ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

後記:刺青のあるホームレス

2018-09-10 | アメリカ事情

 

 http://www.mydrivewithpride.com

 

 

 

 

これは、9月8日のブログ記事、刺青のあるホームレス、の後記である。


この話は、ケイ・アレンボウの著書、Chocolate for a Woman's Courage: 77 Stories That Honor Your Strength and Wisdom、という本から、訳したものである。この話を夫に話した。すると、ふいに涙がこみあげてきて、やっとのことでどういう結末に至ったのかを話し終えることができたのだった。


私達が利用するコスコへ行く途中、ホームレスの人々が、2,3人たむろしている街角がある。疲れ切ったその人々の顔は、汚れているし、掲げているカードボードサインには、空腹であることが書かれている。ちょうどその人々のいるところが、赤信号ならば、車を止められるが、青信号でそのまま進行してしまうことが多い。そんな時、私は、いつも罪悪感を感じ、この次は、必ずファースト・フード・チェーン店の前払い食券ブックを用意しなきゃ、と思う。


この話を読んだことを夫に話し、この次は私達の番、是非できることを支度しておこう、と計画したその翌日のことである。


夫は、その日ふとKFCの箱入りのランチにしようか、と珍しく思い、最寄のKFC店へ行った。店内は、空いていてスムーズにランチと飲み物を買えた。それらを持って、オフィスへ戻ろうと外へ出た所で、一人の黒人の御婦人が近づいてきた。ホームレスのように疲れ切っている様相の彼女は、夫に、「私は長い間何も食べていないので、とても空腹なんです。いいえ、お金はいりません。もしよかったら、あなたのランチを少しお分けいただけますか?」と尋ねた。


夫は、咄嗟に持っていた開けていない箱入りランチと、口をつけていない飲み物を両方、彼女に差し出すと、彼女は、「まあ、全部とは言いません、少しでよろしいのです。」と言い、受け取ろうとしなかった。夫は、「大丈夫ですよ、全部あなたの物です。まだ口をつけてもいませんよ。どうぞお召し上がり下さい。」と促した。それでもこの御婦人は非常に遠慮していたが、ようやく「本当にありがとうございます。とても喉が渇いておりますし、空腹なので、うれしいです。感謝致します。」と丁寧にお礼を言って、受け取った。そして「あなたのランチ、今度はドライブ・スルーでお買いくださいね。」と言った。


夫は車に乗り込み、ドライブ・スルーの列についた。そして同じランチを購入し、きっとあの御婦人が、この近くで食事しているに違いない、と思い、木陰やバス停のベンチを見たが、見当たらなかった、と言う。ものの5分も経ってはいなかったらしい。


その晩、夫は、「君がきっと喜ぶと思う。」と、昼間起こったことを話し始めた。私は、そのタイミングに驚き、又、その御婦人が「お金はいらない」とはっきり最初にお断りになったことから、「彼女は本当に空腹で、正直な方なのに違いないわ。」と言った。夫が、5分後にあたりを見回しても、どこにも彼女が見当たらなかったし、道を歩いているわけでもなかったことから、「もしかしたら、『どなた』かが、あなたを『お試し』になったのかもしれないわね。」と言った。「あなたのその御婦人に対する反応は、とても私は、うれしく思うし、どうもありがとうと、私も言うわ。」と付け加えた。夫がそういう機会を与えられて、私が望むように反応したのが、本当にうれしかったのだ。 さて今度は私の番。仕事からの帰宅途中、前払い食券ブックを購入することにした。


 

http://247moms.com

「主の恵み、人にも分かたん」

 

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刺青のあるホームレス

2018-09-08 | アメリカ事情

Pinterestから

 

 

 

 

彼は怖そうに見えた。両腕の上から下、そして首に刺青があり、ダンボールに書いた表示を掲げながら、彼の犬(実際にはこの犬は愛らしい)と芝生に座っていた。彼の「看板」には、「(生活に)行き詰まり、空腹ですので、どうぞお助けください」と明示してあった。


