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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

これから

2021-05-28 | アメリカ事情

Photo: health.harvard.edu

 

 

今週のある朝、別の部署の職員からメイルがあった。それには私が処理する書類への質問で、最後に私に電話をかけても、すぐにヴォイスメイルに行ってしまう、と書いてあった。来月6月半ばまで、カリフォルニア州職員は、リモートワーク、三日オフィスワークであとはリモート、あるいは私の様に週5日半日朝時間オフィス勤務、午後はリモートなどなど各職員によって勤務時間・勤務場所が異なる。私は早速返事に、その理由と無礼のお詫びを書いた。そして付け足しにこう書いた。

「この一年やりにくいことが多く、学生にも職員にも不満やる方ないことでしたが、ワクチン接種もアメリカ国民成人の半数以上が少なくとも第一回目を終え、その数字は日々更新され、さらに12歳以上の青少年の接種も始まり、もうすぐカリフォルニア州は、正常生活・正常勤務・正常授業に戻れると言う希望があります。ロックダウンやリモートワークが始まってすぐに導入されたDocuSign(アプリケイションで、数人の署名が必要なフォームや書類を電子メイルの様に処理する)のやり方を万人が心得て間違いがない筈なのに、毎日たくさん不備な書類が送られてくるもどかしさや苛立ち、一年以上も同僚の顔さえ見ていない、孤立が進む、などの不満は、おそらく次々に解消されていくでしょう。思えば、多くの職員・学生・教授、あなたや私、不自由な中頑張ってきましたよね。あなたも私も罹患せず、元気で働いてきて、それは本当に祝福としか言いようがありません。トンネルの向こうには明かりが見えています。もう少しだけ、頑張ってお互いに対面でお話しできることを願っています。」

パンデミックは、100年ちょっと前の様に、突然来て、世界中を混乱させてきたが、それもやがておそらく今年の終わりには去りつつある。例え今現在インドが苦悩し、戦いの日々が過ぎていくとしても、ワクチンが万人にやがて行き渡り、歴史の教科書に、このパンデミックも去っていった、と記される日もそう遠くではない。

幼い頃、弟と共にジュール・ベルヌの冒険物語、「十五少年漂流記」を読んだ。孤島漂着物と呼ばれる物語で、数々の少年たちの冒険や知恵に驚き、感動し、また仲違いがあったときはドキドキしたものだった。波乱万丈でも知恵を出し合い、勇気を持っての孤島生活の果てに少年たちは救出され、文明社会に戻る。

同じ孤島漂着物語で「十五少年漂流記」とは全く逆の結果を持ったのは、英国人ウイリアム・ゴールデイングの書いたLord of the Flies(邦題:「蠅の王」)である。これはアメリカの中高生の課題図書だが、この結末は、ジュール・ベルヌに比べて、まさに天と地である。孤島での生活が長引くにつれ、権力争い、果ては殺人まで犯す少年たちの話である。

この「蠅の王」を彷彿させる出来事は、このたった一年余りであまりに多くのニュース種になっている。自分自身を含めた人々の命を感染病から守るために作られた多くの規制の中で、うまく順応できず、ロックダウンと言う形で自由を奪われた挙句に失職して、蓄積された鬱憤を直情怪行な暴力で晴らすのがほぼ当たり前になったアメリカの国情。

これを書きながら、否が応でも、サンノゼでの銃撃事件の報道が耳に入ってくる。アメリカには山ほどの銃規制はあるが、そのどれ一つもきちんと働いていない絶望感は否めない。それは銃規制だけでは銃撃事件は、決して予防できず、また解決できないからではないだろうか。アメリカ人の多くは人知れず心を病み、精神衛生のきちんとした理解や、手当てや治療や相談さえも蔑ろにしてきたことも大きな理由の一つではないだろうか。柔和な気持ちで人との違いを差別するのではなく理解する知恵が失われてしまっている。

運転する自分の車を追い抜いていくことに、怒りを持ち、その先行車を標的にして銃を撃つことも本当に嘆かわしい。これは日本でも煽り運転などと言われて同様の嫌がらせがあると聞く。これはパンデミック以前から頻繁に起こっていたが、昨今はだんだんとエスカレートしていっているように見える。

こうした事件を知るたびに、この人たちはどう言う育ち方をしたら、全くの他人を仮想敵に即時に仕立てられるのだろうかと思う。私はララランド(お花畑心境)に生まれ育ったわけではないが、物心つくかつかないかで、父母は「人の嫌がることはしない」「親切は自分から」などとことあるごとに子供である姉や弟や私に言ってきた。それは親の道徳の押し付けではなく、家族との食事や、拭き掃除などをしている時、あるいは散歩の時などに、両親は何気なくそう言い、「そうすると気持ちのいい毎日になるものだ」と付け加えた。押し付けられたことは一つもなかった。

