性暴力被害とLGBTIQAを紐づけて話す、ということをRC-NETでは活動の中のかなりの割合を割いて行ってきた。
それは、SOGIESC(性的指向、性自認、性表現、性的特徴)によって、適切なサポートを受けることが出来ない、し辛い人たちがそこにいる、と思ったから。
基本的に、活動をするに際しては、「よりサポートが届きにくい層」に向けたものを実施していくことにしている。
その人達こそを、よりハイリスクな人々だと私たちは捉えている。リスクとは、「助けを求められない」「求めても拒否されることがある」「そもそも想定されていない」等によって起こる、より重篤な状況悪化が見込まれる、ということだ。
LGBTIQAの性暴力被害経験率が高い、というのは事実としてある。
国内外のデータがそれらについては証明するところであるし、そもそも、性暴力は特別な事柄ではない。様々な暴力被害や差別経験の割合が高いことと並列で、被害は起きやすく、また、支援システムの不足から、声を上げる機会も少なく、事柄としては見えにくい。その中で、当事者たちは、関係性を拗らせたり、精神的に、また、身体的問題としての危機を迎えるリスクも高くなる。
要は、リスクを与えるのは概ね社会の側であるということ。これを前提として持っていてほしい。
さて、最近一部において、「性暴力被害経験者は性的マイノリティになる」という暴論が飛び出しているそうだ。
LGBTIQAと性暴力についての活動をしてきた中で、まぁ、こういうことを言う人が出てくるというのはある程度、「ありそうなこと」と思って来た。
それについて、私には否定も肯定もすることが出来ない。
例えば、性暴力被害を受けたことによって、性自認や性的指向、性表現にゆらぎを感じる人、またそれらが固定化され、「性的マイノリティ」として生きるという人がいるというのは事実である。性暴力被害の影響として、特段珍しいことではない。「そうなんだね」と、受け入れられることだと思う。
例えば、一人の女性が、男性から被害にあった後に男性への恐怖心を持つようになり、性的にも嫌悪を感じる、という状態になったとする。その人はバイセクシュアルを自認していたけれども、被害後、レズビアンと名乗るようになった。別におかしなことではない。その人が、被害後から自らの身体に違和感を感じだし、「女性性」というものを嫌悪することもあるかもしれない。トランス男性として生きることを選ぶかもしれない。それだけのことだ。何かおかしいだろうか?
ただ、そうなる人は全体の中の一部でしかない。性暴力被害にあっている人は皆さんが思っているよりも多い。人口比で言えば、性的マイノリティと言われる人口層よりも、多いことは各種調査で見ても明確であろうと思うが、それだけをもってしても、「性暴力被害にあうと性的マイノリティになる」というのがイコールで繋がるものではないということはわかってもらえるのではないだろうか。
そして、性的マイノリティの性暴力被害率についてだが、概ね性別違和の無い異性愛者に対する調査からすると各国で比較的多いデータが出るが、全体のパーセンテージで4割程度が最高値ではないだろうか(もちろん、性暴力の定義を何とするかということによって、各データのパーセンテージはかなり変わり、“言動”等を含むものについては7割を超えるということもあるが、それは性的マイノリティのみならず性暴力被害の調査全体の話である)。女性の4人に一人、男性の6人に一人が大学生年齢までに性暴力被害経験を持つと言われるこの社会の中で、多い少ないを言うのも、私としては下らないことのようにも思うが、多少多いと思う。だが、そこでの問題は、被害にあう数以上に、サポート体制の無さ、である。
また、こういう時に絶対に出てくるのが「同性間での性暴力被害によって」という言葉だ。閉口してしまう。性暴力といえば、男性から女性に対するものであり、それは異性愛者の話、と、この言葉を言う人たちは思っているのであろう。性的マイノリティが被害にあう、というと、決まって「同性間での被害」と勝手に妄想する。そのファンタジーを頭からまず追い払う作業をしたらいかがと私などは思う。もちろん、被害にあった人の性別や性的指向等に関係なく、加害者の属性は様々である。全体として男性による加害が多い事実はあるが、加害者の性別等は固定化したものではない。また、性的マイノリティが同性からの被害により多くあっているというデータを私はまだ見たことはない。各ジェンダー、セクシュアリティ毎に違いは出てくるだろうが、当会に来る相談として言えることは、加害者の属性図というものが、性別違和の無い異性愛女性のそれと、かけ離れたことは一度も無い。同じ様な被害にあっている、というのが実感だ。家族や親戚、パートナー、友人知人、職場の人、それぞれに、大きく変わる所は現状見当たらない。
性的マイノリティは同性からの被害にあったからそうなったんだ、となんの証拠も出さずに全てを決めつけるなんて「同性に性的に迫られて何かが開花したんじゃないの」とかいうセクハラ発言レベルである。
今回、明確に言いたいことは、人のセクシュアリティがどのように形成されたかということに理付けをしたい人たちは、興味本位で人のプライバシーを暴こうとする、趣味の悪い人たちだということだ。
そして、「性暴力被害などにあったから性的マイノリティという“異常”な状態になるのだ」という結論付けを社会がするとしたら、それは性的マイノリティに対しての差別、そして、性暴力サバイバーへの差別に繋がるということを覚えておいてもらいたい。
今年のインパクトワードの一つだが、ある自治労がUPしていた記事の中に、「性暴力被害にあうということは、何か欠けるということだ」という意味の言葉があったが、まさに、これであろう。性暴力被害にあうことによって、「“通常”“常識的な”性別や性的指向」が、欠けてしまった、とでも言うのだろうか。
私たちは、自分たちで、理解している。
性暴力被害にあったということ。
そして、今、生きているということ。
そして、生き抜く為に、どう今を生きるかということ。
本来、「性」とは「いろいろある」ものでしかない。他人のジャッジを必要とはしていない。様々な性別の自認がある。好きになる人もそれぞれであるし、好きな性表現をしたらいい。身体の性だって、本当にいろいろなのだ。「多様性」という言葉が分かりにくくしているのではないかと最近思うことがあるのだが、とにかく、「性は、いろいろな形があるもの」であり、それらを社会側が強制したり、マジョリティとされる側に合致しないからといって差別的な扱いをされるようなことがあってはならない、というだけだ。それが、人権だからだ。
例えば、私の人生をテーブルの上にすべて広げて、「あなたがこういった生き方をしたのは性暴力被害が理由ですね」と誰かに言われたとして、「だから何でしょうか」と私は言うと思う。
それぞれに、様々な経験をする。その経験に自分の人生は紐づけられる。だからといって、私の人生は性暴力そのものでもない。願わくば、理由探しよりも先に、性暴力に対抗する社会を作って欲しい。性暴力にNOと言える社会を。被害にあうかもしれない人ではなく、私が、あなたが、あなたたちが、考えるべきことなのだ。
ただ、一つ、残念だと思うことがある。
こうした暴論を前に、LGBTコミュニティの多くの人が、「性別や性的指向は生まれついてのもの」ということを声高に言い出すことだ。
もし、生まれついてのものじゃなかったとしても、尊重されなければいけないのが、「性」であり、「人権」では無いのだろうか。私はそう思っている。