分かったよーなこと、言ったって~!!

中途半端な知識で適当ぶっこく無法地帯へようこそ( ^-^)ノ

今日は、一杯イジメちゃうぞ!?(^-^;)

2013-01-19 23:27:11 | 思考の散歩
 ええ、今、ちょうど家に帰ってきたところで、まことしやかにオカシナ事が書かれた記事を見つけてしまったので、服のボタンを外しただらしない格好のまま、それについて触れてみようと思います。


 何度かこのブログで記事に起こしたこともある、デスブログについて、「周りが”デスブログ”と呼ぶのは、イジメと同じだ」と唱える方がみえるようなんです。

 しかしこれがまた、確かにそれっぽい事を真面目に並べてはいらっしゃるわけなんですけれど、私の個人的視点ではどうにもツッコミ所が多くてですね。「おい!!(^-^;)」ってところを、いちいちひとつひとつツッコんで行こうと思います。


 ま、あくまでも、”私の個人的視点”ですよ?





「デスブログ」といういじめ



 今のリンク、Yahoo!の記事なので、いつの間にか消えているかもしれません。

 情報量が多いからなのか、Yahoo!の記事っていつの間にか消えていること、多いんですよ。なので、このブログからのリンクも、いくつかは切れているんじゃないかと思います。


 それでは、部分部分で引用しながら私のコメントを挟んで参ります。

 駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授が書かれた記事、という前提を踏まえてコメントさせて頂きますよ~。




あるタレントのブログを「デスブログ」と呼ぶ人たちがいる。

 ”呼ぶこと自体が悪事だ”と主張する書き出し、いきなり引っかかります。
 呼ぶなと制限を叫ぶのは、言論統制を”是”とする危険な思想に思えますね。
 教授という教育者の言として、問題を感じます。


特定のブログが「デスブログ」であるという科学的根拠はない。

 ”デスブログ”自体に科学的根拠はありません。
 こんなロジックで教鞭をとれるほど、現代の大学はヌルいのだろうか。


客観的には事実ではないという点について、議論の余地はないものと思う

 そこに議論の余地を認めるのが人間という生き物なのだと、私は思っています。
 霊魂の存在は客観的事実ではありませんが、お墓を立て、供養しますよね。そういった非・事実の可能性があっても思いを致すのは、人間の思考として極めて自然だと疑いません。
 また、事実でなければ議論をしない、それなら誰が事実と認定するのか。
 この方の論調を眺めるに、「我こそ正義」「我こそ真実を得たり」という思考を感じてなりません。純真な大学生諸氏が感化されないことを切に祈るばかりです。


このタレントについて私はほとんど何も知らないが

 謙遜で仰ったのかとも思いましたが、後で出てきます言により、本当に調べてみえない事が判明致しました。
 批判記事を書かれるにあたって、貪欲に裏を取らない姿勢はいかがなものか。


有名人だから何を言われても我慢すべきだと?

 ある程度、やむを得ないでしょう。有名税でもあると思います。
 この方も、どこかのオヤジが仕事から帰って、ビール片手にプロ野球選手に「バカヤロー」と叫ぶのを注意して回ることも出来ますまい。
 芸能人自体がそういった、少し哀れな側面を持つものでもあり、逆に、それによって仕事を得る、収入に結びつくこともありましょう。
 実際、この方もデスブログの件がなければ東原亜希さんについて書かれなかったでしょうし、私に至っては名前を知る機会すら無かったことでしょう。映画なりドラマなりに出演すると聞けば、「おっ、観てみようかな」と思うかもしれません。それを見込んで仕事も回ってくる。そうやって、貪欲に仕事を勝ち取っていくだけのタフさがなければ、芸能人は長く務まらないものではないでしょうか。


このタレントは、別に旅客機に悪さをしたわけでもパンダの赤ちゃんを殺したわけでもない。

 誰もそんなことを言ったと、聞いた覚えがありません。
 元ネタの”デスノート”では、書いたことで能動的に相手を殺す、という感じだったと記憶していますが、おそらくこの件では”デスブログ”に対して、記事に書かれた対象が災害として不幸に遭う、としか一般的に言われていないのではないでしょうか。
 つまり、誰も「お前が能動的に殺した」なんて言っていないはずですし、そもそもブログ主に対する人格攻撃と結び付けられている印象はありません。


本人は気にしないと言っているのかもしれない

 調査不足です。情報に対する姿勢が非常に疑わしい。
 記事主は経営学で教鞭をとっておられるようですが、情報なくして経営は立ちますまい。

 まぁ、ブログ主の東原さんは”デスブログ”と呼ばれることを嫌がってらっしゃる、というのは公にされています。
 しかし、だからと言って出るとこ出ましょうよ、というニュアンスではなかったはずです。

 そんな弱い方と言いますか、小さい方でもないと思いますんで、「んもー、ほんっとやめてよね~」とカンカンに怒って見せてオシマイ、という感じではないでしょうか。そこは逞しく、芸能人として仕事の糧にしてやろうという計算も多少あるでしょう。なにしろ、知名度やら、ブログのアクセス数はうなぎのぼりなんですから。


いじめた側の言い訳とそっくりだ。

 私から言わせて頂けば、この方の『情報不足の偏った価値観で決め付ける』という姿勢が、ケンカする生徒二人の片方の話しか聞かずにもう一方を叱りつける『ダメな教師・育て下手の親』という印象が拭いきれません。断定文調を多用される割りには、背景を十分に模索しておられない。会社を経営するようになった教え子が、取引先とそんなやり取りをするようになったら、この方は責任を取って下さるのだろうか。


「デスブログ」を見て人々が笑う構造

 私は、そんな単純なものではないと思っています。それは個人によって解釈は違うかもしれないので、私も断言は出来ません。

 ”デスブログ”のことを語ってやまない人たちは、どこか『笑っていられない、得体の知れない物に対する恐れ』を感じているのではないか、と。
 占いなんか、良い事も悪い事も出てきます。一般的に、良い事だけを信じたがる人が多いとも言いますよね。そして、当たった、外れた、と騒ぎますし、また、そういった”理論に拠らない先見”という摩訶不思議な現象に惹かれるものなのでしょう。”デスブログ”は悪い事件ばかりに話が行きますが、それでも「また、当たってしまったのか……」と言う、人間の能力を超越したミラクルに、ある意味憧れたりもするのではないでしょうか。

 興味を持ってしまう、恐怖におののく、そうやって、一連の流れから目が離せないのでしょうし、若い子たちですとそういった”超能力”的なものを、自分も持ちたいと想像を巡らせるのかもしれません。


 それに対して、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授、”グローバル(広い)”と銘打っている学部の教授が、そんな”ナロー(狭い)”の視点で語られるというのは、現代社会が生む大いなる矛盾、おかしみ、バグ、なのだろうかと。教えられる学生たちは、それを見て、何を想いつつ社会へ飛び出して行くのか。


 深刻に懸念を感じざるを得ないのであります。








 あ、でも学生諸君、私みたいにこうやって分かったようなこと書くブロガーにはなるなよ?(;^-^)




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