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英シティー再起動、欧州金融が回帰 歴史が醸す底力

2024-06-29 23:40:36 | 世界経済と金融

英金融街シティーが再起動している。英国の欧州連合(EU)離脱から1月末で4年を迎える中で、英国内外の金融機関による大型買収や拠点新設といった事業拡大の姿勢が鮮明だ。

金融史の舞台として長年築き上げた金融サービスの集積と文化力が、にぎわいを支えている。

 


大型買収・拠点新設相次ぐ

「M&A(合併・買収)のアドバイザリーや株式発行といった投資銀行業務にEU離脱の影響はなく、欧州における英国の主導的地位は今後も揺るがない。

英国の法人顧客との深いネットワークを手に入れることで、ドイツ銀行の成長は加速する」。

ドイツ銀行のファブリツィオ・カンペリ取締役(法人・投資銀行部門担当)はシティーのオフィスでの取材で強調した。

 

 

EU離脱の交渉では英国への強硬姿勢をとったEUの盟主ドイツと対照的に、独金融大手のドイツ銀行はシティーでの事業拡大を鮮明にしている。

23年10月には英投資銀行ヌミスの買収を完了した。買収金額は約4億1000万ポンド(約760億円)と同行として過去10年で最大規模の買収とみられ、英国で有数の投資銀行部門の陣容をそろえた。

24年には新オフィスの移転も進める。ロンドンの5拠点を統合し、計14フロアで従業員5000人以上がシティーに勤務することになる。

1873年にドイツ銀行が英国での営業を始めた歴史的な地の近くへ戻る。

 

 

EU離脱から4年

EU離脱から24年1月末で4年が経過する。離脱前にはシティーの金融街としての地位は低下すると懸念もあった。

確かに英国の拠点からEUでの取引が制限される株式営業の分野などで悪影響は発生した。

アーンスト・アンド・ヤング(EY)によると、16年の国民投票から22年3月までの英国からEU圏内へ流出した金融業の就業者数は7000人強となった。

ただシティー全体の就業者数は国民投票前の15年の43万8100人から22年に59万8900人と4割弱増の約16万人増えた。

伸び率は英国全体の5%増を大きく上回る。「シティーが長年にわたって築き上げた金融業や、会計や法律、コンサルティングといった金融専門サービスのネットワークの優位性は揺るがない」とシティーの大手会計事務所幹部は話す。

 

ロンドンの中でもシティー回帰が進んでいる。英金融大手HSBCは23年、27年にも新金融街「カナリーワーフ」を象徴する存在だった超高層ビルから、シティーで改築中のビルへ本社移転する計画を明らかにした。

経営不安に陥ったクレディ・スイスの従業員も、買収したスイス金融最大手のUBSがシティーで構える本社へ移っている。

港湾街の再開発でできたカナリーワーフは1980年代のサッチャー政権の金融ビッグバンによる外資系金融の流入ともに成長。これまでシティーから金融機能が移っていた場所だった。

シティーの追い風になったのが、新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけとした在宅勤務の定着だ。

従業員の出社頻度が減り、交通の便が悪いが広いオフィススペースを確保できるというカナリーワーフの利点が乏しくなった。同地のビルで働く靴磨きの男性は「いまだに日中の人通りと売り上げはコロナ前の2分の1から3分の1にとどまる」と嘆く。

 

 

EU離脱後も人材を吸引

出社の意味が問われる中で、幅広い金融関連のプレーヤーが集積し、対面で会って交流しやすいシティーの魅力が増した。

シティーの起源は、ローマ帝国が3世紀ごろに現在のロンドンのわずか約3平方キロメートルを防壁で囲んだことだ。

その狭い地域の中で、近世以降に保険市場や証券取引所といった金融インフラが相次いで生まれ、今日まで拠点を構え続けている。

アイデアの交換が生まれやすい空間は新しい人材も引き付ける。EU離脱後に急成長を遂げたフィンテック企業の本社はいずれもシティーにある。

18年に新規株式公開(IPO)した融資プラットフォームの英ファンディングサークルや英デジタルバンクのモンゾなどだ。

シティーの金融機関勤務の傍らで同地の公認ガイドとして活動する坂次健司さんは「シティーは外に開かれているのが特徴だ。

現在の就業者の4割強が英国外出身で、6割が20〜30代の若者世代だ。最近では東欧からのフィンテック人材の流入が目覚ましい」と話す。

 

 

