平家物語第9巻の「一二之懸」は熊谷次郎直実父子と平山武者所季重との先陣争いだが、宇治川の合戦での佐々木高綱vs梶原景季の名馬イケヅキ・スルスミを駆っての先陣争いに比べれば、まず絵にならない。若武者二人の争いに比べれば、ともに保元平治の乱に加わったことが自慢のおっさん同士、しかも言動は如何にも田舎武者なのだ。それだけに何とか手柄を立てたい心情はまさに切なるものがある。熊谷直実は「敦盛最期」で人口に膾炙しているが、平山季重の方は印象に残りにくい。 神戸市須磨寺の源平の庭 右が熊谷直実・左平敦盛騎馬像
しかし、日野市では平山の地名も残り、平山季重ふれあい館なる建物もあった。図書館であり、関係図書も収集しているようだ。
平山季重館跡の碑、後ろに見えるのが平山城址
平家を西海に追った義仲に対し、鎌倉の頼朝は大軍をだす。大手は範頼、搦め手は義経、付き従う侍たちの名が数多く挙げられる。範頼手勢に熊谷直実、義経手勢に平山武者所が挙がっている。
義仲は粟津に敗死し、鎌倉軍は平家と対峙、「三草勢揃」では九郎御曹司義経の配下に、熊谷次郎直実・子息の小次郎直家・平山武者所季重と続けて挙がっている。ここでは侍大将土肥実平以下三浦・畠山・和田・佐々木など鎌倉幕府草創時の主要メンバーが名を連ね、その中に熊谷・平山もあるのだった。その後に伊勢三郎・佐藤兄弟・弁慶など義経の郎党が出てくる。
三草山の合戦モニュメント
三草合戦は平家の油断を見すました源氏の勝利、その後、義経は土肥実平以下7000人を西の手へ回す。義経自身は3000の兵で鵯から一気に平家を襲う作戦をとる。
この鵯越は古来議論のあるところで、実態はよくわからない。実働したのは平家物語では影も見えぬ摂津源氏多田行綱だった可能性が高い。
ここで熊谷・平山・成田などという連中はこれでは手柄が立てられないと、土肥の更に前を行こうとする。この辺り、華々しい活躍にもかかわらず、義経が東国武士団を掌握しきれてない有様も露呈し、それも興味深いが、熊谷・平山の言動も面白い。
まず平山は、不案内の山道にどうすべきかを迷う義経に「季重こそ案内は知って候へ」と申し出るのである。東国育ちのお前に初めての山中の道がわかるものか、と義経は一蹴する。季重は、歌人は吉野や初瀬の桜を知るように、強者は敵の後ろ山を知るものだとか、と言っているのだが、本当に案内しろと言われたらどうするつもりだったのか。
熊谷は息子と、この鵯越作戦では先陣の手柄を得るのは難しいと、土肥実平の西からの攻め手に回ることを相談する。もちろん御大将の義経に願って配置を替えてもらおうというのではない。こっそり陣を抜けて行くのである。
熊谷は平山も同じことを考えているだろうと思い、下人に偵察に行かせる。
果たして平山も抜け駆けの用意をしている。「誰にも引けは取らないぞ」などと言っている。
熊谷直実も平山季重も、保元・平治の乱でともに義朝の手勢として参戦している。保元物語の上巻「21 天皇方軍勢、発向」で武蔵の軍勢として、熊谷次郎直実が見える。平山六二というものも見えるのだが平山季重かどうかはわからない。平治物語では待賢門で重盛と戦う悪源太義平に従う17騎の内に平山武者所季重がいる。さらに六波羅で後藤兵衛と共に戦う平山は季重であろうか。(共に角川ソフィア文庫)
