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ロスチャイルド財閥-90 ロスチャイルド家と松方正義

2022-11-03 23:29:44 | 国際政治・財閥


松方正義(1835年ー1924年) 
第4・6代 内閣総理大臣
第3・5・8代大蔵大臣



経歴
生い立ち
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)[3] に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。



幕末期
島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係した。

29歳の時、議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという。



明治維新後
政治家の頃の松方
明治政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)。

県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。




日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。

この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保利通の評価を得、その功績、推挙で民部大丞・租税権領に就任する。

日本政府は1870年10月、北ドイツ連邦に在するドンドルフ・ナウマン社に明治通宝の印刷を依頼した。




以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。

だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。

 



松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った

松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から助言を得る。




第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、第四に当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。

フランス滞在中に、松方はレオン・セイの紹介により、パリ・ロチルド家第二代当主アルフォンス・ド・ロチルドと面会している。




レオン・セイはアルフォンスの招きでロスチャイルド家の所有する北部鉄道会社に入社して役員となり、後に政治家・蔵相となって金融ブルジョワジーや鉄道会社の利益を代弁・擁護した人物であり、いわばロスチャイルド家の家臣であった。

同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、暗殺された大久保利通の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。




その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」設立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。

後の明治16年(1883年)に、松方は明治天皇に働きかけて、レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。




松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税、醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。

ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。




なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである。



総理大臣および大蔵大臣として
詳細は「第1次松方内閣」および「第2次松方内閣」を参照


明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。

1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任。明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。




しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。

同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる




。その後第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣(総理大臣兼大蔵大臣)の大命が下るが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。

このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。





晩年
青山霊園にある松方の墓
日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案どおりに、山縣有朋、西郷従道らとともに日英同盟締結に賛成している。

元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。




明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。

国王拝謁の次に、ロスチャイルド卿ナサニエルの私邸に招待されている。ナサニエルとクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは共に英米ユダヤ社会の指導者であり長年の友人であった。

エドワード7世はナサニエルの学友であり、エドワード7世の側近で個人経済顧問のアーネスト・カッセルもシフの長年の友人であった。




また、政界・金融界からの出席者総勢160余名が集ったイギリス銀行協会主催の晩餐会に招待されている。オックスフォード大学からは法学名誉博士号(後には国家元首にのみ与えられる)を授与されている。

アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアでは皇帝ニコライ2世と会見している。




同年12月29日に日本赤十字社社長に任命される。帰国後の明治36年(1903年)には戴冠式を終えたエドワード7世からナイトの最高勲章を贈られている。

また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から枢密顧問官。大正6年(1917年)から内大臣を務めた。内大臣時代は宮中某重大事件・大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。



伊藤博文や山縣有朋らの死後は元老を主導する立場となり(といっても山縣の死後には元老は松方と西園寺公望のみとなっていた)、加藤友三郎内閣の成立などに関与した。

大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。東京三田の自宅で国葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園。

出所Wiki





上述のように、松方正義は、ロスチャイルド家、また特にロスチャイルド・パリ家と深い関係がありました。
 
日英同盟締結に成功し、日露戦争の戦争国債は、高橋是清からつながるロスチャイルド家と親戚のシフ家とロスチャイルドロンドン家・パリ家に融資してもらう事に成功しています。



 何より、ロスチャイルド家が推し進める金本位制を日本に導入し、中央銀行である日本銀行を創立しました。




・ロスチャイルド財閥ー27 幕末・明治維新https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2355a3b6e6b91eda6703f158d91a9b83
・ロスチャイルド財閥ー51 日露戦争https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5386bf54325637286f20e225254b974d




ジェイコブ・ヘンリー・シフ と 高橋是清







どこの国家も、ロスチャイルド家のいいなりとなる政治家が大蔵大臣、財務大臣に就任しますが、金融に関しては特にパリ家です。そして松方も、大蔵大臣、首相となっています。




最近では、麻生太郎が安倍政権、菅政権で財務大臣に就任しており、麻生さんの娘・彩子さんはロスチャイルド・パリ家の御曹司と結婚したことが報じられており、

水道民営化した話も、日本がロスチャルドGrの水会社のVEOLIA(ベオリア)社が採用されていることも無縁ではないでしょう。 



ロスチャイルド財閥の創始者はマイアー・アムシェル・ロスチャイルドで初代の総主です。 マイアーの支持によって、分家の当主のうち1人が全事業の統括者(総主)となることが定められています。

