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エレノア・ルーズベルト 赤いファーストレディ(第5列の女王)  全記事

2024-11-06 09:24:32 | 世界史を変えた女スパイたち
 

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)大統領夫人 エレノア(1884~1962)
 
 
 
① 赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-1   ロシア系移民 共産主義者ラッシュとの不倫

https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/016beb00fafb64e4b6b92c0d4c696e4d

 

➁ 赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-2   NKVD(ソビエト連邦の秘密警察機関、KGBの前身)
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/23d1d864ac416e90cdb8ab0439970fb6

 

③ 赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-3  ルーズベルト大統領とノルウェー王女の不倫
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f6429a7f7cb224a9fee0a3bd76ccc3a6

 

④ 赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-4    国際連合と戦後のエレノア
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/6a81b6e38b84f78243195b8b722ddd91

 

 

 

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哲学・宗教・思想 ここまでの投稿記事一覧
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/7da98797504886d8b9eaa2e5936655e6

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ロスチャイルド財閥 今まで投稿してきた記事リスト (1/4)
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ロスチャイルド財閥 今まで投稿してきた記事リスト (2/4)
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ロスチャイルド財閥 今まで投稿してきた記事リスト (3/4)
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ロスチャイルド財閥 今まで投稿してきた記事リスト (4/4)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b33a59636d98b97ec0575f2d8a22bd83

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世界の財閥 ここまでの投稿記事リスト
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14d30c37bfae00d834c78d49da070029

日本の財閥 ここまでの投稿記事リスト 
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ゴールドマン・サックス ここまでの投稿記事リスト
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Black Rock ここまでの投稿記事リスト
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/93ef8de49c1ff9039ce7446f1f3fb0e8

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・フリーメーソン・イルミナティ・秘密結社 ここまでのまとめ
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/d52e37f7e9a7af44f93554ed333744b3
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・ロスチャイルド財閥-111 国際金融財閥の序列
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/af41696ec05203f68b46d63b897e9b3d

・ロスチャイルド財閥-215 ロスチャイルド当主 ANAホテル(赤坂)プライベート会合https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/15e42c79348485224e0b9ae63ca899e4

・ロスチャイルド財閥ー224 Black Rock と親会社 Black Stone、そしてワシントンコンセンサス
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9e5f232ed05a223f6fabc318428554b7

・Bloomberg ブラックロックCEO、現代金融理論を支持せず-「くず」と一蹴https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f8723862229429fc9507648b3cfd56e2

・アホの一つ覚えのMMT信者https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/edfec0faeef39871e87a42779cd369b4

 

・『死の商人』デュポン財閥 今まで投稿してきた記事リストhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5aed80e18c285ccaa9f5fb87e06a08ad

・日本の『死の商人』 今まで投稿してきた記事リストhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/878b15c4eaa371f00e54ec6f1fd489aa

・シャープの歴史と物語
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・ト-マス・グラバー ここまでの投稿記事一覧
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アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れ

2024-11-05 07:33:06 | 世界史を変えた女スパイたち

 

アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー1: 生い立ちhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/99da503f67a7ab05933d0308c10c061b

 からの続き

 

 

上海に居を構えたスメドレーは、西洋人女性ジャーナリストの顔を最大限利用した。 

紹介した自伝的小説『大地の娘』の評判はことのほか良く、作家の顔も持った。 彼女はたちまち広い人脈を築いていった。

 

米、インド、ドイツなどからやってきた左翼知識人・ジャーナリスト、中国人、反蒋介石グループなどとの交友が始まった。 

そうした人物の中には作家魯迅や孫文の未亡人宋慶齢らがいた。 スメドレーは、宋慶齢の手紙を代筆・校閲したり、スピーチ原稿を書くほどに中になった。スメドレーは、中国事情をよく知る西洋人ジャーナリストのスターとなった。

 

 当時の上海は人口三四〇万人をもつ中国最大の都市であった。 町のおよそ半分が外国勢力の祖界地となり、総元締め役が英国でであった。

上海は西洋列強がもっとも経済的進出に成功した中国敗北の象徴でありながら、そうした勢力への財協力でを成す中国人富豪も現われていた。 アヘン売買と売春は三つのグループが仕切っていた。(注:杜月蔣笙、張嘯林、黄金は、上海マフィアの三大ボス(三大亮)と呼ばれていた)。
 
 

上海はアクの強い西洋人にとってパラダイスであった。この頃の英国は、インド独立派の動きを警戒していた。

当然にその活動を支援していたスメドレーの中国入りを監視していた。英国は、英国領事館を通じて彼女を中国から追放する工作を繰り返し仕掛けたが失敗した。 

 

英国の彼女に対する警戒はインドの小村(Meerut:デリーの東およそ一六〇km)での裁判記録(一九二九年三月ニ九日)で分る。 英国はこの村で三一人の共産党員を英国王(英国)に対する反逆罪で起訴していた。 

逃亡中の五一人も同時に起訴されていたが、その中にスメドレーの名もあった。 英国が、彼女を要注意人物としてマークしていたのは確かなことであった。

 

 


リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)