寿永3(1184)年の一の谷合戦に熊谷は十代の息子を連れてきている。1156年と1159年の保元・平治は20年前どころか30年前近くになる。その頃直実はいいとこ20歳の若武者だっただろうか。熊谷と平山は互いにライバル視しているので同年輩だろう。熊谷に比べ平山の活躍は物語の世界とはいえ、若党としては目立つものだったのか。平治の乱で機知を見せる斎藤実盛はずっと年上だったのだろう。その実盛は既に倶利伽羅合戦に続く篠原合戦で、義仲の手のものに討ち取られている。
平治の乱後、武蔵は平家の知行国になったらしい。知盛が武蔵の守になり一門の支配が続く。武蔵の武士団は皆平家に従い、石橋山合戦の時点ではほとんど頼朝の味方はいない。斎藤実盛は特に平重盛の小松家と深いかかわりがあったらしいし、武士団ごとに個々の事情があったのだろう。
抜け駆けの準備をする平山の脇で下人が馬に飼い葉をやっている。下人は早く休みたいのか、馬がのろのろ食べるのを嫌がり、罵る。平山は下人をたしなめ、「其の馬のなごりもこよひばかりぞ」という。戦は人が死ぬばかりではない。馬もまた命懸けだ。大事にしている馬もこの一戦に矢が乱れ飛ぶ中に走らせねばならない。
ところで、馬というものはなかなか賢く、人を乗せるのを嫌い、ぐずぐずいう馬もいるそうだ。昔の荷馬も食事をすると仕事をしなければならないからぐずぐずする。雨が降ると出かけなくていいから喜んで餌を喰う。厩の屋根から水を滴らせ、雨と思わせ馬が安心して食べたところで仕事に引き出す、そんな話もあったようだ。平山の馬も、何かを察知していたのかもしれない。
この戦で平山季重の乗った馬は「目糟毛」というきこゆる名馬だったとか。熊谷直実の馬は「ごんた栗毛」というこれもきこゆる名馬、互いに大枚をはたいて求めた自慢の馬に乗っている。「目糟毛」が無事帰れたかどうかはわからないが、「ごんた栗毛」はふと腹を射られて飛び跳ねる。熊谷は素早く飛び降りた。後には替え馬に乗っている。「ごんた栗毛」は死んだのだろうか。
肝心の先陣はどうなったのか。
熊谷父子が一の谷に着いたのはまだ夜中、「いまだ夜ふかかりければ」土肥の7000騎の脇を闇に紛れて打ち過ぎる。平家の陣も静かだ。先駆けを企むのは我らだけとは限らない、一つ名乗っておこう、と父子は大音声に名乗りを上げる。しかし平家は誰も出てこず、相手をしようとするものもない。
そこへ平山が現れる。成田五郎に騙され出遅れた、などという。(成田五郎も保元物語の義朝の手勢の内に名が見える)成田は先駆けは味方を後ろに置き、人に知られてこそのもの、一騎駆け入っても何もならない、といったという。それも先陣争いの考え方だろう。しかし、成田は平山を置いて先へ行こうとする。怒った平山はよい馬に乗っているのを幸い、成田を置いて駆け付けたのだった。
熊谷父子は再び名乗る。ここで平家も木戸を開け、「夜もすがら名乗る熊谷親子ひっさげん」とて、越中次郎盛嗣・悪七兵衛景清など錚々たる平家の侍大将が出てくる。平山も名乗り、熊谷・平山競い合って攻め入る。
「熊谷さきによせたれど、きどをひらかねばかけ入らず、平山後によせたれど、木戸を開けたりければかけ入りぬ。さてこそ熊谷・平山が一二のかけをばあらそひにけれ。」
ただここまで、平家は本気で反撃しているように見えない。軍律違反の抜け駆けも、戦功があればともかくあまり効果的だったように見えない。
続く「二度之懸」で、成田五郎に次いで土肥次郎以下の軍勢が攻め込み、本格的戦闘となる。
平山氏は武蔵7党と呼ばれる武士団の内、西党(日奉氏)に属する。熊谷は私市党である。
以下平山季重ふれあい館の展示パネル