私は助けを必要とするならば無我夢中で助けたい、と思う人間である。私の夫も私も、この私の性癖を好みもするし、また厭(いと)いもする。その性癖は、しばしば夫を神経質にさせる。もし彼が、今、私を見たら、きっととてもびくびくするだろうと思えた。しかし、夫は、たった今、私と一緒ではなかった。


私は(運転していた)バンを歩道際に寄せて、リアビューミラー(バックミラー)で、この男、その刺青などをじっくり見た。彼は若く、おそらく四十歳ほどだろうか。バイカーや海賊スタイルのバンダナを頭に縛っていた。誰の目にも、彼は汚れていて、ひどくもじゃもじゃの髭をしていた。けれど、よく見てみると、彼は黒いTシャツをしっかりズボンにたくしいれているし、持ち物を小さく小ぎれいにまとめているのがわかった。誰も彼のために止まりはしていなかった。私は(通りがかる車を運転している)人々が彼に一瞥はくれても、すぐに何か他のものに焦点を当てているかのように、視線をそらすのが見て取れた。


それはとても暑い日だった。私はその男のとても青い瞳に、彼がいかに落ち込んで、疲れて果てているかを感じることができた。汗が彼の顔に滴っていた。私がエアコンディショナーのよく効いた車内に座っていると、突然、聖書の一節が私の頭の中に浮かんだ。 「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」[マタイ伝25章40節]


私はハンドバッグに手を伸ばし、その中から十ドル札を取り出した。私は、我が子達を連れていたが、そのうちの12歳の息子、ニックは、すぐに私が何をしようとしているのかわかった。 「ママ、僕があの人に渡してもいい?」


「気をつけてよ」と、私は息子に注意し、その十ドル札を渡した。私はバックミラーで息子が、男の方へ急いで行き、はにかんだ笑顔でお札を渡したのを見た。私は、驚いた男が起立して、お金を受け取り、バックポケットに入れているのを見た。 「良いわ、」私は自分自身に心の中でつぶやいた、「彼は少なくとも今夜は温かい食事ができるわ。」私は自分自身を誇りに思い、自分に満足していた。そしてちょっとした犠牲を払ったし、今から用事を済ませに行こう、と。


ニックが車に戻ったとき、息子は悲し気な、嘆願している目で私を見た。 「お母さん、犬はとても暑さにまいっているみたいだよ、そして、あの男の人は、本当にいい人だよ。」 もっとやらなければならないことを私はわかっていた。


「彼のところへ戻って行って、そこにいてもらって。私たちは15分後に戻ってくるからって。」と私はニックに言った。ニックは車外に出て、刺青のある見知らぬ男に話すためにもう一度走って行った。私は、その男が驚いていたが、同意するべくうなずいたのを見た。車の中で、私の心は少し興奮してドキドキとしていた。


私たちは、最寄りの店へ車で向かい、贈るものを慎重に選んだ。 「あまり重いのはダメよ、」と子供達に説明した。 「彼が持ち歩けなければならないのよ。」 最終的に私たちの購入すべきものは、決まった。一袋の「Ol 'Roy」[アメリカのドッグフードの一つ] (それがいいと願ったのは、 私が食べるのに十分に見えたくらいだから、犬ならば絶対大好きだろうと思ったからである! どうやって製造会社はドッグフードを魅惑的に見せるのだろうか?)、骨のように形作られ、味付けされた、犬の噛むおもちゃ。水用の皿、犬用のベーコン風味のスナック、水2瓶(犬用に、そしてミスター刺青用に)、そして人間用のいくつかのスナック。


私たちは彼に待ってもらっている場所に急いで戻った。彼はそこでまだ待っていた。それでも、誰も彼のために止まりはしていなかった。手を振って、私はいくつかの買った物の入ったバッグをつかんで車から出て、その後にそれぞれ贈り物を抱えた子供達が続いた。彼の方へ歩いていくうちに、私は、ふと恐怖を覚え、彼が、連続殺人犯ではないように、と願った。