当然、誰がその時代の総主であるかは、ロスチャイルド家の人たち以外には窺い知ることはできません。 しかし、様々な情報、兆候から総主が誰であったかは、第二次世界大戦を挟むナチスに追われた混乱の時代以外には、ほとんど正確に判明しています。 

初代が亡、くなった後、第二代総主には能力に優れたロンドン家のネイサン・マイアー(在位1812ー1836)が就きました。 

当時のフランスは革命と反ロスチャイルド政策によって、またドイツはナポレオン軍によって蹂躙されて、両国のロスチャイルド家はとても総主を出すところではありませんでした。

ロンドン家がもっとも安定していたので、ロンドン家のマイアーが総主となったことは当然でした。 しかも当主ネイサンは、ワーテルロー会戦(1815年)の際、巨額の利を得た事実の他、総主たる器でした。

ところが、第三代総主はパリ家のジェームズ・ロスチャイルド(在位18356-1868)に移っています。 その詳しい理由は分かりませんが、言われているところではロンドン家に問題があったとされています。 


*裏話*
1836年にネイサンが死ぬと、王権とそれに伴う世襲権はネイサンの長男でありロンドン分家の党首であるライオネルには渡らず、アムシェルの5男パリ分家の当主ジェームズ・ロスチャイルドに渡りました。 

ライオネルは当時28歳で、伝統に従い叔父カールの娘・従姉妹のシャーロッタと結婚していました。 彼は一族の銀行で最も豊かな支店の頭取であり、一族で最も有能な人物でした。 

それにも関わらずです。 ユダヤ人歴史家はこのおうな異変があったことは認めていますが、誰もその理由に述べてません。



シェレプ・スピリドヴィッチ伯はその理由を次のように述べています。 

「ジェームズ・ロスチャイルドは1792年に生まれ、1836年から1868年にかけて悪政を行った。 彼はウィーン家の兄の醜い娘ベティと結婚した。 

ネイサンの犯した『罪』により、その息子ライオネルは継承権を剝奪され、ジェームズが第三代ロスチャイルドとなることが、アムシェル(アンセルム)、ソロモン、カール・ロスチャイルドによって決定された。 

彼らは1836年にフランクフルトに集まり、ネイサンの扱いについて話し合ったようだ。 ネイサンはおそらくロスチャイルド家でただ一人、信念の欠如ゆえにキリスト教に改宗することを望んだ人物であった。 

それは改宗することによって英国民を騙し奴隷にしやすくするためだった(『秘密世界政府・隠れた手』138ページ)」



ライオネルの結婚式にパリに一族が集まり、盛大な披露宴が催されたこと。 ネイサンが急病になり毒殺をされたのか否か分からないが、いずれにせよ、ロスチャイルド家の資産統括権はネイサンの遺産相続者から彼の弟パリ家ジェームズとその遺産相続者に移った。

ジェームズの治世に関する記述はほとんどんない。 彼は冷酷で抜け目のない厚顔無知な男で、パリ分家の資産拡大に大いに貢献した。 

彼が死亡したときの彼の個人資産は4500万ポンドー2億ドル以上と推測されていた。 しかし資産目録が提出されないので。これはあくまでも推測の域を出ない。





以後、第4代アルフォンス・D・ロスチャイルド(在位1868-)、第5代エドワード・アルフォンス、第6代ギイ・エドワールとパリ家が続きます。


松方正義は、大酒飲みで妾を多く持ち、多くの子供に恵まれました。第一次世界大戦で日本の財閥企業・大企業は莫大な利益を手にし、日本は大正バブルを経験しました。 同時に、新興財閥の台頭もありました。 その中の一つに松方財閥があります。 これについては、別途投稿します。


松方の女好きのエピソードに、ある日、松方に明治天皇は「お前は子沢山さんと聞くが、子供な何人いるのか?」と、問われましたが子供が多くて覚えておらず、「後日調査の上、ご報告申し上げます」と答えました。 妾との間にできた子供を何人も正妻の奥さんが育てていた話もあります。





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