俺が格闘ゲームを始めたのはカプエス2からです。
鬼のようにゲーセンに通い続け、俺を格闘ゲームに引き込んだイケ兄が飽きてゲーセンに来なくなってからも、俺がゲーセンにいかない日はありませんでした。
そんな中で、俺が常に思っていたことがあります。ちょっと強くいえば信念みたいなものがありました。
それはタイトルにもあるように、「勝たなければならない」という考えでした。
たぶん、ナコルルをメンバーとして起用した辺りからその傾向は強まったと思います。
ただ別段、「オレがこの世の主役なんだから、オレはこのゲームで勝つべきだ」とかいう超自己中心主義な考えではないです。
もうちょっと噛み砕いて表現すると、
「俺はこのゲームをやるからには全て勝つつもりでやる。何をしてでも勝つ」
という感じです。
この考えは今から思い返せば非常に赤面ものです。
考え自体は間違ってないとは思うんですけど、それのために努力したベクトルがおかしかった。
例えばバルログならば、ヒョーをひたすら研究し続けました。
相手の取る全ての選択肢を先読みし、それに合わせてヒョーの動きを変える。
対空昇竜を出してくるならば手前落ちを狙うし、アッパーで返そうとするならばヒョーの開いた手の先端を当てる。前転にはイズナ。バックジャンプや垂直ジャンプには高いところで手を開いて早めに攻撃判定を出す。
今は画面端からの脱出か、不意をついてたまに出すかしかないんですけど、昔はただ「勝たなければならない」という考えのために、差し合いというものも考えないでこういう動きのみを研究し続けていました。
他、バルログや京、ナコルルの三キャラ総てにいえることですが、研究し続けたのはぶっ放しのタイミング。
その頃は使っていて気付かなかったのですが、ナコルルのスパコンは非常に隙が短い。よく考えれば京の大蛇薙も反撃しにくいですし、バルログのレッドインパクトも座高が少し高い相手にはガードさせれば隙なし。
ぶっ放しのタイミングを考え続けた結果、まずぶっ放しをしやすいキャラというものを自然と選んでしまっていたわけですね。
こういうウザい戦法に変化をつけるためにもバルログを抜いたわけですが、今この上の文章を見返しても赤面してしまいます。
俺がぶっ放しスパコンやオリコン、果てには昇竜までを嫌うのは、昔のこういう自分が思い起こしてしまうからかもしれません。
これらは「勝たなければならない」という考えのもと作り出された戦法ですが、バルログを抜いてぶっ放し中心の戦法を変えた時から、この考えも少しずつ変わってきました。
今は「勝たなければならない」ではなく、「負けてもいい。クリーンな戦いをしたい」になりました。
この考えに変わってから、少し窮屈にはなりましたが、Kグルーヴを使用していてもCグルーヴ対Cグルーヴぐらいの緊迫した勝負ができるようになりました。
読み合い放棄の起き上がりぶっ放しをやめると、相手の立ち回りの巧さというものを感じるようにもなります。
そしてそれらの人達と戦い続けることが、自分の強さの自信にもなったのです。
と、ここで無駄な武勇伝は終えるのですが、結果として俺は弱くなったと思います。
一行前と矛盾してそうですが、これは事実です。
ぶっ放すタイミングを忘れてしまった。
これは、Kグラーとしては致命的なものなんだと思います。
今、国分寺勢の間ではランバトが行われています。
俺はその中でもぶっちぎり最下位です。
上を目指すならば、自分の考えを再び変えなければならないのだろうか。
先日、立川で大型連勝をしている人の戦法は、まさにぶっ放しスタイルだった。
ぶっ放しは強い上、有効な手段である。
Kグルーヴのゲージ効率や期待値二択を考えれば、これは厳然たる事実です。
ただ俺はぶっ放したことを後から後悔するし、対戦相手も良い気はしないだろうと思う。
ゲーセンで初めて出会った相手とまた合い間みえるためと考えると、ぶっ放しは決して有効な手段ではない。
そして自身のぶっ放し許してしまうと、確定状況を作るという能力も欠如してしまうだろう。
しかし今はランバト中だ。
上を目指すことと技術の向上を別物として考えると、ランバトではぶっ放すことが恐らく許されるはずだ。
だけど、まだ考えはまとまらない。どっちにすればいいのかも悩む。