彼の目を見て、私は、自分の先ほどの懸念を恥ずかしく思わせるものが、そこにあるのに驚いた。私は涙を見たのだ。彼は小さな男の子のように、あふれる涙を必死に堪えようとしていた。最後に誰かが彼に親切を見せたのは、一体いつだったのだろうか。私は、贈り物が、彼が歩くのに重すぎはしなければよいが、と言いながら、買って来た物を見せた。彼はまるでクリスマスの時の子供のように、そこに立っていた。私は、自分の小さな貢献が、とても不十分であるように感じた。犬の水用の皿を取り出して見せると、彼はすぐさま、それを手にして、まるでそれが純金製かのように扱った。今までどうやって犬に水を与えるか、方法がなかった、と言った。彼は極めて慎重にその皿を地面に置き、私たちが持ってきたボトルの水で満たし、立ち上がって私の目をまっすぐに見た。彼の瞳は、とても青くて、とても眼光爛々としていたので、私自身の目は、みるみる涙であふれた。「奥様、私は何を言わなければならないのか分からないんです。」彼は両手をバンダナにまかれている頭の上に置き、泣き始めた。この男は、この 「恐ろしい」男は、とても穏やかで、とても優しくて、そしてとても謙虚だった。


私は涙にくれながら、微笑んで、「何も言わなくて構わないのよ。」と言った。そして、私は彼の首の刺青に気づいた。それは ”Mama tried."*(ママは試みた―下記*参照)とあった。


私たちは、皆バンに乗り込み、そして運転して去ろうとしていると、彼は地面に膝まずいて、犬をその腕に抱き、鼻にキスをして笑っていた。 明るく手を振って、そして私は、完全にそこで泣き崩れた。


私にはたくさんの物がある。 私の心配は、とても取るに足らないほど些細だ。 私には家、愛する夫、四人のかわいい子供がいる。 私にはベッドがある。 私は彼が今夜どこで寝るのだろうかと考えた。


私の娘のブランディーは私に向かって、優しい小さな女の子らしい声で、「とてもいい気分よ」と言った。


私たちが彼を助けたかのように見えたが、刺青のある人は、私に決して忘れない贈り物をくれた。 彼は、外見がどんなものであっても、一人一人の内には、優しさ、思いやり、受け入れに値する人間性がある、いうことを教えてくれた。 彼は私の心を開いたのだった。


合衆国・ユタ州のスーザン・ファーンキさんの本当にあった話から。



この人は、いつ温かい食事を最後にしたのだろうか。


* ”Mama Tried"の意味

マール・ハガード(Merle Haggard 1937-2016) は、カリフォルニア州のサン・クエンティン州立刑務所で2年9ヶ月服役した。釈放後、更生し、再び犯罪に転じたことはなかった。その代わりに彼はカントリー・ミュージック界で最大のスターの一人となった。

 


ハガードは、そのキャリア初期に、数々の刑務所についての歌を創作して披露したが、その中で一番大きな作品は「ママ・トライド」(Mama Tried)だった。

 


彼の母親が、息子がトラブルを起こさないように、どれだけ苦労してきたか、その真実を伝えるために、マールはこの歌を書いた。マールの父親が脳卒中で亡くなったのは、マールがたった九歳の時だった。それ以来彼の母親は、家族の唯一の稼ぎ手として、仕事に行かなければならなかった。

 


マールは、自分の母親が、野生的と言うには余りある少年を息子に持っていたことを語った。彼の母が、そんな息子を変えたいと、どれだけ苦労し、試してきたか、それでも、何もうまくいかなかった、と彼は言った。マールは、刑務所で服役したことは、彼の人生を通して、自分を変えるために必要だった、と認めていた。

 


"Mama Tried"という曲は、ハガードによって書かれ、録音され、1968年の7月にリリースされた。歌は四週続けて、トップとなり、それが彼の長い歌手としてのキャリアの基礎となった。

 

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刑務所からの助け!