リヒャルト・ゾルゲ氏はソ連の伝説的なスパイ。

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日本で「ラムゼイ」や「インソン」という偽名で活躍し、死後ソ連邦英雄の称号が贈られた。ゾルゲ氏は、ナチス・ドイツのソ連侵攻の正確な日付を把握し、1941年9月には日本がドイツ側の戦争に参加しないという情報をソ連に伝えていた。この情報により、ソ連は1941年秋、シベリア師団をモスクワ防衛のために配置させることが可能となった。

ゾルゲ氏は1941年、日本で逮捕され、44年に処刑された。  現在、リヒャルト・ゾルゲは東京都の多磨霊園に埋葬されているが、2020年10月、ロシア大使館はゾルゲの墓の権利を取得している。   SPUTONIK(スプートニク)より引用

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 尾崎秀実の協力を得て、日本国内に諜報網を形成したゾルゲの最大の功績は、戦時中の日本軍が、ロシアを攻める「北進」ではなく、フィリピンやインドネシアに進出する「南進」を取り、日本が対米開戦を決意するとの情報をいち早くロシアのスターリンに送ったことでした。

しかもこの日本政府の「南進の決意」自体に、ゾルゲの指示を受けた尾崎の働きかけの影響があったとも言われています。

 また、ドイツ人記者を装って在日ドイツ大使館に出入りし、オットー独大使に取り入りました。ドイツの公文書を自由に閲覧し、1941年のドイツのソ連侵攻計画をモスクワに送信しています。当時日本はドイツと同盟を組んでいましたから、日本で手に入るドイツの情報には価値があったのです。

 

 ゾルゲがオットー大使に接近できたのは、オットー夫人とゾルゲが以前からの知り合いだったからですが、夫人とは男女の関係にあり、ゾルゲは二重の意味でオットー大使を裏切っていたことになります。しかしオットー大使はそうしたことに全く気づかず、ゾルゲがスパイ容疑で摘発された際には「まさか!」と狼狽したそうです。

 

 ゾルゲは、日本で諜報網を張り巡らせて得た極秘情報をオットー大使にも伝えていました。これで大使の信頼を獲得していたのです。日本そしてドイツに関する情報を得たゾルゲは、自宅から無線機でソ連に情報を送っていました。
                                                            日経ビジネス 池上彰氏記事より引用

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一九三〇年一月、ソビエトのドイツ人スパイとして、後に世に知れるリヒャルト・ゾルゲが日本船に乗って上海に現れた。

ゾルゲも表向きは西洋人ジャーナリストであった。ドイツ穀物新聞『Getteid  Zeitung』の

特派員として、中国の農業事情の研究が名目の上海訪問だった。 

 

しかし、彼はコミンテルンとの関係を敢て絶ち、赤軍第四本部軍事情報機関(GRU)に所属していた。

当時、上海の共産党組織は壊滅状態にあった。 そのためソビエト赤軍は、極東情勢全般だけでなく、「蒋介石南京政府の政治的・軍事的力の調査」をゾルゲに命じていた。

 

ゾルゲは、上海では地下に潜った共産主義者との直接接触を避けるよう指示されていた。 ソビエトは、本格的スパイ育成に際しては長い時間をかけ、スパイ要員の『共産主義臭』を消す。 

例えば、ソビエトスパイのキム・フィルビー(MI6、第九部長:対ソ防諜担当)の場合でも、共産主義者でオーストリア共産党員のユダヤ人女性(リッフィ・フリードマン)を妻としていたが、早い時期に別れさせている。

 

フィルビーはスペイン内戦では、現地に特派員として取材に入ったが、あえて親ナチの立場を取った。 MI6でさえ、フィルビーから共産主義者の匂いをかぎ取れなかった。だからこそ彼は対ソ防諜の責任者まで上り詰められたのである。

 ゾルゲは、上海に入ると直ちにスメドレーを探した。 目立たずに上海の共産主義者の動向を探るために彼女を利用するためであった。 

 

上海西洋人のスターとなっていた彼女との接触はすぐにかなった。二人は互いの存在を、ドイツやモスクワで共通の知人を通じて知ってはいたが、直接の面識はなかったようである。

ゾルゲには共産主義者臭がないだけに、上海のドイツ人コミュニティにも警戒されていない。

 

彼は上海におけるドイツ人の排他的親睦組織コンコルディアクラブのメンバーとなり、蒋介石の軍事アドバイザーだったヘルマン・フォン・クリーベル大佐も彼とたちまち懇意になった。

大佐は、蒋介石の国民党軍の情報をあえすけに漏らした。 そうして得た情報は、ソビエトが送り込んだ技術系スパイが構築した無線通信網を通じてモスクワに送られた。

 

ゾルゲは美男子で酒好き女好きだった。ゾルゲは、上海ですぐに大型バイクを買った。彼女のアパートに颯爽としてバイクでやってくる彼の姿は女心をくすぐった。 スメドレーを後部に乗せて上海市内を疾走する姿は目立ったに違いなかった。

二人はたちまち愛人関係になった。

 

スメドレーと親しかった陳幹笙(上海社会科学研究所)は、二人は一九三〇年の晩春から夏にかけて長期間広州周辺を旅したと語っている。

スメドレーが友人フローレンス・レノンに宛てた手紙(一九三〇年五月二ハ日付)は、彼女が冗談好きで話術に長けたゾルゲにぞっこんだったことを示している。

 