中世には外部人材を担い手として商業街として発展していったという歴史もある。

11世紀には現在のフランスから征服したウィリアム1世が、金融の担い手としてユダヤ人を招いた。

13世紀のユダヤ人追放令の後には、イタリアのロンバルディア商人が活躍して現在まで続く中心部の「ロンバード街」の名前の由来となっている。

EU離脱や新型コロナウイルスといったここ10年弱の試練に対して、過去約2000年にわたり積み重ねた歴史が、シティーの底力を生み出している。

 

 

 

シティーの中心部から東に向かうと、建物の外側に配管や階段をむき出しにした奇抜なデザインの「ロイズビル」が姿を現す。

このビルの内部には、現存する最古とみられ、世界最大級の取引規模を誇る保険市場がある。その市場を運営するのが英ロイズ保険組合だ。

建物の内部に入ると、取引フロアにずらりと並ぶ数百個の机に向かって、保険を引き受けるアンダーライターと呼ばれる担当者が座っていた。保険をかけたい企業からの依頼を受けたブローカーが通路を歩き回って、アンダーライターに話しかけ、どのぐらいの金額や条件であれば引き受けが可能かを交渉する。

保険の担当者は複数のアンダーライターが控える机へ足を運び、企業が希望する保険金額全体の引き受けが完了するまで何度も話し合いが続いていた。

ロイズ保険組合は17世紀後半に相次いでシティーで開かれたコーヒー店「コーヒーハウス」の「ロイズ」が発祥だ。紅茶のイメージが強い英国では、実はコーヒーの流行の方が早かった。

新聞などのマスメディアが未発達な時代に、船主や投資家が集まって情報交換をし、さらに海上保険が売買されるようになって今に至る。

現在でもアンダーライターが控える机は「ボックス」と言われ、当時と同じ呼び方が残る。

あるロイズ保険組合の有力メンバーの男性社員は「新型コロナウイルス禍で一部で電子取引や在宅勤務が進んだが、『コーヒーハウス』の雰囲気が残る対面取引も根強い。

顔を合わせた信頼関係が取引の肝となるのは何百年たっても変わらない」と話す。

コーヒーハウスは数々の金融インフラを生み出した。1698年にコーヒーハウス「ジョナサン」で株価やコモディティーのリストが発表されて投資家が集ったのが、ロンドン証券取引所の発祥だ。

同様に1744年にも「バージニア&バルチック」でバルト海の商品取引がされたのがバルチック海運取引所の起源となる。

シティーで1652年に初めてできたコーヒーハウスは、ジャマイカなどでのラム酒や砂糖の貿易の場となった。

その跡地は現在「ジャマイカ・ワインハウス」というパブとなり、今でも金融機関で働く人たちが立ち飲みをしながら、情報交換をいそしみ活気づいている。

16世紀後半に設立された「王立取引所」は為替とコモディティーの取引所として機能した。

「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則で知られるトーマス・グレシャムが設立。王室の金融代理人として仕え、女王エリザベス1世から認められて「王立」の名が冠された。今では高級ブランド店が並びにぎわう。

そもそもシティーが国際金融センターとしての地位を確立したのは、19世紀前半のフランスのナポレオンとの戦争以降となる。

現在のオランダのアムステルダムなど、荒廃した欧州大陸から金融機能の移行が進んだ。

ワーテルローの戦いでナポレオンを破った国民的英雄で、のちに首相を務めたウェリントンの像が、それを象徴するかのようにシティーの中心部の広場に鎮座する。

 

王立取引所の裏手には、ロイター通信や現在はLSEG傘下の金融・相場情報サービスの創業者であるポール・ジュリアス・ロイターが1851年に同地で創業したとの石碑が建つ。

伝書バトでやり取りした相場情報を、英仏海峡間に敷設した海底電信ケーブルを使って伝達するというイノベーションを起こした。

こうした金融インフラはいまも、人々の活動を支える。独自の生態系と周辺に集まる金融業者へのメリットを生み出している。

 

 

「劇場」としての存在価値は不変

シティー公認ガイド 坂次健司氏

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シティーの成長のきっかけを作ったのは16世紀の国王ヘンリー8世の宗教改革だ。

カトリック教会から離脱して英国国教会を創始したことを、私は「ファーストブレグジット」と呼んでいる。
カトリックの資産を民間に払い下げて得た巨額の資金を、私腹を肥やすのではなく海軍の創設に使って英国の国力を高めたと評価している。

17世紀後半の名誉革命によって金融街としての躍進が始まった。オランダから迎え入れたウィリアム3世とメアリ2世のもとで「権利の宣言」が制定された。議会主義や私有財産制が確認されたことで、安心して金融活動ができる自由経済の土台ができたことが大きい。