2018-09-06 | アメリカ事情

http://www.true-temper.com

 

 

ある老人はミネソタ州に一人で住んでいた。彼はジャガイモを植えるために、畑を洋鋤で掘り返したかったが、それは重労働だった。彼を助けただろう唯一の息子は、刑務所にいた。老人は息子に手紙を書いて、その状況を述べた:


親愛なる息子、
今年は体調不調な私には、ジャガイモを植えることができそうもない。お前の母さんが、いつも植え付けるのを好んでいたから、それができないのは辛い。私は畑を洋鋤で耕すには、年をとっている。もしお前がここにいたら、こんな私の問題などすぐに終わるだろうに。お前が刑務所にいなければ、畑を掘ってくれただろうと分かっているからな。

愛、
父より

 
まもなく、老人はこの電報を受け取った:「なんてことだ、お父さん、庭を掘ってはいけないよ!! そこは自分が銃類を埋めた場所です!!」

 
翌朝午前4時に、12名のFBI捜査官と地元の警察官が畑にやってきて、畑全体を掘り起こしたが、一丁の銃も見つからなかった。


混乱した老人は何が起こったのかを彼の息子に伝え、何をすべきか、訪ねる手紙を出した。


彼の息子の返事は次のようなものだった。「父さんは畑にジャガイモを植えればいいんだよ。それがここにいる自分が、父さんのためにできる最高のことだよ。」


教訓:たとえあなたが世界のどこにいても、心底なにかを決めたなら、あなたはそれをすることができる。それはどこにあなたがいても変わりはない。願わくば、刑務所以外の場所であるように。


http://koding-kn.blogspot.com

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最後の乗車

2018-09-04 | アメリカ事情

http://www.erinmerrihew.com


二十年前、私はタクシーを運転して生計を立てていた。ある時依頼客があるので地上階の一部屋だけが窓から灯りが漏れている暗い建物に到着した。

 

このような状況下では、多くのドライバーは、一、二回クラクションを鳴らし、一分待って誰もこなければ、そこから離れるものだ。しかし私は唯一の交通手段としてタクシーに頼っている貧しい人々をあまりにも多く見てきたので、状況が危険ではない限り、いつも依頼客のドアまで行った。依頼客は、私の助けを必要とする人かもしれない、と、推論したので、私はドアまで歩き、ノックしたのだ。

 

「ちょっとお待ちになってください。」虚弱な高齢者の声が答えた。

 

私は何かが床を引き摺る音を聞き、しばらくして、やっとドアが開いた。そこには八十歳代の小柄な女性が立っていた。彼女は一九四十年代の映画に出てくるような、プリントドレスを着て、ベールが付いたピルボックス型の帽子を被っていた。彼女の傍には小さなナイロン製のスーツケースがあった。

 

アパートは誰も何年も住んでいないかのように見えた。すべての家具はシーツで覆われていた。壁には時計はなく、カウンターには装飾品や台所用品の類は一切なかった。隅には、写真とガラス製品が詰められていっぱいになった段ボール箱があった。

 

「このスーツケースを車に運んでいただけますか?」彼女は言った。私はスーツケースをタクシーに持っていき、彼女を助けるために戻った。彼女は私の腕を取り、私たちは歩道の縁石に向かってゆっくりと歩いた。彼女は私に何度も礼を言い続けた。

 

「なんでもないことですよ」と私は彼女に言った。「私は、自分の母親が他人にこう扱われてほしいと思うように私のお客さんを扱うようにしているだけですよ。」

 

「ああ、あなたはとてもいい子ですよ」と彼女は言った。タクシーに乗ったとき、彼女は私に行先の住所をくれた。そして、「ダウンタウンを抜けるように運転することができますか?」

 

「最短最速の方法ではないですが」と私はすぐに答えた。

 

「それは気にしません」と彼女は言った。 「私は急ぐ身ではないの。ホスピスに入るために行く途中ですもの。」

 

私はリアビューミラーを見た。彼女の目は輝いていた。

 

「もう私の家族は一人も残っていないの」と彼女は続けた。 「医師は、私はもうあまり長くないと言っています。」

 

私は静かにメーターに手を伸ばし、それを止めた。 「どのようなルートをお取りしましょうか?」と私は尋ねた。

 

それから二時間ほど、私たちは街中を運転した。彼女はかつてエレベーターオペレーターとして働いていた建物を私に見せてくれ、彼女と彼女の夫が新婚だったときに住んでいた地区を運転した。彼女が若い頃、ダンスをしに行ったダンスホールだったという家具倉庫の前で私に、しばし車を寄せてくれまいかと言った。