「彼は私を、私は彼を助けている。 要するにフィフティ・フィフティの関係なのよ。助け合ってうまくいけばいいし、それでだめなら仕方ないってこと。 いずれにせよ同志として認めあっているし、友情もある。 この関係がいつまで続くかわからない。 終わりを決めるのは私たちではなくて諸般の事情ってことね。 おそらくそんなに長く続かないでしょうけど、今が人生で最高のとき

 

スメドレーとゾルゲの愛人関係が続いていた一九三〇年一一月のある日、スメドレーの友人となっていた尾崎秀美(朝日新聞上海支局)がやってきて、「鬼頭銀一なる男(注:米国共産党日本部書記)が支局を訪ねてきて、ジョンストンなる男を紹介したいと言っている」と告げた。

スメドレーは、ジョンストンはゾルゲが必要に応じて使い分けている偽名である事を知っていた。 

 

彼女は一瞬顔を強張らせたが、「なかなかの人物です」と応じた。 彼女が、上海南京路のレストラン『冠星生園』で直々に、ジョンストン(ゾルゲ)を尾崎に紹介したのは、この数日後であった(注:スメドレーではなく、鬼頭がゾルゲと尾崎を会わせた都の研究書もある)。

これがゾルゲが後に赴任した日本(一九九三年九月)で尾崎を中心とするスパイ組織を構築する始まりだった。 



 

スメドレーは、暫く暫くするとフィリピンに向かった。 米国のフィリピン政策は米帝国主義の典型だと考える彼女は、「フィリピンが文明化され次第独立を認める」としていた米国の公約が蔑ろになっていることに憤っていた。 フィリピン独立早期容認の米国世論を刺激するため、フィリピン民族派に接触し、ルポタージュを書いた。

民族派(実際はフィリピン共産党員)の取材を終えて上海に戻ったのは一九三一年二月のことであった。

 

人生最高の日々のパートナーであるゾルゲとの別れは唐突に訪れた。 共産主義者として逮捕されたスイス人夫婦の残した子供の処理で、揉めたこの年六月、共産主義者のスイス人夫婦(Paul & Gertrude Ruegg)が上海租界地で英仏警察に逮捕された。不法パスポート所持容疑だった。 二人は中国官憲に引き渡された。

二人には幼い息子がいた。 スメドレーは、友人のルース(Ruth Kuczynski ドイツ共産党員)に世話を頼み込んだ。 ゾルゲは、その子を預かれば逮捕された夫婦との関係を疑われるとルースに預かりを拒否するように諭した。

 

憤ったスメドレーがゾルゲと別れたのは、この直後のことである。 『プロのスパイ』と『うぶな共産主義ジャーナリスト』の意見の違いが生んだ仲たがいであった。

彼女はこの頃にはゾルゲの女遊びが我慢できなくなっていたらしく潮時だったようだ。

 

 

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー3: 西洋人共産主義者とのプロパガンダhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f5191256ae9c9e00515142bea52f9479

に続く

 


MI6所属のアメリカ人 美女スパイ  ベティ・パック  全記事

2024-11-05 00:13:13 | 世界史を変えた女スパイたち


ベティ・パック(1910~1963)
ミネアポリス(ミネソタ州)生まれ、MI6所属の美女スパイ

 

 

ベティ・パックの出自


パックは、結婚後の姓である。 彼女は1910年、ミネアポリス(ミネソタ州)にアミー・エリザベス(ベティ)・トープとして生まれた。

幼いころから風変わりな子供であった。 一人でいることを好む一方で、何か興奮できることを発見すると、夢中になって追い求めるところがあった。

 

彼女は米海兵隊士官であった父親ジョージ・トープを敬愛した。 その一方で母コーラは苦手だった。 コーラは当時でも珍しいほどの高等教育を受け、ミネソタ州議会上院議員だった。 母を嫌った理由はよく分らないが、性格が似すぎていたらしい。

「私たちを猫に例えるなら、母はペルシャ猫、私はシャム猫だった」(ベティ)

 

父ジョージは米西戦争や米の併合に反対するフィリピン人による抵抗戦争。(フィリピン戦争)などに従事したベテランだったが、その後、海軍大学(1915年卒)で学び直している。

その間、トープ一家はワシントンDCに暮らした。 

 

娘の美貌を知っていたコーラは、ワシントンに集まる外交官たちの世界(社交界)に娘をデビューさせた。 

ベティはたちまち彼らの評判になった。 彼女を射止めたのは、英大使館書記官アーサー・パックだった。

 

彼女が二〇歳の時である。 彼は一九歳年長だったが結婚を決めた。 彼を心底は愛してはいなかったようだが、妊娠を知った両親が結婚を勧めた。

「私は夢遊病者のように成り行きに任せた。 他に何もエキサイティングなことがなかったからかも知れない」と当時を振り返っている。

 



 

スペイン内戦

1936年、パックはスペインの首都マドリードに転任となった。

当時のスペインは人民戦線内閣(1936年2月成立)であった。 実質共産主義政権であり、スペインからあらゆる保守的なファクターを排除しようとする原理主義的な政治を進めていた。 

 

それに反発する勢力との内戦が激化すると、諸外国は大使館機能をスペイン国境に近いフランスの町ビアリッツ(ビスケー湾に面したリゾート地)に移した。

英国大使館もそこに移されたが、ベティはひそかにマドリードに戻った。かつて恋した貴族カルロス・サルトリウスが大保拘禁されたことを知ったからである。彼との出会いの詳細は分からないが、おそらくワシントンDC時代に会ったことがあるのだろう。

