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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

父の眼差し

2021-09-13 | アメリカ事情

spinditty.com

 

 

 

ある十代の少年は父親と二人暮らしで、2人は非常に特別に仲の良い関係にあった。息子は大方選手ベンチに座っていたが、父親はいつでもスタンドにいて応援して、一試合とて見逃すことはなかった。

この少年は、高校に進んだ時クラスで一番小柄だった。しかし、彼の父親は息子を励まし続けながらも、息子自身が望まないのであればフットボールをする必要がないことも非常に明確にしていた。しかし、少年はフットボールを愛し、がんばってみようとしていた。
少年は全ての練習で最善を尽くすことを決意し、そうすれば上級生でプレーできるのではと思っていた。

高校を通して、少年は練習も試合も一回も見逃すことはなかったが、4年間ずっとベンチウォーマーだった。彼の律儀な父親はいつもスタンドにいて、絶えず息子に励ましの言葉を持っていた。少年が大学に進んだとき、彼は控え選手としてチームに挑戦しようと決心した。誰もが彼が決してパスをしている相手からボールを奪えはしないと確信していたものだった。

コーチは、彼が常に全身全霊であらゆる練習に力を注ぎ込むと同時に、他メンバーが必要とする果敢さがむしゃらさを提供したので、彼を試合メンバーのリストに残すことを認めた。彼が控え選手としてチームを生き延びたというニュースは彼を高揚させ、最寄りの電話に急いで行き、父親に電話をかけた。父親は息子の興奮をすぐさま共有し、全試合のシーズンチケットを大学から購入した。

この根気強い若いアスリートは、大学での4年間、練習を逃すことはなかったが、試合でプレイすることはなかった。やがて彼の大学最終学年シニアフットボールシーズンの終わりがやってきた。大きな最後の試合練習直前に練習場に足を踏み入れるとそこにいたコーチは電報を彼に渡した。彼はその電報を読み、死ぬほど沈黙した。

彼はこみ上げる思いを懸命に呑み込んで、「父が今朝亡くなりました。今日練習を逃しても大丈夫ですか?」とコーチにつぶやいた。コーチは腕を彼の肩にそっと当てて、「君は残りの週は休むことだよ。土曜日に試合に戻らなくてもいいんだよ。」と言いました。

土曜日が来て、試合はうまく運ばれていなかった。第3四半期で、チームが10ポイント先取されたとき、静かに若い男性が空のロッカールームに滑り込み、フットボール用具を身に付けた。彼がサイドラインに出ると、コーチとチームのプレイヤーは忠実なチームメイトがもう試合に戻ってきたのを見て驚いた。

「コーチ、試合に出させてください。今日はプレイしなければなりません」と若い男は言った。コーチは彼の言うことを聞こえないふりをした。この緊迫しているプレイオフゲームでコーチは最悪のプレイヤーを望んではいなかった。しかし、若い男は固執し、ついにそんな彼を気の毒に思い、コーチは諦めて言った。「わかった。」「君にプレイしてもらうよ。」

コーチ、プレイヤー、そしてスタンドの全員が自分の目を信じられなかった。これまでプレイしたことがなかったこの小さな未知の若い男は、すべてを正しくやっていた。相手チームは彼を止めることができなかった。彼は走り、通り過ぎ、ブロックし、花形選手のように組み伏せた。彼のチームは勝利を収め始めた。スコアはすぐに引き分けになった。最後の数秒で、この若い男性はパスをインターセプトし、勝利のタッチダウンのためにずっと走った。

ファンは狂ったように歓喜し、チームメートはこの若い男性を肩に担ぎ上げた。聞いたことのないような応援の渦!