時折、彼女は特定の建物や街角をゆっくり運転するように、頼み、後は何も言わずに、暗闇の中を見つめて座っていた。

朝日が地平線をおし広げてるように東の空が明るくなり始めると、彼女は突然「疲れてしまったわ。さあ、もう行きましょう。」と言った。


私は私にくれていたアドレスへ静かに運転していった。


そこは低い建物で、小さな病院のようでもあり、破風付きの玄関があった。車をそこへ寄せるとすぐに、二人の当直医務係が待ちあぐねていたかのように小走りに迎えに出た。彼らは、彼女のあらゆる動きを心配気に見守っていた。彼らは彼女がやってくるのをずっと待っていたに違いない。私はトランクを開けて小さなスーツケースをドアまで持っていった。年老いた女性はすでに車椅子に座っていた。


「お支払いはいかほどでしょうか?」と彼女は私に尋ね、彼女の財布に手を伸ばした。

「何もございませんよ。」と私は言った。

「あなたには生活がありますでしょうに。」と彼女は答えた。

「他に乗客がいますよ。」


ほとんど思考せずに、私はかがんで彼女を抱擁をした。彼女は私をしっかりと抱きしめた。

「あなたはこの老人に少しでも喜びを与えてくださいました」と彼女は言った。「ありがとうございました。」


私は彼女に握手をし、開けてゆく朝の光の中を車へ戻った。私の背後で、ドアが閉まった。それは一つの人生の扉が閉まったような音だった。


私はそのシフトで、他の乗客を拾わなかった。無意識のうちに運転し、思考を失った。その日は残りの時間、ほとんど話すことができなかった。もしあの女性をせっかちな運転手が迎えに来た場合、あるいは早くシフトを終わらせることに気をとられていた運転手だったら、どうなっていただろうか? もし私が走行を拒否した場合、あるいは、クラクションをただ一度だけならして、誰も出てこないと、走り去っていたら、どうなっていただろうか。ざっと考えてみても、私は自分の人生でたいへんに重要なことをしたとは思わない。我々は、人生が素晴らしい瞬間を中心に動いていると、考えるように条件づけられている。しかし、すばらしい瞬間はなにも期待せず心も用意していない時に起こる。他の人が、たかが小さなことだと見過ごすことが、実は美しい衣をまとっているのに気が付かないのだ。


ーーケント・ネルン氏に伺った真実の話。


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失くした時計

2018-09-02 | わたしの思い

 http://www.carriageshed.com

 

 

 

納屋で時計をなくしたことに気づいた農夫がいた。彼にとっては、思い入れのある感傷的な価値があったので、ただの普通の時計ではなかった。


長い時間をかけて、干し草の山をかき分けて、あちらこちらを探したが、見つからず、あきらめて、納屋の外で遊ぶ子供たちの助けを得ることにした。


彼はそれを見つけた子供には報酬が与えられると約束した。


子供たちは、急いで納屋の中にはいり、干し草の積み重ねられたところ全体を回ったが、それでも時計を見つけられなかった。農夫がその時計を諦めしかないか、と思った時、ある小さな男の子が傍に来て、もう一度探させてくれないか、と頼んだ。


農夫は彼を見て考えた。「もう一度、いいじゃないか、この子供は十分に誠実そうだし。」


農夫は小さな男の子を納屋に戻した。しばらくすると、小さな男の子は時計を手にして出てきたではないか! 農夫は嬉しさと驚きで、他の子供達ができなかったことをどうやって成功したのか、小さな男の子に聞いた。



その子は答えた、「僕は特別に何もしなかったんだ。ただ地面に座って耳をすませたの。しーんとした納屋の中で、僕は、時計のチクタクの音を聞いて、その方向で見つけたんだよ。」


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*****



平和な気持ちは、興奮して落ち着かない気持ちよりも、よくものを考えさせてくれる。毎日あなたの心や気持ちに何分かの沈黙を許し、それがどう人生をほぼ期待どおりに設定するのに役立つかを見てみることである。

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