 

彼女はバレンシアに残って活動する英外交官ジョン・レッシュ卿の協力を得て共和国政権幹部に近づくと、元愛人だけでなく拘束されていた反政府軍パイロット17人も解放させた。 

性的関係を持ったカソリック神父と協力し、赤十字が寄贈する医薬品を反政府軍(フランコ軍)に届ける工作もした。

 

カソリック教会共和国政府に旧勢力の権化とみなされ、激しく弾圧されていただけに、神父が彼女に協力するのは当然であった。

共産主義の西欧への拡散を警戒する英国は、1936年7月に共和国政権打倒に蜂起したフランコ将軍(フランシスコ・フランコ元陸軍参謀総長)の指示を決めた。英国は内戦が勃発するとヨーロパ諸国代表をロンドンに集め、スペイン内戦非介入を約束させた(1936年9月非介入協約)。

 

ドイツ、フランス、イタリア、ソビエトなど27ケ国が署名した。 良く知られているように独伊両国はその協約にも関わらず軍事介入しフランコ軍を支援したが英国はそれを黙認した。

スターリンは、共和国政府から度重なる支援を求められたが動けなかった。軍事顧問の派遣や小規模の武器供与、あるいは各国からやってきた共和国支援の義勇軍の訓練などの便宜を図るのがせいぜいであった。 スターリンは、ソビエトが軍事介入すれば英国も参戦すると怖れたのである。

 

共和国政府の、カソリック教会弾圧は激しかった。

神父およそ6800(カソリック教会側の発表)が殺され、教会の建物も聖像も破壊された。

 

 中世ヨーロッパを支配したオーストリアのハプスブルグ帝国であるが、太陽の沈まない国スペインはハプスブルグ(神聖ローマ帝国)のカール5世が当時のスペイン王であり、スペインはカソリックの盟主であった。

 

スペイン内戦は、共和国に同情的に描写する史書が多いため誤解されている。 

上述のように英国は、スペインの共産化を警戒した。 

 

当時、フランスも左翼政権であり、ソビエトだけでなくフランスも共和国政府側に立って参戦しかねない状況だった。

そうなれば、スペインはソビエトに続く二番目の本格的共産主義国家となった可能性があった。

 

共和国政府はなんとしても外交的孤立を打開しなくてはならなかった。 

彼らはある奇策を考えた。 画家パブロ・ピカソの利用である。 開催が予定されているパリ万博(1937年5月35日~11月25日)に、独伊の「非道」を訴える作品の制作を依頼した。

 

万博訪問者にフランコ軍を軍事支援するドイツ軍の「非道」を訴え、国際世論を刺激し、独伊の軍事支援にブレーキをかけようと考えたのである。

 

 

ピカソは、なかなかアイデアが浮かばなかった。 そんな時期にドイツ軍によりゲルニカ空爆(1937年4月26日)があり、それがインスピレーションとなった作品が『ゲルニカ』である。

高さ3.49m、幅7.77mの大作だったために完成までに二ケ月を要した。 万博開催には間に合わなかったが、夏には展示にこぎつけた。 ドイツはパリ万博に訪れる自国民に、このプロパガンダ作品を見てはならないと警告した。

 

ゲルニカは日本の高校性が学ぶ教科書にも無批判に掲載されている。 この作品が共産主義政権のプロパガンダ作品であることを知る者は少ない。

ドイツのゲルニカ空爆は、この町の近郊に軍事施設があったことで実行された。 民間人を標的とする空爆は許されない一方で、共和国軍のカソリック神父虐殺も同様に批判されなくてはバランスがとれない。

 

共和国政府がピカソを頼ったのは、彼が共産主義者だったからである。 ピカソが共産主義者であることは、世間に知られていないが、彼自身が

「われは如何にして共産主義になりにしか」を共産主義機関誌『新大衆』に寄稿(1945年)していることからも、それが知れる。

 

 



ベティのハニートラップで、ポーランド高官篭絡とエニグマ暗号解読


1938年、夫はワルシャワ(ポーランド)勤務となった。 ベティが正式に英国情報組織MI6の工作員として活動し始めるのはこの町である。

当時のポーランドは、二つの勢力がしのぎあっていた。 ソビエトの西進を警戒するグループと、ドイツナチズムをより怖れるグループである。

 

ポーランドは、ロシア革命後にポーランドに侵攻した赤軍を撃退した歴史がある(ポーランド・ソビエト戦争)。

 

ソビエトを怖れるポーランドはドイツとの間で、独・ポーランド不可侵条約を結んだ(1934年1月26日)。 

当時のベティはナチズム興隆の憂いをジョン・シェリー(駐ポーランド英大使館諜報責任者)に漏らしていた。 彼はMI6工作員となることを勧めた。



彼女は迷うことなく誘いに乗った。

「身体中にアドレナリンが溢れ、知的興奮が湧きあがった。 ベティがこれからの人生の生きがいを感じ取った瞬間であった」(ハドレー・ミアーズ)

 

この時期の英国はポーランドをドイツから離反させようとやっきになっていた。 そんな時期にワルシャワにやってきたベティは使える人材であった。「愛人が出来た」と告げて来た夫への愛情は萎えていた。