最後に、スタンドが空になり、チームがシャワーを浴びてロッカールームを出た後、コーチは若い男性が一人で隅に静かに座っていることに気づいた。コーチは彼のそばに来て、「信じられない。君は素晴らしかった!何がどうなったのか教えてくれないか?どうやってやったんだい?」と言った。

若い男性は涙を浮かべてコーチを見て、「父が亡くなったことはご存知でしょう? でも、父が盲目だったことはご存知なかったでしょう?」と言った。彼は嗚咽を必死に堪えながら、「父は僕のすべての試合に来ましたが、今日僕がプレーするのを初めて見てくれていたと信じてます。父に僕ができることを示したかったのです!」と無理やり笑顔を見せた。

 

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この話は著者不詳であるが、1993年のアメリカ映画Rudy(邦題:ルディ/涙のウィニング・ラン)のルディ・ルティガーを思い起こさせられる。この映画のルディ・ルティガーは実在のフットボール選手で、実際に起こった話を描いている。ルディは、元々インディアナ州名門のノートルダム大学へ入学することもなかなか敵わなかったが、彼のひたむきな努力と熱心さでとうとう入学した。そして、小柄な体格でもフットボールへの多大な夢と希望とひとかたならぬ努力で選手になり、やがて成功する。そんな彼がこの話を読んでいて彷彿としてきた。Rudyは息子たちやその友人たちに大好評で、家でヴィデオを観るときは、必ずこの映画だった。少年たちの心に深く染み通るRudyの実話は、頬を濡らしながら集中して見ていることで、なんと青少年の育成に役立つものだろう、と感心したくらいである。

57年前全日本女子バレーチームを金メダルに導いた大松博文監督にも通じるものがあった。大松博文氏は、江戸時代の米沢藩主上杉鷹山公(1751〜1822)の遺訓の中にあった、「なせば成る なさねばならぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」を用いて東洋の魔女と呼ばれるチームを育成し、成功させた。

 

 


Simple, simple, simple

2021-06-17 | アメリカ事情

alltherooms.com

Lund, Sweden

 

次男がスゥエーデン・ルンドからデンマーク・コペンハーゲンの会社への通勤に使うオーレスン・ブリッジを通る電車からの景色。距離にして片道24マイル(39Km) 52分ほど。清々しい窓外のエーレスン海峡の景色をシンプルに楽しめる。

 

 

10年以上忠実に働いていた古いデスクトップのコンピュータが「ついに死んでしまった!」とある友人が嘆いた。まさにある日突然うんともすんとも言わず、とにかくスタートさえしてくれない。コンピューターの修理屋が開いていない時間だったので、友人の娘は、友人にこの際新しいラップトップを購入して交換するように言った。購入後に続いたのは、2日間の純粋な欲求不満だったと友は言う。それは、まるで太古の昔のフォード社のモデルTの運転に慣れていたのに、突如スペースシャトルの飛行操縦に移行するようなものだと形容しつつ言った。

娘が新しいラップトップを設定した後、友人は以前から使用していた古い電子メールプログラムを探した。古いバージョンを新しいコンピューターにダウンロードしようとしても、機能しなかった。その後4人の異なるいわゆるコンピューターSavvyサヴィ(コンピューターに詳しいオタク)と話したが首を振るばかり。つまり全て無駄な努力てあると示唆された。ジャンプドライブで保存した古いストーリーなどをすべてラップトップへ転移送するのももちろん困難だった。ラップトップのいかにも派手な(友人の感想による)新しいプログラムは、まるでアイコンの地雷原で、誤ってそれらの1つに触れるたびに、画面のすべてが変更され、元に戻す方法を見つけるためにさらなる必死な努力が必要とされた。結局、友人は新しいラップトップコンピューターの設定をひどく台無しにしてしまい、娘にリセットをしてもらい、最初からやり直すことができた。やっとその2日後、友人は新しいコンピューターの必要ないくつかのごく簡単なことを実行できるようになったらしい。そして、おそらく永遠に使用しないだろう他の何千もの機能を無視しつつ、古いデスクトップと同じくらい長く忠実に動作機能することを願っているそうだ。