朝起きて、外を見て、「今日は自分からどうやって親切ができるだろう?」とか、「人の嫌がることを一切しない日にしよう」などと思っていた私や姉や弟は、ただひたすらおめでたいだけだったのかも知れないが。

それでもこのパンデミックの渦中で、知己か否かに関わらず、誰でも同じ窮屈さと不便さと伝染病への怖れとを懸命に戦ってきた言わば「戦友」なのだから、例え一期一会としても、今日あるいはこれから会う方々に、心を尽くしたいと思う私である。良い日は自分から始まるものだ。こんなところでいつも父母の言ってきたことを思い出している私がいる。

 

”In the end,

Only kindness matters."

「最終的に、親切だけが重要である。」

 

 


心は錦

2021-05-26 | アメリカ事情

aeharley.com

 

 

 

 

友人のロンダは先週のある日、仕事から家に帰る途中に起こったことを話してくれた。

彼女の後ろにハーレーデイヴィッドソンに乗っている男がいた。彼女は、高速道路を降りて家に向かうまで、何も考えなかったが、ハーレーデイヴィッドソンの彼も同じランプで降りたのに気づいた。彼女が別の通りに抜けると、彼もついてきた。

彼女が自宅への道に乗り入れたとき、彼も又そこでも後ろにいた。彼女が自宅への私道へ入ると、彼は彼女の自宅前の通りにバイクを寄せた。彼女はその時かなり怖かった、と言う。

全身バイカーらしい男に、何なんだろうかと不安になり思わず構えた友人のところへ彼は歩いてきた。彼は、彼女の車の方向指示器が機能していませんよ、と言った。彼は高速道路で、その欠陥に気がつき、心配して、彼女が目的地に着いたことを確認し、その問題について知ってもらいたかったと言った。

友人は彼の親切に感謝し、彼はバイクに乗り、走り去った。その日、友人は人をすぐに判断しないという重要な教訓を学んだのだった。

一見荒くれバイカー風に見えたかもしれないが、彼は金の心を持っている人だったのだ。

その話を聞いて、私はアリゾナに住んでいた時分に知り合ったある友人のことを思い出した。弁護士で、妻や子供たちを心から愛し、どんな人にも親切で優しい方だった。その彼の趣味はハーレーに乗ることで、バイク仲間とあちらこちら走ることが大好きだった。そのお仲間も、荒くれ者などではなく、友人同様に士業につく、紳士的かつ親切心に溢れた方々だった。

その彼は、ある日引退前最後の離婚裁判の判決がくだって、法廷で書類を鞄に収め、帰宅の支度をしていると、不意に入ってきた男、たった今判決の下った離婚裁判で敗訴した夫が、銃で彼を撃った。即死だった友人は、その男の妻側の弁護をして勝訴したばかりだった。

荒くれ者がバイカーだと思われることも多々あるが、実際はそのアリゾナの友人の様に、金の心(日本語では、心は錦だろうか)を持つ方が多いものだといつも高速道路でハーレーバイカーにすれ違うと、ふと今は亡いあのバイカー弁護士を思い出す。

 

 

 


おめでとうの季節

2021-05-20 | アメリカ事情

The Collegian - File Photo

 

 

今年も卒業シーズンがやってきて、我キャンパスも、先週末無事に終えた。今年度だけではなく、去年の卒業生も加えての学位授与・卒業式となった。卒業生は、学士も修士も博士もそれぞれに感慨深い一年だったことだろう。これは小学校、中学校、高校を卒業する人々にも言える

 

卒業までの道のりは最後の一年で険しい道となったが、それを終えた喜びはひとしお、よく頑張りました!

 

 

思えば昨年2月末頃、パンデミックらしきがパンデミックとなり、非常に慌ただしく教授陣や職員は、Emailに於てカリフォルニア州政府から「お達し」があり、既往症などのある者は、直ちに自宅勤務に入った。それからしばらくしてキャンパスには収容人口の65%だけが実際にオフィス勤務することになり、多くの職員は自宅勤務となった。

最小限数の対面授業になり、多くはオンラインクラスとして、文字通り手探りで教授陣から学生からより良い授業を模索してきたのだった。大学管理運営オフィスのある建物では、即時に特別室が設けられ、そこで学生、教授、職員対象に無料でCovid-19のPCRテストが毎週行われ始めた。ポツポツとキャンパス人口の中から感染者も出始めていた。