シェリーは早速MI6のハニートラップ要因となった。 彼女がターゲットにするよう求められたのは、ハル・ルビエンスキ伯爵であった。 彼はポーランド外相ユゼフ・ベックの首席顧問格であり、ポーランド外交を左右できる大物だった。

 

 

彼女の魅力が相当であったことは、ルビエンスキをわずか一度の出会いで「落とした」ことで知れる。 愛人関係に入ると、ベティはベティは聞き役に徹した。 彼が漏らす言葉を逐一記憶し、自宅に戻ると細大漏らさず文字にして上司に伝えた。

彼女の最大の功績は、ポーランドがドイツの誇る高度の暗号『エニグマ』解読のヒントをつかんでいるという情報を得た事だった。 この情報をもとにMI6は可能な限りの情報を探った。

 

一般の歴史書では、エニグマ解読は英国の暗号解読チームによるものとされている。中でも数学者アラン・チューニングの活躍を称え、エニグマ暗号解読機の政策は彼の天才的能力によったことになっている。

ユーリングの作業に、スパイがもたらされた情報が役立っていることは書かれていない。 CIAは次のように記している。

 

 

「ドイツ暗号の解読は、数学の利用でエニグマ暗号の解読が可能と考えた、ブレッチリーパーク(ロンドンの北西160km)に集積した天才たちによって成就した。 しかし、数学の利用に最初に気付いたのはポーランドであった。

ポーランドの暗号解析者は1939年には初期のエニグマ暗号を解いていた。 (中略)

1839年9月、ドイツはポーランドに侵攻した。 逃亡したポーランド人解析者は、それまでに得ていたエニグマ暗号解読情報をブレッチリーパークのアラン・チューリングらに伝えた(The Enigma of Aran Turinng)

 

 

 

 

イタリア海軍暗号


夫の次の勤務地はチリであった。 

ベティはジャーナリストとして活動を始めた。 反ナチスの論陣を張る『La Nacion』紙に寄稿している。 彼女は、チリでの生活が物足りなたっかのか夫との間に何かあったのか、夫と娘を置いて第二の故郷であるワシントンDCに舞い戻った。

 

BSCの指令があったのかも知れない。 この頃BSC(スチーブンソンは本国(英海軍)からイタリア海軍暗号表を入手するよう要請されていた。 

 

*BSC ( British Security Control)
*スチーブンソン(ジェイムズ・ボンド007のモデル)

 

 

暗号表は伊駐ワシントン大使館付駐在海軍武官アルベルト・ライス提督の管理下にあるだろうことは分かっていた。

 

スチーブンソンは、この工作にベティを起用した。 ワシントンは第二の故郷だけに勝手知ったる土地である。 

ベティはライスとのコンタクトに成功するとトラップを仕掛けた。 出会いから数週間で提督は恋に落ちた。 

 

彼自身がイタリアの対米諜報工作のキーパーソンでありながら、「彼女との性行為の中で秘密を洩らした」(ハドレー・ミアーズ)のである。

 

 

「今思えば、ライスは経験豊富な海軍高官であり、愛国心に満ちていた筈であった。そうでありながら女の歓心を買うために何でもするという行為に走ったのである」(ナイジェル・ウエスト)


ベティは、ライス提督を完全に「落とした」ことを確信すると海軍暗号表が欲しいと伝えた。 常識的にはこの時点で、彼女が工作員であることが明白な筈であるが、提督は躊躇なく彼女の要求に応じた。

 

 

暗号表は暗号担当大使館員が厳重に保管していた。 提督はベティを暗号担当員に接触させた。 彼女はたちまち担当員をも篭絡した。

肉体ではなく金銭の要求だったようだ。暗号表を写真に収めるとフィルムは直ちにロンドンへ送られた。



これによって伊海軍情報は英国海軍に筒抜けになった。 1940年11月11日から翌12日にかけて、英海軍はイオニア海に面した南部イタリアの軍港タラントを襲った(Operation

Judgement)。  

 

ここに集結するイタリア海軍主力部隊は英国の、エジプト譜面へのロジスティクスの障害になっていた。 この日、タラント港には戦艦六、重巡洋艦七、軽巡洋艦二、駆逐艦八が碇泊していた。

 

 

同港は、対魚雷ネットや敷設嫌いに守られ、海からの攻略は難しかった。 英海軍は航空母艦(空母:イラストリアス)から複葉雷撃機フェアリー・リゾートフィッシュを発艦させ、湾内の伊艦船を襲わせた。

フェアリー・リゾートフィッシュには爆弾あるいは魚雷を積載させていた。 魚雷は浅い水深に対応させた改良型であった。

 

二派にわたる攻撃で戦艦リットリオ、コンテ・ディ・カブールなどに大きなダメージを与えた。伊海軍はこれ以降主力部隊をより北にあるナポリ港に移動させざるを得ず、伊艦隊の地中海での作戦行動は大きな制約を受けることになった。

英国海軍の被害は少なく、航空機二機を失っただけであった。 史上初めての艦載機からの大型艦船攻撃作戦に強い関心を示したのが日本海軍であった。 米海軍も注目した。

 

「ルーズベルトの強力な支持を取り付けていた当時の米海軍作戦部長、スターク提督は、1940年11月11日夜から12日朝にかけて英海軍の母艦機が行ったいわゆるタラント泊地にいる伊主力艦隊への奇襲攻撃の重要性を把握し、この攻撃の直後に、後からみても適切極まる進言を、当時の太平洋艦隊司令官(ジェイムズ)リチャードソン提督に打電していたのである。 

