私は、「声に出す事ができない」という状態は、被害者の「辛い現実についての症状」によるものではなくて、
社会が被害についてを語ることをリスキーなものとして認識し、その状況に甘んじている現実にこそ問題があるのだと思っています。
性暴力についてを語れないのは、その被害による単発的な恐怖感からではない。
あまりに社会的リスクが高いことだから。
「声を出せるだなんて、あなたはとても強い人間ですね」であるとか、
「つらい経験を乗り越えて、社会のために頑張ってらっしゃる」などと言われる度に、
まったく分かってもらえなかったんだな、と思います。
声を出せないのは、社会の責任です。
この暗数が高い犯罪の中では、多くの加害者が普通に日常を生活しています。一方で性被害による影響から、多くの被害者が助けを得ることも出来ずに日常生活に不便を感じながら生活をしている現実もあります。
この許容量の小さい「犯罪」という枠組みの中では、「加害者」と認定すらされない人が沢山います。同じく、被害者と認定されない人がいます。
被害に対する正確な知識を持とうとしない社会では、被害者は自分の被害について現実と違う視点から非難されることがあります。あんな場所にいたから、あんな格好をしていたから、など、被害者が被害についての責任を問われることすらあります。
被害にあったことによる症状が出た場合、それが被害者の精神的虚弱性の問題と捉えられてしまうこともあります。人と付き合えない、仕事が出来ない、生きる事がつらい、そんな状況の中、助けてくれる制度は限られています。
特に、被害があったときから時間が経っている場合、そういうことはよくあります。「まだそんなことを言っているのか」。性暴力被害が及ぼす影響というのは、永きに渡り存在します。
社会は基本姿勢として自分の隣に性暴力被害者がいることを想定していません。
“特別”と思いがちです。でも特別な支援はあまり見当たりません。
“可哀想”と言ってはくれますが、
それが自分の身の回りで起きたものであった時、
どう対応するかは考えていません。
性暴力というのが特別な犯罪で、そんなものは自分たちには関係がないと思っている人たちと、
被害にあうということに理由付けをする人たち。
そして、その理由付けを利用して、
加害をする人たち。
社会は、性暴力被害を認めてはいない。
その中で、性暴力被害についてを代弁しようとしてくれる方がいます。
それは、RC-NETも同じことかもしれません。
本当に多くの被害があります。そのひとつ一つの被害の背景には、それぞれのヒストリーがあります。なので、画一的な見解はありえません。
私たちは「性暴力」を語る際には常に、多様性を理解する姿勢でいる必要があります。
一つだけ確かなことがあります。
被害とは、加害があってのみ成り立っている。ということ。
サバイバーを守るという名目で、勝手な代弁をすることは許されないと思う。
サバイバーの感性をあなどってはいけないと思う。
サバイバーが「生き抜いてきた存在」であることを、忘れてはいけないと思う。
サバイバーは、それでも生き抜いた。そこに、ちゃんとアイデンティティを見出すことをしたっていいじゃないか。
私は、サバイバーとして、その自分に誇りを持っている。(もちろん、とても揺るぎやすい、そして確固たる誇りを。)
それだって、全て自由なんだよ。声を出すも、出さないも、自由。
自分を守る術っていうのは、私たち自身の中にある。のみ。
被害を被害だと言える。
傷ついたことを傷ついたと言える。
当たり前のそんな空間が、私たちの未来に、“暴力を生み出さない社会”を作っていくんだと思う。
だから私は作りたい。
安全にしゃべれる場所。
なんの利害関係もなく、繋がりあえる場所。
私たち個人の問題はあくまでも社会の問題であって、
だからこそ私たちは、ただ、語ることが出来る。
私たちにはいつだって、その自由がある。
社会が被害についてを語ることをリスキーなものとして認識し、その状況に甘んじている現実にこそ問題があるのだと思っています。
性暴力についてを語れないのは、その被害による単発的な恐怖感からではない。
あまりに社会的リスクが高いことだから。
「声を出せるだなんて、あなたはとても強い人間ですね」であるとか、
「つらい経験を乗り越えて、社会のために頑張ってらっしゃる」などと言われる度に、
まったく分かってもらえなかったんだな、と思います。
声を出せないのは、社会の責任です。
この暗数が高い犯罪の中では、多くの加害者が普通に日常を生活しています。一方で性被害による影響から、多くの被害者が助けを得ることも出来ずに日常生活に不便を感じながら生活をしている現実もあります。
この許容量の小さい「犯罪」という枠組みの中では、「加害者」と認定すらされない人が沢山います。同じく、被害者と認定されない人がいます。
被害に対する正確な知識を持とうとしない社会では、被害者は自分の被害について現実と違う視点から非難されることがあります。あんな場所にいたから、あんな格好をしていたから、など、被害者が被害についての責任を問われることすらあります。
被害にあったことによる症状が出た場合、それが被害者の精神的虚弱性の問題と捉えられてしまうこともあります。人と付き合えない、仕事が出来ない、生きる事がつらい、そんな状況の中、助けてくれる制度は限られています。
特に、被害があったときから時間が経っている場合、そういうことはよくあります。「まだそんなことを言っているのか」。性暴力被害が及ぼす影響というのは、永きに渡り存在します。
社会は基本姿勢として自分の隣に性暴力被害者がいることを想定していません。
“特別”と思いがちです。でも特別な支援はあまり見当たりません。
“可哀想”と言ってはくれますが、
それが自分の身の回りで起きたものであった時、
どう対応するかは考えていません。
性暴力というのが特別な犯罪で、そんなものは自分たちには関係がないと思っている人たちと、
被害にあうということに理由付けをする人たち。
そして、その理由付けを利用して、
加害をする人たち。
社会は、性暴力被害を認めてはいない。
その中で、性暴力被害についてを代弁しようとしてくれる方がいます。
それは、RC-NETも同じことかもしれません。
本当に多くの被害があります。そのひとつ一つの被害の背景には、それぞれのヒストリーがあります。なので、画一的な見解はありえません。
私たちは「性暴力」を語る際には常に、多様性を理解する姿勢でいる必要があります。
一つだけ確かなことがあります。
被害とは、加害があってのみ成り立っている。ということ。
サバイバーを守るという名目で、勝手な代弁をすることは許されないと思う。
サバイバーの感性をあなどってはいけないと思う。
サバイバーが「生き抜いてきた存在」であることを、忘れてはいけないと思う。
サバイバーは、それでも生き抜いた。そこに、ちゃんとアイデンティティを見出すことをしたっていいじゃないか。
私は、サバイバーとして、その自分に誇りを持っている。(もちろん、とても揺るぎやすい、そして確固たる誇りを。)
それだって、全て自由なんだよ。声を出すも、出さないも、自由。
自分を守る術っていうのは、私たち自身の中にある。のみ。
被害を被害だと言える。
傷ついたことを傷ついたと言える。
当たり前のそんな空間が、私たちの未来に、“暴力を生み出さない社会”を作っていくんだと思う。
だから私は作りたい。
安全にしゃべれる場所。
なんの利害関係もなく、繋がりあえる場所。
私たち個人の問題はあくまでも社会の問題であって、
だからこそ私たちは、ただ、語ることが出来る。
私たちにはいつだって、その自由がある。