一年前は、先の見えぬ暗いトンネルにいきなりこのように閉じ込められ、中共以外の世界では、皆不安を抱え、マスク着用と手指の消毒、頻繁な手洗い、人との接触を避け、そんな最小限のことでしか身を守れないことに鬱々とした日々が始まったのだった。

一年たった今、幸いなことにこの国の多くの人々は2回のワクチン接種を受け終え、このキャンパスでも一気に心の重石が取れ、秋からの対面クラスや、長い間ズームでしか会えなかった仕事仲間や学生、教授陣との再会に、心を踊らせさえしている。最高学府とは言え、コッホやパスツールも卒倒するような非常に原始的な不安をワクチンに持つ恐ろしくVaccine Hesitancy(ワクチン忌避)な人々もいるが、秋の新学年からは、この予防接種は、入学条件に入っている。

およそ学生と呼ばれる5歳から大学院生までの学業の徒は、この一年余、本当に困難な中、たくさんの我慢や不便を持ちながらも、なんとか学業を進め、修学した。そうした学生に対して、私は心からの敬意を表したい。はれて対面で行われた今年の学位授与・卒業式は、去年と今年の卒業生にとって、生涯忘れ得ない物だと思う。多くの制約をこなし、乗り越え、証書を手に取るその喜びは、学生だけではなく、大学職員の私でさえ、目を拭うほどである。社会能力・社交術を習い始めるキンダーガーテンから2年生くらいまでの子供達も、なんとか閉鎖されながらも乗り越えた。大きな拍手と共にこの子供達の将来を願いたい。みんな本当に頑張った。

 

Hooding Ceremony(修士・博士号授与は、恩師や学部長が卒業生にフッドを後ろから首にかける儀式)教育学博士となる卒業生ー彼女の笑顔は素晴らしい。

 

在学中、農学部家畜科のある学生は、学業と仕事をしながら、子供を育て、卒業する年に末の子を出産し、卒業論文にかける時間が不足し、どうしたら良いのか、とオフィスにやってきたことがあった。彼女はやつれ、頬を涙で濡らし、思わず私は机を離れて、彼女を抱きしめた。それだけで彼女は落ち着き、さらに論文コンサルタントが丁寧に様々なオプションを紹介し、彼女は見事やり遂げて卒業して行った。このパンデミックで、私は学生に心から敬意を持っている。そして言いたい、おめでとう、You made it!と。

 

 

 

 

 


机の傷

2021-05-06 | アメリカ事情

boldsky.com

 

 

 

Credit: @ThatEricAlper

 

アメリカのある町の博物館は、「ベニー+リンダ」と刻まれた1965年の学校机の写真をSNSに投稿した。

すると、この机の彫り物の作者は投稿のコメントに現れ、素敵な「その後」の経過について情報を提供してくれた。

「ベン......より: 私がラセールに移転する前高校一年生だった時セントラル高校の講堂で、その机にそれを彫った者です。リンダ......と私は50年にわたる結婚生活と3人の可愛い娘達が生まれてから現在もまだ一緒にいます。4年生の時、私は友人に自分はリンダと結婚するつもりだと言い、そして今年8月1日には結婚51周年を迎えます。私の人生で一番賢い決断だったのはこの親切で美しい婦人と結婚したことです。分かち合いをありがとう。」

 

 

 


ある愛の物語 その2

2021-05-04 | アメリカ事情
ルイス・ムーアと妻のネリー:「彼女が逝った後、結末を書かねばなりませんでした。」とルイスは回想記に書いている。ネリーは昨年10月に亡くなった。
写真:ルイス・ムーア
 

 

 

ムーアは戦争についてはあまり語らない。

そんな彼が話すのが好きな数少ない話題の1つは、ブルックリンの自宅に居た軍務休暇時の話である。彼はチョコレート配給券で母親のために買おうとキャンディショップに行き、通りにまで伸びる長い列の終わりに並んだ。

ある男性は列の終わりで順番を待つ軍服姿の彼を見て、列の前へ引っ張って行き、従軍兵士たる者チョコレートを買う順番を待つ必要はないと言ったのだった。彼が買い物を済ませて店を出てきたとき、そこに並んでいた人々みんなが彼に拍手して敬礼してくれた。

「人々は私を王族のように扱ったのでした」と彼は言った。

ムーアは1946年4月に退役した。しかし、6月1日に例のコーヒーショップでネリーに会うまで、自分の人生は実際に始まってもいなかったと彼は言う。

「私はそれから2日目になるまで彼女にキスをしませんでした」と彼は言った。 「私はそんなに長く待たなければなりませんでした。」

 