その要旨は今後のイギリス海軍の奇襲成果にかんがみ、小生にオアフ島湾内貴艦隊に対する水中・海上・空中よりの奇襲の可能性について即刻再検討の上、報告せよ。というものであった。

 

 

上記記述から分るように米海軍は、タラント奇襲以降、日本海軍機動部隊によるハワイ奇襲の可能性をよく理解していた。 

スターク提督からの警告を受けていたリチャードソン提督は、太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるルーズベルト命令に反対し、カリフォルニア沿岸への移動を求めた。

 

提督はルーズベルトの怒りを買い、1941年1月に解任された。 後任のハズバンド・欽メル提督は、日本の真珠湾攻撃を許した責任を問われ、大将から少将に降格されたうえで解任された(1941年12月17日)。


伊海軍暗号入手で不要となったライス提督は、米国に接収されていた伊船舶の破壊工作を謀ったとして、ペルソナ・ノン・グラータ(外交上好ましからざる人物)に指定され、国外追放処分となった。

 

戦後、ライスの息子ルシオは、父の名誉回復を求めて、ベティのハニートラップの顛末を著したモンゴメリー・ハイドを名誉棄損で訴えた。

イタリア政府は、彼が暗号表をベティに取得させたことは認めたが、逆防諜(カウンターインテリジェンス)であったと提督を擁護した。 訴訟の結果ハイドの著作はイタリア国内での販売が止んだ。

 

 

 

 

 

フランス(ペタン政権)海軍暗号


フランスは英国とともに1939年9月3日、対独宣戦布告した。 その理由はポーランドの独立を守ると宣言(四月)していたからである。 英国とフランスの対独戦争は自衛戦争ではない。

なぜ他国(ポーランド)を救うために、強力な陸軍と最新鋭の航空戦力を持つドイツとの戦いを英仏両国が覚悟したのか。 それについては十分な考察が必要である。

 

歴史修正主義煮立つ歴史家の多くは、ルーズベルト大統領の対ヨーロッパ外交の右腕であったウィリアム・ブリッド駐仏大使の暗躍(米国参戦の約束)があったと考えている。

ブリット大使の二度目の妻は、ルイーズ・ブライアントである。 彼女の亡夫はジョン・リード(1920年死去:アメリカ人共産主義ジャーナリスト)であった。

 

レーニンのお気に入りだった彼は、ロシア革命を礼賛する「世界を揺るがした十〇間」を著した。 ヒトラーには英仏と戦う積極的な理由はなかった。 だからこそポーランド侵攻以降西部方面への戦線拡大には消極的だった。

ポーランド侵攻後の1939年10月から翌40年3月まで、地上戦はほとんどなかった。 この時期を欧米の史家は『偽りの戦争(Phony War)』と呼んでいる。 ヒトラーは英仏とは停戦を実現し、東部方面への侵攻(最終的には対ソ戦争)を考えていた。 要するに英仏との外交決着を期待していたのである。

 

一向にドイツからの講和のアドバルーンに反応しない(外交交渉に応じない)英仏の態度に業を煮やしたヒトラーが西部侵攻やむ無しを覚悟したのは、1940年4月初めのことである。

パンサー戦車を主力にしたドイツ機甲部隊はたちまち英仏ベルギー軍を撃破した。 対独宣戦布告したダラディエ内閣は崩壊し、無政府状態になったパリにドイツ軍は入城(6月14日)した。

 

対独講和を求める勢力は、第一次世界大戦の老雄フィリップ・ペタン元帥(1856年生)を担ぎ出し、ドイツとの交渉に動いた。

ペタンは、ドイツと友好関係あったスペイン(フランコ政権)を通じて講和を打診した。 講和条約は6月22日に調印された。 その結果、フランスの北半分をドイツ占領地域とする一方で、南部はペタン政権に委ねられた。 いうまでもなく、同政権にはナチスドイツに従う外交が求められた。

 

同政権は、南部フランス内陸の町ヴィシーを主都としたことからヴィシーフランス(ヴィシー政府)と呼ばれる。

ヴィシーフランスは、ワシントンDCの仏大使館を引き継いだ。 1941年5月、スチーブンソンは、ベティに同大使館広報官シャルル・ブルセ(Charles Brousset )の籠絡を命じた。



元新聞経営者のブルセは、米国内のヨーロッパ問題非干渉勢力を支援し、成果を上げていた。 米国の参戦を願う英国には目障りな存在だった。 彼女はジャーナリストを装い、ガストン・アンリ・エイ(Gaston Henry-Haye)大使のインタビューを企画した。 交渉はブルセ広報官が担当した。

段取りをつけた彼女は、女性アシスタントを連れ、大使館に向かった。 大使を待つ間、二人はブルセとの会話を弾ませた。 ベティは彼をたちまち夢中にした。 ブルセは、大使執務室に二人を案内すると、別れ際に、ベティにもう一度会いたいと囁いた。 彼自身が彼女のターゲットであることに気づきもしなかった。

 

エイ大使とのインタビューも成功であった。 大使はこの少し前にコーデル・ハル米国務長官との間で不愉快なやりとりがあった。 その鬱憤を美貌の女性インタビュアーにぶつけて憂さを晴らした。 大使もベティを気に入った。 大使は、彼女を米世論工作に使えると思ったらしい。 