これらすべてから友人が学んだことは、コンピューターと生活に関して、物事をシンプル、シンプル、シンプルに保ちたいということであった。朝起きて急いで真っ先にコンピューターに向かいたくないし、その代わりに、まず愛犬を撫でて外に連れ出し、ここの山の端から太陽がゆっくりと昇るのを眺めたいと思うと言う。子供たちを抱きしめたり、友達と話したり、神様に祈ったりして時間を過ごしたい、とも。自然の鼓動と天の御父の愛を感じたいと言う。ゆっくり、と故意にでも、神聖に日々を過ごしたい。自分の時間と才能を費やして、この世界をより速くではなくより良く機能させたいと思うからだと友人は言った。

人生はそもそもシンプルなものである。愛もそうだ。物事を複雑にするのは他ならぬ私たち自身ではないか。「今日は少し時間を取って、電子機器の電源を切り、心臓の電源を入れてみよう。」と朝起きてまずそう思い、プログラムではなく人になろう。「自(分)撮り」ではない本物の私でいたい。小さくとも何か目的を持って、コンピューターや携帯に惑わされずに、自分の日々を過ごしてみたい。だから、なるたけシンプルに生きていきたい。

人生をなるべくシンプルにして生きていくこと、と、子供達が幼いうちから家訓のように言ってきた母親の私。それはシンプルに日々を大事にして、シンプルに人に親切にし、男女関係においても然り。良い伴侶を穴のあくほど見つめ、本当に大切な人か見極め、一度結婚したら、シンプルに添い遂げ、仕事にしてもシンプルに真面目に働けば良い。家族の運営にも、シンプルに、見栄だの、虚栄だのを蔑ろにして、何が一番大切かシンプルに判断し、子供や伴侶を愛し、シンプルに生活していくこと。そう言うことをシンプルに言い続けると、そのうち、何を決心するのでもシンプルに答えはやってこよう。そうでない場合は、シンプルに、神と対話し、シンプルに神に常に近くあることである。

 

コンピューターにかじりつく事が短ければ、シンプルに家族で近隣のトナカイに会いに公園へ行ける。

2歳児がトナカイに餌をあげることを助けられる。


ダイムの話

2021-06-11 | アメリカ事情

smyrnacoin.com

 

 

 

何故FDR(フランクリン・デレノ・ルーズベルト大統領)の顔がアメリカのダイム(10セント硬貨)にあるのかご存知だろうか。由来はポリオ(小児麻痺)と多くの人々に愛されたあるコメディアンに遡る。

1921 年、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は 39 歳でポリオに感染した。この病気にかかって以来、彼は二度と自力で歩くことができなかった。

 

FDR Presidential Library & Museum: photograph by Margaret Suckly

車いすに乗ったルーズベルトの珍しい写真(1941):
ニューヨーク州ハイドパークのトップ コテージのポーチにて、フランクリン・デラノ・ ルーズベルト大統領と彼の愛犬スコティッシュテリアのファラ、そしてコテージ管理人の孫娘のルーシー・ビー。 

 

この大統領がポリオ撲滅のための財団を設立したとき、コメディアンのエディ・カンター (1892-1964) は資金・寄付を集めるためのアイデアを思いついた。

カンターは多才なパフォーマーで、名声が高まり始めたのは 1917 年のニューヨーク市の劇場でのレヴュー(歌、ダンスや時事劇を混ぜた軽喜劇)がきっかけだった。

フランクリン・ルーズベルトが、ポリオとの戦いを続けるために国立小児麻痺財団を設立することを発表した後、カンターは合衆国民に、ホワイトハウスに10セント硬貨を郵送するよう求めた。

カンターが 1938 年 1 月に寄付を呼びかけた際に、「ほぼ誰もが ダイム一枚か数枚を郵送できるのでは?」と語った。 「しかし、1ドルにするには10枚のダイムだけでできるし、100万人が10セントだけを送るとしても、合計は10万ドルになります。」

カンターはこれを「マーチ・オブ・ダイムズ」(ダイムズの行進、小銭の行進)と呼び、これは、劇場版ニュースフィルムのタイム社が1935年から1951年まで映画館で上映されたアメリカのニュース映画シリーズ、ザ・マーチ・オブ・タイムからの駄洒落に基づいており、そのためタイムス社はこの財団のスポンサーとなった。

