古事記のヤマトタケルはとても魅力的な神話の英雄譚なのだが、もし何らかの史実の反映、実在の人物を幾分なりとも映しているとしたら、モデルの一人は倭王武のワカタケル、雄略と送り名された大王だろう。
イズモタケルを討つ話は、従弟のイチベノオシハを騙して殺す話を思い起こさせる。東征譚は、倭王武(雄略)の上表文を思わせる。そして「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の話は、歌物語の多いワカタケルの物語にあっても不思議はないと感じる。
ヤマトタケルの東征譚は地図を追おうとすると混乱する。行きはまだいい、尾張を立ち、焼津・相模・走水とだいたい追える。走水から船に乗る。相模で知り合ったらしいオトタチバナヒメの入水があって、着いたところはどこだろう? 走水(三浦半島)から房総半島へ渡ったのだろうか。タチバナヒメの櫛を拾って墓を作ったのは橘樹神社(千葉県茂原市)となっているらしい。
そこからはさらに茫漠として、ただ荒ぶる蝦夷を言向け、山河の荒ぶる神等をおとなしくさせ帰路に就いたらしいのである。房総半島を北上し、日立まで行ったらしいのは「新治筑波を過ぎて 」の歌があるからだけで、蝦夷や山河の神を従えたエピソードのようなものはない。足柄の坂本というから足柄山の麓だろうか、で坂の神をちょっとやっつけ坂の上で「吾妻」の地名発生説話があり、そこから甲斐の酒折宮へ行くのである。日本書紀だともっと違うルートになるのだが。
酒折の地名も単に坂が折り重なって登って行くところと解釈すれば、酒折に限ることもないと思うが、何故甲斐に回ったのか。次に信濃の坂の神を服従させて尾張に戻ったとあるので、信濃に行くために甲斐に入ったということか。
ともあれ、酒折で火の番の老人との問答歌になる。
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
「日々並て 夜には九夜 日には十日を」
連歌のはじめかどうかなんてことは知らない。
この老人はずっと付き従ってきたのだろうか、まつろわぬものを平定する旅だ。軍を率いていたのだろう。火の番の老人は飯炊き係でもあったろうか。タケルはそばに仕えるこの老人の賢さを知っていた。だからこの歌は彼にチャンスを与えるためのもの、でなくて東の国造などにするものか。
仮に筑波山から酒折宮まで、足柄経由で地図を測る。250キロくらいか。江戸時代の旅の行程は一日8里、32キロだ。だとすると7泊8日程度のだが、途中悪天候や渡岸・宿泊の都合もあろうから、9泊10日は上等だろう。もし5世紀のワカタケルの時代の反映なら馬はあったろうが、全員ではないだろう、件の老人は徒歩だろう。 酒折神社
新治筑波を過ぎて・・の歌碑
本居宣長の碑 彼はここへ来たのだろうか