長年にわたりシティーは欧州の片隅の商業街に過ぎず、同じローマ帝国下で成立したパリやウィーンに比べておまけのような存在だった。それが急にぐっと商業と貿易の神が手を組んで繁栄を遂げたイメージだ。

転んでもただでは起きない。第2次世界大戦後に英国は多くの植民地を失ったが、英領をケイマン諸島やバミューダなどオフショアのタックスヘイブン(租税回避地)として活用して金融業を支えた。

1950年代に冷戦が激化する中、米国による資産凍結の懸念からソ連や東欧が保有する米ドルをロンドンの銀行に預け替えたことでユーロダラー市場ができあがった。

シティーは最高の「劇場」というのが私の見方だ。常に入れ替わりはあるが、一流の役者に一流の演技をしてもらう場所であり続けている。
近年でも1980年代のサッチャー政権の金融ビッグバンで英国内の金融機関に大打撃を与えながらも、世界の有数の金融機関を招くことで金融街として再び成功することができた。

アジア時間と米国時間の中間にあり、トレーダーや投資家が世界全体を見渡して取引ができる地球上の特権的な場所でもある。金融街としての存在価値は不変だ。

いわば「セカンドブレグジット」となる英国のEU離脱がシティーをさらに成長させるかどうか。
 
それは金融規制の緩和とデジタルトランスフォーメーション(DX)でどれだけ大陸側に対する優位性を出せるかにかかっている。

(ロンドン=大西康平が担当した。グラフィックスは田口寿一)

 

 

日経記事2024.01.19より引用

 

 

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コラム シティを歩けば世界がみえる 特集一覧 ロンドンの金融街、シティの歴史パブ再発見

2024-06-29 23:12:57 | 世界経済と金融

「我思う、故にパブあり」シティの歴史パブ再発見

 

国際金融都市シティの昼間人口は40万人以上、話される言語も300を超えるという。最新鋭ビルの隣に中世の教会やギルド施設が立ち、ローマ時代の遺跡も混在。

ここは異質なものが隣接し、躍動的に発展し続ける街だ。

キリスト教布教の施設から宿屋、情報や文化の発信点、コミュニティーの憩いの場へとその役割を変え続けるパブの存在も、歴史の核心を衝く。

グラスの水滴に映し出される歴史の彩り、光と影、そして息遣い……。シティの歴史パブの扉をそっと開けてみた。

 

 

ヴィクトリア時代の銀行がそのまま絢爛豪華なパブに
ジ・オールド・バンク・オブ・イングランド
ザ・カウンティング・ハウス

The Old Bank of England

パブに繰り出したいなら、銀行を丸ごとパブにすればいい ──誰のアイデアか知らないが、地下の金庫にあるのは昔、金塊、今は酒。

安全に守られたお酒を豪華な店内で嗜むことができる。オールド・バンク・オブ・イングランドは1888年から1975年まで営業したイングランド銀行の支店。

ジョニー・デップ主演映画で知られる「スウィーニー・トッド」では、理髪店と人肉パイ店を結ぶ地下道がこの建物の地下にある設定だ。

店のメニューにはさりげなく「最高の自家製パイ」と書かれている。一方のカウンティング・ハウスは、1893年からプレスコット銀行として営業。

その後、ナットウェスト銀行に買収され、1997年にパブとして生まれ変わった。2階からカウンターを見下ろしながら飲めば、銀行経営者の気分に浸れる。

 

エリザベス1世がその周りで踊ったという桜の幹が残る歴史パブ
イー・オールド・ミター

 

Ye Olde Mitre


ビール・ファンならご存知、CAMRA(真のエール保存消費者団体)の東ロンドン / シティ地区2014年パブ・オブ・ザ・イヤー賞を獲得したパブ。

エール・ビールとチューダー朝建築の雰囲気をたっぷり堪能できる。マゼランに続き世界一周を成し遂げたフランシス・ドレイク船長のパトロンだったクリストファー・ハットン卿はエリザベス1世のお気に入りとなり、13世紀から存在したイーリー司教の土地の多くを割譲してもらった。

彼の邸宅とイーリー司教区の境界には桜の木があり、それを囲むように1546年、このパブが出来た。1970年代までこのパブの営業許可証はケンブリッジのイーリー当局が発行し、イーリーの治外法権区域だったという。司教の帽子がパブ・サインなのは伊達じゃない。

 

 