ホワイトハウスには直ちに総計2,680,000枚ものダイム硬貨が圧倒的に集まった。文字通り、主に子供たちから送られた大量のダイムが集まったのだ。

ルーズベルト大統領は感謝の意をラジオ放送で表明した。

「ここ数日間、文字通りトラックに積み込まれた郵便物の袋がホワイトハウスに届いています。昨日は4万から5万通の手紙がホワイトハウスの郵便室に届きました。今日はさらに多くの手紙が届きました。私たちは郵便袋を数えることでしか実際の内容郵便物の数を見積もることができないので、正確に何通なのか言えませんが、 すべての封筒には、ダイムやクゥオーター(25セント硬貨)、さらにはドル紙幣さえ入っています。文字通り、何千という人々がこうして小銭をたくさん郵送してくださり、ホワイトハウスのスタッフと私がこの先2、3ヶ月間、ご寄付に感謝する以外何も手につかないのではと考えるくらいです。ですから、この機会に私たちが行っている素晴らしい仕事を支援し、協力してくださるすべての方々に感謝致します。」

集まった金額は、ジョナス・ソークとアルバート・サビンがポリオワクチンを開発する研究に直接使われた。

1945 年にフランクリン D. ルーズベルト大統領が亡くなった後、ヴァージニア州下院議員のラルフ・ H. ドートンによって、マーキュリー・ダイムと呼ばれる10セント硬貨をルーズベルトのイメージを冠したものに置き換えることを求める法案が提出された。

ダイム(10セント硬貨)は、ルーズベルトの64回目の誕生日であった1946年1月30日に一般に公開された。

 

sunnyskyz.com
 
FDRとコメディアンのエディ・カンター氏。ホワイトハウスには非常に多くのダイムが入った封筒が送られたきた。
 
 
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領によって1938年に設立されたこの 乳児麻痺のための国立財団は、当初はポリオと戦うのが目的だったが、ワクチン開発後から現在に至るまでに先天性欠損症と乳児死亡率の予防に焦点を拡大した。 2005年には、早産が 世界中の子供たちの主な死因として浮上し、早産の研究と予防が組織の主な焦点となっている。この組織は、アメリカ合衆国らしく、政府に頼らず、まず人々の厚意から始められ、今現在でも寄付は続けられている。例え10セントの硬貨でも集まれば、それが偉大な山となり、小児医学への大きな貢献に繋がるのは素晴らしい。まさに国民のための国民による国民の一大組織である。私自身、個人としても米国大統領としてもFDRは好きではないが、この点だけは尊敬している。
 
 
https://www.capitalkeyclub.org/
 
 
 
 
 
 

ある教授

2021-06-07 | アメリカ事情

medium.com

マサチューセッツ工科大学(MIT)

 

 

マサチューセッツ工科大学(MIT)のある教授は、大学の彼のオフィスに携帯クリブ(プレイペン)を購入し、設置した。

 

@JTroyLittleton

 

それは彼のクラスに9ヶ月の子供を抱える学生がいるからだった。

MIT の教授は、生後 9 か月の子供を持つ学生を助けるために、オフィス用に旅行用ベビーベッドを購入しました。

トロイ・リトルトン博士は、MIT の神経科学の教授であるが、先日 彼が購入したクリブの写真をツイッターに投稿公開した。

「実験室用に購入したお気に入りの新しい機器 – 必要なときに大学院生が彼女の小さな女の子を実験室で研究作業をする時に連れてこれるように、私のオフィスに移動できる旅行用クリブ・プレイペンです。この赤ちゃんのお母さんが作業をしている間、私は彼女と遊ぶことができます。ウィン−ウィンです!」 リトルトンは 5 月 7 日の投稿にそう書いた。

