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巨大台風 ( 伊勢湾台風 回顧 )

2009年09月28日 | 防災
温暖化で台風が巨大化し、連続して日本列島を襲うという予測があります。

ただ、また今年も、上陸の気配がありませんが、大陸性の高気圧の勢力が強いからだそうだ。
真っ直ぐ北上した台風15号も結局右に廻り消滅。ありがたいけど、やっぱり、台風の功罪を考えると複雑。

今、中日新聞では有史以来の被害をもたらした「伊勢湾台風」の特集記事を連載している。

50年前のあの台風は凄かった。強風が未曾有の体験だったが、名古屋市南部、愛知、三重の海岸部、岐阜の河川沿い、想定をはるかに超えた高潮で、破壊された防潮堤を海水が超えて古代の海岸沿い(埋め立て以前)まで海に戻ってしまった。
それに貯木場の巨木が凶器となって人を襲ったのですから地獄絵ですね。

当時、筆者は中学生。丸坊主で堀田駅付近に住み、高辻から堀田までの電車通りは低かった。

伊勢湾台風の来襲の日、夕方から強くなった風雨は、紀伊半島に上陸し、名古屋の西部を通過する。気圧は900ミリバール強、瞬間最大風速60~75mと台風予想を流されたが、早々と停電していたので、自作の鉱石ラジオで受信しながら、慄いていました。
夜半には、今まで経験した事のない凄い強風が音を発してうなっており、窓の隙間から見た隣家の屋根は、瓦がぴーっと順番にめくれたかと思うと、空中で竜巻のように回転し、あらぬ方向に飛んでゆく。とても、外に出れる状況でなく、電線は鞭のようにうね、いきなり断線して、まさに鞭状態。空は低い雲が渦巻き速い速度で移動する。
とても、生きた心地がしない。
父親が「頭からふとんかぶれ~!」と叫んで、部屋の片隅で蓑虫状態。
朝が来るのを一睡もせず、待った。
でも、朝がくる前にわが家の壁は、雨戸が外れた時に、壁ごと持って行かれ東側が見事に吹き飛ばされ無くなった。ぽっかり大穴。

台風が去った朝は、それは見事な秋空。太陽はさんさんと輝き、風も無く、昨夜、史上最大の台風が来たとは微塵も思えない空でした。

ふと、周りを見ると、電柱は傾き、ほとんど看板と屋根や瓦は吹き飛ばされ、電線はあちこち断線。足元は水にあふれ、自転車に乗って回ろうかと思ったけど、困難でした。

歩いて堀田通りまで出たら、洪水状態。マンホールが2mほど噴水状態の上に乗っていたり、突然、閉まっていたマンホールが5mくらいの高さに飛ぶの目撃。
もちろん、市電も冠水。名鉄電車(今は高架ですが)も全面ストップ。

通学していた中学校は、伝統ある校舎の中央部が2階丸ごと無くなっていた。

親戚の住んでる南区豊田を今度は目指しましたが、どんどん、洪水の深さは増し、中学2年生の私では、周りの大人が静止。船かイカダでないと無理と言われ、泣く泣く断念、腰までつかったけど、親戚までたどり着けなかった(後から聞いたら2m超の泥水水位と聞き恐怖しました)

ただ、途中で幾度か亡くなられた人のご遺体が浮かんでるのを見たときは、心臓が止まるかと思うほどの体験でした。誰もかまえない(名古屋弁?)状況で放置されたままです。屋根に避難した人は、最初は「助けてくれ~~」の声をだしてましたが、段々静かになり、飲まず食わずで救助されるまで悲惨な日々を数日以上、屋根で(ほとんど一家)過ごされました。

数日後、親戚がうどん屋(と製麺業)でしたから、豊田本通の親戚に食料として運んだのですが、都合つけた船で運ぶ途中、それを見つけた屋根の人々は、両手を合わせ、「ください」「わけて」「食べさせて」が続き、漸く、たどり着いた時は、ほとんど無かったような状態でした。

学校は、痛んでいましたが、校舎の半分以上は、南区の白水住宅からの避難の方々の仮住居として提供され、数少ない教室で2部授業(交代制)が半年以上行われました。

風と、水の恐怖。まだ、私自身は生命の恐怖体験ではなかったですが、50年前の「伊勢湾台風」の犠牲者の方々の鎮魂と防災を改めて祈らずにはおられません。


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