中世の世界へ、時間旅行のファンタジー
シティ・オブ・ヨーク


Cittie of Yorke


1430年に宿屋として開業以来、この土地に500年以上存在しているパブ。チューダー様式の入口を奥に進むと、中世の木組み天井のホールに出くわす。

1000ガロンのワイン樽、イングランド最長のバー・カウンター、ヨーク家の白バラを象ったガラス細工、19世紀前半リージェント時代の三角ストーブ、そして木彫りのコンパートメントが7つ。

肘掛け椅子に座れば、時間旅行のファンタジーが始まる。何を飲むかって? もちろん、この店はヨークシャー最古の醸造所、オーガニックが自慢のサミュエル・スミスの経営だから、ヨークの名酒OBB (Old Brewery Bitter)に決まりだ。

周囲は法曹関連オフィスが多いので、コンパートメントで飲みながらの個別法律相談もあるのだろう。隠れて飲みたいときは地下のセラーも充実している。

 

 

16世紀前半まで実在した修道院をモチーフに
ザ・ブラック・フライアー


The Black Friar

 

中世、ドミニコ会の托鉢僧は黒いローブを着用したので、ブラックフライアーと呼ばれていた。

当時の修道院(1276~1538年)は、先端技術と知識を誇る数百人の僧侶が共同生活を送っていた場所。特にこの地にはローマ教皇と英王室の外交関係を取り持った枢密院が置かれ、ヘンリー8世とアラゴン王女との離婚調停裁判も行われた。

宗教改革で解体されたが、その跡地から屋内演劇場、薬局ギルド、王立印刷所(後の「タイムズ」紙本社)が生まれ、知識の発信所という点に変わりはなかった。

1875年、旧修道院の南西門にこのパブが登場し、1905年に修道院をモチーフに改装された。店内に溢れる托鉢僧の彫刻や、奥の壁に飾られた修道院の教訓「急がば回れ」「勤勉がすべて」が説法を続けている点も昔のままだ。

 

 

名酒は人生の応援歌、ロンドン最古のアイリッシュ・パブ
ザ・ティペラリー

 

The Tipperary

 

この懐かしい雰囲気は何だろう。古びたカウンターで名酒ジェイムソンをストレートで飲む。一瞬、時間が止まり、透明で芳醇な香りが広がる。

「命の水」(ゲール語で「ウィシュケ・ベアハ」。ウイスキーの語源)は、自然の恵みがぎっしり詰まった人生の応援歌。

琥珀色の魔法が腹の奥底まで染み渡ると、不意に出てくるのがポエジー(詩情)だ。この店をさかのぼれば13世紀の修道院の醸造所に行き着く。

18世紀初頭、アイリッシュ・パブとして開店。以来、時代の先端を走るシティにあって、こぢんまりとしたこの店は何も変わらず、アイリッシュの詩と心をずっと温めてきた。

床下のシャムロック(クローバー)が微笑み、棚に置かれたイエイツが囁く──「ときが果てるまで摘み取ろう、月の銀の林檎を、太陽の金の林檎を」。

 

 

ロンドン初のコーヒーハウスは砂糖貿易の情報中心地
ザ・ジャマイカ・ワイン・ハウス

 

The Jamaica Wine House

 

1652年、東方貿易商の召使いだったパスカ・ロゼがロンドン初のコーヒー・スタンドをここで開いた。

その後、コーヒーハウスは交流の場として瞬く間にシティに広まり、ロンドン証券取引所、バルチック海運取引所、ロンドン金属取引所、ロイズ保険などへとその姿を変えていく。

ジャマイカの貿易商人が集まるようになったこの店は、砂糖やラム酒、そして奴隷貿易の情報拠点になった。

1869年にワイン・ハウスに改称、1885年にヴィクトリア建築に改装されたが、今でも「Jampot」という愛称で親しまれ、シティのビジネスマンが盛んに情報交換を行っている。

甘い商売の話に群がる姿は300年過ぎた今も変わらない。なお、店内には当時のコーヒー販売法や壺が展示され、お酒を片手にコーヒー博物館としても楽しめるのがうれしい。

 

 

英国ニュースダイジェスト記事 2024.06.29より引用

 

 


there is afterall, nothing quite like summer in the Amalfi Coast 🍋 From the dramatic hilltop view

2024-06-29 21:17:14 | 音楽全般・ダンス・映画・アニメ、オペラ、クラシック、POP、

@TravelTreasures9 there is afterall, nothing quite like summer in the Amalfi Coast 🍋 From the dramatic hilltop view

https://www.youtube.com/shorts/c7E5sUslxzM