大使のお気に入りとなったベティは大使館訪問を繰り返した。 面会の頻度はその会談を手配するブルセの方が多くなった。

 

彼は彼女と会うたびにのめり込んでいった。ベティは聞き上手だった。 ブルセは大使を嫌ってはいなかったが、自身の能力の方が上であるとうぬぼれている事を知った。 彼がヴィシー政府のピエール・ラヴァル首相を嫌悪している事もわかった。 ラヴァルの過度のナチス追随の姿勢が理由であった。

ベティは天性の勘を働かせ、ブルセが完全に「落ちる」のを待った。 彼女がそれを確信したのは、世論工作世論地下工作活動の内幕を漏らし始めたときである。

 

 

1941年7月、ヴィシーフランスは大使館付け広報官職を廃止すると決めた。大使はブルセの能力を買っていたこともあり、給与を秘密予算から流用し、雇用を継続した。 ベティはこのチャンスを見逃さなかった。 雇用は継続されたもののブルセの給与は大幅に減額されていた。 

彼女は自信が『米国諜報組織』の工作員であることを明かし、大使館で起きている事を詳しく知りたいと伝えた。 金銭的報酬もオファーされた。 

 

建前上、中立国である米国のエージェントを装い、英国のエージェントであることを伏せたのは、ブルセの罪悪感を薄めるためである。

 英国の工作員では、彼も身構えたに違いなかった。彼は彼女の期待通りに求めに応じた。 彼の記憶力はかなりのものだったらしく、その報告は細大漏らさない正確なものであった。

大使館が送受信する暗号電の平文までも提供された。BSCは大使館内の動きや、そこを訪れる人物情報などを完全に掌握した。

 

BSCの要求は、『暗号解読表』そのものの入手にまでエスカレートした。解読表は大使館内の金庫に厳重に保管されていた。 

ベティは、ブルセとのランデブーを夜の大使館に決め、管内で」性行為を繰り返した。 警備員はこれに気付いたが、苦笑いするだけで咎めなかった。 警備員への媚薬(賄賂)があったことは間違いない。

 

ある夜の媚薬は、睡眠導入剤を仕込んだ高級ワインだった。 警備員の寝込んだすきに、BSCが手配した金庫破りの名手を館内に導いた。

解錠は難しく三度目にようやく成功した。 これでヴィシーフランス軍(特に海軍)の動きは完全に英海軍の知るところとなった。

 

二人の逢引きはしばらく続いたが、ブルセの妻が二人の性行為の場面を見てしまい、ベティはスパイだと騒ぎだした。 これをきっかけに彼女は工作活動から身を引いた。

 

 

 

ベティとブルセのランデブーはいつしか本物の恋に昇華していた。 戦後、ブルセは離婚しベティと再婚した。 1946年、二人はピレネー山脈の村(Castelnou)に建つ中世の古城(Chateau de Castelnou)を購入し、移りすんだ。

 

あの戦争の連合軍勝利に貢献したスパイクイーンに相応しい暮らしぶりであった。

ベティは癌で亡くなる少し前にジャーナリストのインタビューに応えている(1963年)。

 

「自分のやったことを恥じているかって? 恥じるもんですか。 私の仕事で何千もの英国人や米国人の命が助かったのよ。 戦争なんて、かっこよいやり方だけで勝てるものではありません」。

 

 

 

 

非干渉主義の共和党大物上院議員の籠絡


ベティは他の女スパイたちと、共和党大物政治家(ヨーロッパ非干渉主義者)を干渉主義者に転向させていた。

1940年、大統領選挙があった。 ルーズベルトが三選を狙う選挙であったが、三選を禁止する不憫率があった。 国民は不文律は守られるべきだと考えていた。

 

英国はルーズベルトをなんとしてでも再選させたかった。 当時共和党は、ヨーロッパ問題不干渉を党是としていた。 党重鎮の一人にアーサー・ヴァンデンバーグ共和党上院議員(ミシガン州)がいた。 1940年の共和党大統領候補選に出馬したお重荷だった。

1928年から上院議員であったが、妻ヘイゼルを地元の町(グランドラピッド)に残しワシントン市内のホテル(Wardman Park otel)に暮らした。

 

彼には愛人がいた。英国大使館員ハロルド・シムの妻ミッチである。 1940年5月、夫ハロルドが心臓発作で亡くなると、彼女はモントリオールに隠棲した。 ミッチの後任がベティであった。

三〇歳の女ざかりの彼女にヴァンデンバーグはたちまち魅せられた。 彼女はミシガン大学出資だが、学友の一人がヴァンデンバーグの妻ヘイゼルだった。

 

そのこともあり、ヴァンデンバーグはベティに向け位階だったようだ。 ベティも前任のミッチ同様に、英国支援を求めて甘く囁いた。 

1941年初め、ルーズベルト政権は(建前上の)中立の立場を捨て、徹底した対英武器支援を可能にする武器貸与法を議会に上程した。 貸与とされているが、返済条件は詰めておらず実質無償供与法案である。これは米国を参戦に導く危険な法律であると共和党など非干渉勢力は」激しく曳航した。

 

