唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山西・興元の軍乱

2023-01-26 08:52:51 | Weblog
李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。

劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。

大和4年2月
山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。

叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。

尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。

大和4年3月
造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西都將衛志忠の兵と会し、興元府に入りました。
そして新軍兵800を集め志忠兵に包囲させて悉く殺しました。
叔元は康州に流罪となりました。


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