次のランバトは、もう目の前だというのに。
鬼のようにゲーセンに通い続け、俺を格闘ゲームに引き込んだイケ兄が飽きてゲーセンに来なくなってからも、俺がゲーセンにいかない日はありませんでした。
そんな中で、俺が常に思っていたことがあります。ちょっと強くいえば信念みたいなものがありました。
それはタイトルにもあるように、「勝たなければならない」という考えでした。
たぶん、ナコルルをメンバーとして起用した辺りからその傾向は強まったと思います。
ただ別段、「オレがこの世の主役なんだから、オレはこのゲームで勝つべきだ」とかいう超自己中心主義な考えではないです。
もうちょっと噛み砕いて表現すると、
「俺はこのゲームをやるからには全て勝つつもりでやる。何をしてでも勝つ」
という感じです。
この考えは今から思い返せば非常に赤面ものです。
考え自体は間違ってないとは思うんですけど、それのために努力したベクトルがおかしかった。
例えばバルログならば、ヒョーをひたすら研究し続けました。
相手の取る全ての選択肢を先読みし、それに合わせてヒョーの動きを変える。
対空昇竜を出してくるならば手前落ちを狙うし、アッパーで返そうとするならばヒョーの開いた手の先端を当てる。前転にはイズナ。バックジャンプや垂直ジャンプには高いところで手を開いて早めに攻撃判定を出す。
今は画面端からの脱出か、不意をついてたまに出すかしかないんですけど、昔はただ「勝たなければならない」という考えのために、差し合いというものも考えないでこういう動きのみを研究し続けていました。
他、バルログや京、ナコルルの三キャラ総てにいえることですが、研究し続けたのはぶっ放しのタイミング。
その頃は使っていて気付かなかったのですが、ナコルルのスパコンは非常に隙が短い。よく考えれば京の大蛇薙も反撃しにくいですし、バルログのレッドインパクトも座高が少し高い相手にはガードさせれば隙なし。
ぶっ放しのタイミングを考え続けた結果、まずぶっ放しをしやすいキャラというものを自然と選んでしまっていたわけですね。
こういうウザい戦法に変化をつけるためにもバルログを抜いたわけですが、今この上の文章を見返しても赤面してしまいます。
俺がぶっ放しスパコンやオリコン、果てには昇竜までを嫌うのは、昔のこういう自分が思い起こしてしまうからかもしれません。
これらは「勝たなければならない」という考えのもと作り出された戦法ですが、バルログを抜いてぶっ放し中心の戦法を変えた時から、この考えも少しずつ変わってきました。
今は「勝たなければならない」ではなく、「負けてもいい。クリーンな戦いをしたい」になりました。
この考えに変わってから、少し窮屈にはなりましたが、Kグルーヴを使用していてもCグルーヴ対Cグルーヴぐらいの緊迫した勝負ができるようになりました。
読み合い放棄の起き上がりぶっ放しをやめると、相手の立ち回りの巧さというものを感じるようにもなります。
そしてそれらの人達と戦い続けることが、自分の強さの自信にもなったのです。
と、ここで無駄な武勇伝は終えるのですが、結果として俺は弱くなったと思います。
一行前と矛盾してそうですが、これは事実です。
ぶっ放すタイミングを忘れてしまった。
これは、Kグラーとしては致命的なものなんだと思います。
今、国分寺勢の間ではランバトが行われています。
俺はその中でもぶっちぎり最下位です。
上を目指すならば、自分の考えを再び変えなければならないのだろうか。
先日、立川で大型連勝をしている人の戦法は、まさにぶっ放しスタイルだった。
ぶっ放しは強い上、有効な手段である。
Kグルーヴのゲージ効率や期待値二択を考えれば、これは厳然たる事実です。
ただ俺はぶっ放したことを後から後悔するし、対戦相手も良い気はしないだろうと思う。
ゲーセンで初めて出会った相手とまた合い間みえるためと考えると、ぶっ放しは決して有効な手段ではない。
そして自身のぶっ放し許してしまうと、確定状況を作るという能力も欠如してしまうだろう。
しかし今はランバト中だ。
上を目指すことと技術の向上を別物として考えると、ランバトではぶっ放すことが恐らく許されるはずだ。
だけど、まだ考えはまとまらない。どっちにすればいいのかも悩む。
次のランバトは、もう目の前だというのに。