唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山東 梁崇義の乱①②

2023-01-18 08:57:11 | Weblog
簡単に動揺する皇帝によって山東節度使來瑱は、転任・復任・昇進とそれぞれ異例の意味の解らない待遇を受け、結局、賄賂を断られた宦官程元振の誣告により、寶應2年正月殺されてしまいました。軍人達は朝廷に不信感をいだきましたが、もっとも衝撃をうけたのは山東軍です。來瑱は山東の將士の人望が厚かったのです。

寶應2年閏正月
山東將梁崇義は羽林軍より來瑱に従い山東にうつり右兵馬使となっていました。崇義は武勇に優れ衆心を得て鄧州に鎮していましたが報を聞くと襄州に入りました。
瑱の死で山東軍は統制が乱れ、行軍司馬龐充は追い払われ、左兵馬使李昭、副使薛南陽と崇義が争い、結果として衆心が集まった崇義が立ち、昭・南陽は殺されました。
崇義の自立を聞いても、朝廷は伐つこともできず追認するしかありませんでした。

寶應二年三月
崇義は襄州刺史山南東道節度使となりました。瑱を敬愛する崇義は収葬し祠を立て、正堂に像を置きました。
崇義は貢賦を収めず、官吏を自補し、半独立体制をとりました。


山東 梁崇義の乱②

山東節度使梁崇義は襄、鄧、均、房、復、郢六州で自立し淄青・河北三鎮と結んでいましたが、他とは離れ、勢力も弱いため露骨な反唐姿勢はとりませんでした。

建中2年3/4月
德宗皇帝は崇義に入朝を求めました。入朝して殺された來瑱の例もあり懼れていました。また平章事として使相となるのも來瑱と同じです。使者も涇原で乱した劉文喜を陥れた李舟でした。

隣接の淮西節度使李希烈は活躍の機会を求め、山東を併呑しようと崇義討伐を盛んに求めていました。

朝廷は崇義の勢力を削るため、山東將藺杲を鄧州刺史に任じましたが、杲は従いません。

建中2年5/6月
淮寧軍節度使李希烈は漢南北諸道都知兵馬招撫處置等使となり崇義征討を命ぜられました。

建中2年7月
希烈は長雨のため逗留し、宰相盧杞は希烈の起用に反対した楊炎のせいだと誣告し陥れました。

建中2年8月
崇義は先手をうって荊南江陵を攻撃しましたが大敗しました。

李希烈は諸道軍を率い、崇義將翟暉・杜少誠を蠻水に大破して降し、それを先鋒として襄陽を攻撃しました。山東軍はたちまち崩壊し、崇義は自殺しました。

希烈は山東を併呑するつもりでしたが、朝廷は李承を節度使として送り、希烈には平章事を与えただけでした。希烈は憤懣を抱きましたが、老練な李承の術策には勝てずしぶしぶ撤退しました。

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