若狭の美浜へ向かう。
敦賀半島の美浜側の付け根、菅浜などよりよほど手前となる北田という集落に入る。
ここに齊藤実盛が立てた供養塔があるという。ただ、ここで実盛が立てたというよりも、元鯖江市にあった寺がここへ移り、供養塔も移ったらしい。笏谷石の塔だが、標示も何もないのでさっぱりわからない。だがどうやらこれらしい。
寺は北田泰蔵院というはずだが、寺号を示すものも何もない。建物は結構新しい。
振り返ると海が見え、いいところではある。
源頼政が耳川からから拾い上げた観音像を祀ったという寺があるはずなのだが、どうもさっぱりわからない。
海岸近くに天王山という小高い山がある。てっぺんに大きな防災無線のアンテナが立っている。この山の南西のふもとであるらしいのだが、この山の周囲ぐるりと鉄条網が張ってあり、登山道には柵がある。動物除けの柵ではなく、鍵のかかった柵だ。建物らしいものが山の木の陰から見えないこともないのだが。北側へ回ると登り口があったので行けるかと思ったが、それは神社までで、その上はふさがれている。
美浜町歴史文化館の学芸員らしい人に寺の名を言って聞いたのだが、どうも知らないようで、何か地図を出してはくれたが、その地図の示す場所に寺の無いのは確かだった。
美浜町歴史文化館はまだ新しいのか、ネットで電話番号を確認し、ナビへ入れたのだが、全然違う公民館についてしまった。ようやくたどり着く。ここの目玉は興道寺廃寺という7世紀後半の寺跡の発掘調査の成果だった。金堂・講堂・三重塔のある立派なものだ。耳分氏という豪族が建立したようだ。耳分氏は平城宮出土の木簡にも見え、塩を貢納していた。
彌美神社へ行く。改装中で立派な堂宇を建設中のように見える。
寺は滅んでも神社の方は生き残るのだな。
田烏まで足を延ばす。若狭町だとばかり思っていたら、小浜市に入っていたのだった。
かなり大きいい神社がある。天満宮だが狛犬の台座に彫られているのは「海上安全」
深い湾口の中のさらに入り組んだ湾、良港である。ここは鎌倉時代、北条氏が押さえていた。北条の三つ鱗の紋の入った幟をなびかせた船が出入りする。この幟は田烏の旧家から出た。
幟と地図は「図説 福井県史」による。https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B04/B042.htm
集落の上を走る道路には沖の石橋が架かる。
「潮干に見えね沖の石の」の沖の石である。この近くに宮川保がある。平家物語第4巻「鵺」の最後に頼政は鵺を退治し、丹波の五ケ荘、若狭小浜の東の宮川を知行したとある。鵺話はともかく、頼政が宮川に関係があったのは確からしく、娘二条院讃岐が相続したらしい。
田烏
田烏集落
田烏の西隣の集落、矢代へ行く。ここも港だが、田烏よりは小さい。
矢代
福寿寺という寺のようなものがあり、そこに掲示されていたものが面白かった。
変わったお祭りがあるらしいが、矢代という地名由来が頼政の鵺退治に引っ掛けた話になっている。物語は語り継がれ、事実であったとして新たな伝承が伝えられていく。
沖の石までのクルーズがあるようだ。
賀茂神社の鳥居から30メートルほど前に大正時代に建てられた道標があった。非常に読みにくいが、右宮川大谷 真ん中には小濱郵便局、左田烏、と読めるようだ。小浜に合併前は宮川村と云うのがあったようだ。