第二次世界大戦のベテラン、ルイス・ムーア(98歳)は、ランキャスターのアメリカ在郷軍人会311での自著のサイン会にて、ベトナム戦争ベテランのトーマス・クリストナーを感謝の握手をしている。(ゲイリー・コロナド/ロサンゼルスタイムズ)

 

彼の両親は、日本を米国の敵と見なし、彼が日系アメリカ人女性と結婚したことに激怒した。

両親が息子を家から追い出した後、彼はネリーと一緒に彼女の家族が住んでいた南カリフォルニアに引っ越した。彼は彼女の両親も二人を避けてしまうのではないかと心配した。

「突然、147cmくらいの身長で、40キロほどの小さな女性が突撃するかのように、まるで戦闘隊長のようにこちらに向かって歩いてきたのでした」と彼は義母に会った時のことを彼の本に書いた。彼女は「私のことを長い間見つめていました...ついに、彼女は笑みを持って破顔したのです」、そして彼らは抱きあった。ネリーの母親は喜びの涙を流していた。

何年もの間、ムーアと彼の妻は貧しかったが幸せだった。彼らはレストランやテレビチューナーを製造する製造工場で一生懸命働いた。

1950年代後半までには、二人は家を買うのに十分な資金を節約し貯めた。二人はサンフェルナンド・バレーの新しい住宅開発地にネリーが気に入った場所を見つけたが、当時アジア人には容易に不動産を売らないことが多かったので、そこを手に入れられないのではないかととても心配した、とムーアは書いている。

それで、ネリーが働いていた中華料理店の顧客の一人で友人になった人—白人男性—が、その家を買い、二人に売ってくれた。隣人は夫婦がアジア人だったのでそこから二人に転出してもらうための請願書署名活動をした。しかし、二人はそこにとどまった。

夫婦はしばらくの間ワシントン州に住み、そこで中華料理店を開き、その後ロサンジェルスに戻ってネリーの家族の近くに住んだ。 ネリーは、エンジニアリング会社で人事部長まで務めた。ルイスは経営コンサルタントだった。

彼らは自分たちは決して自己主張してこなかったので二人の顔には皺がない、と好んで言ったものだった。ルイスは毎日ネリーに愛していると言い、ルイスは夫婦で署名しなければならない書類などでは、いつもネリーに最初にサインさせたものだった。

6年前、ネリーは、認知症のために老人ホームに入所するために夫婦の家から越した。ルイスは、パンデミックでネリーのいる施設が訪問客から閉鎖してしまうまで、毎日彼女を訪問した。それからは彼は月に一度、彼女の部屋の窓の外に座って彼女の顔を見に来ていた。彼は毎日彼女に電話して、彼女がいなくて寂しいと言った。

ルイスは去年夏に回想記を書き始めた。彼の手はその年齢によって弱まっていたので、近くの町クォーツヒルの友人であるステイシー・アルヴイが、彼の話を筆記することになり、数日おきにルイスのアパートにやって来た。

「最初はCOVID−19のせいで訪問を私は躊躇していましたが、ルイスの妻が老人施設に入所していて彼が寂しいことはわかっていました」とアルヴイ氏は語った。 「私たちはマスクをして、遠く離れて座りました。」

ルイスは何よりも、ネリーが家に帰ってくることを望んでいた。

「私は回想記を完成させたかったのです。ネリーと私がカウチに座って、コーヒーテーブルに足を上げて、腕を組んでその本を二人で一緒に持ちながら、読みたかったからです。でも、それは起こりませんでした。」

10月、ネリーは亡くなった。彼女は98歳だった。

ルイスは最後にもう一度彼女に会いたくて施設に急いだ。彼がネリーの体に寄りかかったとき、彼女の目にある涙を見て、彼女がまだ生きていると叫んだ。しかし、それは彼の落とした涙だった。彼の涙は彼女の顔に落ちていた。

「彼女が亡くなった後、私は回想記の結末を書かなければなりませんでした」と彼は著書にサインしながら言った。 「私は新聞の訃報欄のために彼女の死亡記事を書かなければなりませんでした。私はそれがいやでした。本当にいやでした。」

彼は頭を少し下げ、「第二次世界大戦のベテラン」と書かれた帽子をかぶった。

「すみません」と彼はそっと言った、彼の声は感情にとらわれていた。

「彼女は...私を愛していました。そして私は彼女を愛していました。」

ルイス・ムーアは今、毎晩一人でその回想録を読んでいる。

ネリーは荼毘に伏され、そして彼もそうされたいと思っている。彼は二人の遺灰を混ぜ合わせて、二人が再び一緒になることを望んでいる。