではない何か、日本ではない何かを知るという意味では効果があるのかも…とは思います。
もちろんやり方に問題があればお話になりませんけど。

道新さん1日『指導要領改定*教育の「質」を高めねば』
 各学校は、職業体験など地域の特性を生かした授業づくりを目指し、それなりに工夫を凝らしている。総合的学習を削るというのなら、その前に、教え方や授業内容、成果や反省点などを検証する必要があるのではないか。
 文科省は、削った時間を利用して、小学校でも英語を教えるという。中学英語の教員免許を持つ小学校教員は、道内では4%だ。英語を学ぶ機会が増えるのは歓迎だが、教員の育成やカリキュラムの編成など課題は多い。
 中教審は、本年度内に最終答申をまとめる。審議では、どのような学力が低下しているのか、その原因と対策は何かを真剣に検討する必要がある。目先にとらわれた学力論議では、再び朝令暮改に終わりかねない。


まさに正論。
学力の低下と一言で言うのは簡単だけど『どれがどのくらい』なのか?その回復のために必要なことが何か?
受験生ならごく普通に試験対策として考えるようなこんなことすら政府は考えられないのかも。

毎日さん1日『授業増加 「ゆとりからの逃走」が始まった』
 ゆとり教育導入の最大のつまずきは、学校現場や国民に共通理解を広げる説明が十分なされなかったことだ。今回の改定でも同じ状況がある。例えば、小学校の英語導入はどうか。大半の学校が総合学習に英語を入れている現状を追認し、「差がついてはいけない」と一律実施するという。話が逆立ちしている。まず十分な説明をして必要の是非を広く論議し、決定に反映させるべきではないか。
 ことは教育だ。何をしようとしているのか。どう子供を育て、どういう人材像や価値観で将来を描くのか。もっと説き、論を交わし、共通認識を深める言葉が豊かに発せられなければならない。


政策としては何度でもやり直し(改定)はできるけど、普通は小学校や中学校には一回しか通わないわけで、個人が教育を受けなおすということはあまり考えられません。
国が国民の知識とか能力を『財産』と思ってくれていないから、こういうことに大して真剣に取り組んでいるようにみえないのかもしれません。

あと…ゆとり教育が実施された結果、お金のかけられる人には学ぶ機会がより増えた…というのは不公平だなぁと思います。

とはいっても、相手が人間である以上、どれだけ考えても全員にとって完璧なシステムなんてものは存在しないわけで。難しいです…。

『悪賢い人は勉強を軽蔑し、単純な人は勉強を称賛し、賢い人は勉強を利用する。』
ベーコン  イギリスの哲学者・文学者 「随筆集」より。

やっぱり偉い人は悪賢いのかも。
コメント
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