唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宰相 元載の変

2023-01-22 08:33:53 | Weblog
理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。

大暦12年3月
代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。

大曆12年4月
清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。

大曆12年5月
代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を破壊し、側近卓英倩等を殺しました。
弟英璘は金州で乱しましたが、刺史孫道平が平定しました。

附.元載の勢威についての話
地方方鎭・官僚からの貢物は載を第一とし、代宗を第二としていました。
載の末の一族で官を求めて地方から京師にでてきた某がいました。
まったく才能がなかったのか、載に放置され持ってきた財物が尽きてしまいました。
某は載の子に泣きつき、子は載にとりなしましたが、
「あの無能さではなあ、まともな官は務められないだろう」という返事でした。
それでもと願うと、「幽州節度への使いにでもするか」とし手紙をわたされたそうです。
某は不満でしたが、泣く泣く幽州に赴きましたが、使いの主旨を聞かされておらず不安でした。
そこで密かに手紙を開けてみると、白紙が数枚で、末尾に載の自署があるだけでした。
某は当惑しましたが、どうする才能もないため、怯えながら幽州府につきました。
府では載の使いということで丁重に扱われ、幹部官僚に手紙が渡ります。
節度使や幹部達も手紙を見て当惑しました。
「これはどういうことだ?」「載殿の自署は間違いないが」
府には暴かれたくない秘密が多々あります。「どの件だろう」「あれなら大変だが」・・
結論は「白紙ということは、贈賄したらなにもなかったことにするということ」となりました。
戦々恐々と待つ某に、載への莫大な貢ぎ物が渡され、某へも多くの物が渡されました。
復命した某は財を持って郷里にもどったそうです。
元載の権威がいかに強かったかがわかります。

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