結局法案は採択され(1941年3月)、大量の軍需品が米国から海を越えて英国へ運ばれていった。 国民の多くが、非干渉主義者であるヴァンデンバーグがこの法案に賛成したことに驚いた。

 

法成立の頃には、ベティの『後任』にエヴェリン・パターソン(三十二歳)が就いた。 ブロンズ像のように整った容姿であった。 彼女の夫も英国政府関係者(British War Relief)だった。

 

勤務地がマレー半島であったことから、彼女もハニートラップ要員には適役であった。 次々に現れる美女にヴァンデンバーグ議員は抗えなかった。

正史ではヴァンデンバーグは真珠湾攻撃を見て干渉主義に舵を切ったとされる。

 

スパイ活動(ハニートラップ)を歴史著述のファクターにしない正史の『悪い癖』である。

 

 

END

 

 

 

 

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アグネス・スメドリー 中国共産党に尽くした女スパイー1: 生い立ち

2024-11-04 21:59:10 | 世界史を変えた女スパイたち


アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレーは、ミズーリ州の小作人の娘であった(一八九二年生)。 貧困が原因なのか、家庭はかなり荒れていたらしい。 一家は、西部開拓ブームに沸くコロラド州に移った。

同州には鉄道施設や鉱山の開発で多くの開拓民がやってきていた。 鉄道や鉱山事業では少数の大資本家と中間管理職に比較して、不釣り合いなほどの線路工夫や鉱夫を必要とした。

ミドルクラスのほとんどいない特殊社会は、共産主義思想の広まりに最適な環境だった。 それが西部開拓州コロラドにあった。 「労働者たちは、『この辺り(コロラド)では何もかもがロックフェラーの会社( Colorado Fuel & Iron Company )の所有物だ。 奴らが所有していないのは空気だけだ』と(自虐的に)語り合っていた」とスメドリーは回想している。

 

彼女も「 反ロックフェラー(反資本主義)」の風潮に染まった。一〇代後半にはコロラド同様に荒っぽいニューメキシコ州で補助教員として働き学費をためると、アリゾナ州、カリフォルニア州の大学で学んだ。 一九一六年にはニューヨーク州に移り、女権活動家マーガレット・サンガーの下で働き始めた。

サンガーは、「女性の主体的意思による受胎コントロール」を主張するフェミニズム運動の魁となる活動家だった。 スメドレーはニューヨーク大学での講義にも参加し、共産主義思想を深化させた。

 

彼女は、この頃、インド民族派の闘士ララ・ラジパット・ライのインド独立運動に参加した。 第一次世界大戦の最中だったこともあり、ドイツはインド独立運動を利用した英国弱体化を謀っていた。 ドイツがニューヨーク市を拠点にインド独立運動を指揮するライに資金提供していたのは知れが理由である。

 

米国は一九一七年四月、英国の側に立って大陸の戦いに介入した。 それだけに、ドイツの工作活動に敏感になっていた。スメドレーが支援していた組織(Friends of Freedom for India)はドイツから工作資金を受け取っていた疑いをかけられた。 彼女も逮捕されたが幸いにも不起訴となった。 ただ、組織の連絡網や組織内暗号符号を自宅に隠し、工作活動に関与していたことは確かだった(一九一八年)。  逮捕の翌年(一九一九年)、米国の資本主義に絶望しベルリンに移った。

 

ベルリンでも共産党系のインド独立運動に関わり、同地の指導者(Virendranath Chattopadhyaya)と事実婚状態となった。 ベルリン大学で英語を教えるかたわら、同大学のアジア文化研究講座を受講した。 この頃から複数の雑誌に寄稿を始め、モスクワに頻繁に旅した。 ベルリン時代には鬱病に悩み、病克服のために自己心理分析を始めた。 それが自伝的小説『 大地の娘(Daughter of Eath)』となった(一九二九年)。

 

小説執筆活動が功を奏したのか、彼女は強く生きることを決意したようだ。 一九二八年にはモスクワから、満州・北京・南京経由で上海に入り(一九二九年五月)、再び湧いてきた活力を武器に中国各地を旅した。  本来はインドに行きたかったが、英国の妨害があり、中国行を決めた。 言うまでもなく、コミンテルンの組織の手引きがあった。上海では地下に潜る中国共産党活動家と交流した。 

 

上海では前年の四月、蒋介石による共産党弾圧があり、中国共産党員らは地下で活動していた時期である。 彼女はモスクワで、地下共産党員支援を始動されていたようだ。 彼女が上海警察の情報を探ったのはそのためであろう。中国へ旅立つ前、彼女はリベラル系の独紙フランクフルター・ツアイトウングと特派員契約を結んでいた。

同紙との関係は一九三〇年には切れるが、西洋ジャーナリストとしての立場を利用するのに役立った。 彼女の中国の第一印象はネガティブだった。

 

本で読んだヨーロッパ中世の世界を現実に見ているような感覚であった。 同時に、自身の育った荒くれた米国西部の開拓村を思い出させた。 しかし、彼女はそれを素直に伝えるジャーナリストではなかった。

貧しい中国の民に同情し、彼らを共産主義社会建設の希望に燃える生き生きとした生活者として描いて西欧社会に伝えた。

自身の生い立ちが生んだ資本主義への恨み(ルサンチマン)が、彼女の『報道』であった。

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0ca79bdb97a935f6072417e5ead77af6


に続く