リトルトンが驚いたことに、このツイートは 117,000 件以上の「いいね」と 8,000 件以上のリツイートで口コミで広まった。

「えっ、あのちっちゃいつぶやきが爆発したの!?」 彼は返事に次のように書いた。 「でも、ここで本当のヒーローを見つけてくれたらいいのにと思います。それは私ではなく大学院生のお母さんです。娘と一緒にやるべきことをすべてこなし、論文プロジェクトの研究を続けるのは素晴らしいことです。皆さん、母の日おめでとう – 母たちはそれに値します!」

 

Littleton / @JTroyLittleton

かの教授リトルトン博士と偉大なる母親学生の赤ちゃん

 

 


”Taps Across America”

2021-06-05 | アメリカ事情

CBS ニュース

 

 

 

ここで言う「タップス」とは、アメリカ軍による旗の式典や軍葬の際に、演奏されるビューグルコールである。 正式な軍用バージョンは、1 つのラッパ(通常ビューグル)またはトランペットによって演奏される。ボーイスカウト(ガールスカウト然り)の集会やキャンプでも頻繁に演奏される。 この曲は、「バターフィールドの子守唄」または歌詞の最初の行「Day Is Done」としても知られている。(参照:Wiki)

先日5月31日はメモリアル・デイ(戦没将兵追悼記念日)だったが、去年に続いて、今年も戦没将兵追悼に、Taps Across Americaと称して、あらゆる年代、吹奏楽歴、男女を問わず、もちろん人種も関係なく、合衆国至る所で、人々はきっちり午後3時にビューグル、トランペット、その他の楽器で、タップスを演奏した。

去年CBSテレビネットワークのニュース番組のスティーヴ・ハートマンが合衆国空軍の元ビューグラー(ビューグルの吹奏者)だったジャリ(ヤリ)・ヴィラヌエヴァと共に始めた戦没者への思いと感謝をする演奏を国中で捧げることを提案したのだった。去年はCovid-19が猛威をふるう最中で鬱々とこもった人々の気持ちを奮い立たせ、元気付けてくれる役目も果たした。以下はCBSニュースからの抜粋である。

 

ジャリ(ヤリ)・ヴィラヌエヴァ氏とCBSニュースのスティーヴ・ハートマン氏

 

アメリカ最大級の各都市の建物の屋上から、そこから遠く離れた田舎道まで、あらゆる人種のアメリカ人が集まり、今では伝統となりつつあることを行なった。メモリアル・ デー(戦没将兵追悼記念日)の午後 3 時に、数千人が全国あらゆるところでタップスを行なった。

ミシガン州ディアボーン在住の 70 歳のマイケル・スタントンのような一部のプレーヤーは、このためにトランペットを演奏する方法を学び、他の多くのプレーヤーはプロや演奏経験者としてこの行事に戻ってきた。演奏能力はバラバラだったが、その心は全て首席奏者だった。

アリゾナ州サプライズのポール・フリーバーグ(85)は、華氏100度の炎天下で演奏した。他のある人は雨の中で立ったまま演奏した。彼らがタップスを演奏することを止めるものは何もなかった。

その結果、Taps Across Americaは耳にせずにはいられないものとなった。

ケンタッキー州ルイビルの競馬場にいても、ロウズ・ハードウェア店の駐車場にいても、タップスを耳にした人々は、敬意を払わずにはいられなかった。砂の中に足が入っていても、雲の中に頭を入れていても、人々はこの休日の理由を思い出さずにはいられなかった。

参加者の正確な人数はわからないが、CBSテレビ局が受け取ったビデオ提出数に基づくと、確実に数千人は下らなかった。これは去年同様に、またしても史上最大の音楽パフォーマンスの 1 つになっている。

CBSニュースのスティーヴ・ハートマンと共にこのイベントの開催を支援した ジャリ(ヤリ)・ヴィラヌエヴァ氏 は、「私たちはこれによって戦没将兵への追悼と感謝を新たにすることを始めました。 これが続くことを願っています。これは本当に、私たちをアメリカ人として団結させるものです。」

 

 

Unity,団結は、今現在の世界で、本当に必要なことの一つなのかもしれない。