唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

顯慶二年~五年 西暦657~660

2020-05-20 10:01:14 | Weblog
顯慶二年 西暦657
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八月丁卯,貶韓瑗為振州刺史,來濟為台州刺史。許敬宗を宰相に。
武后は長孫派の宰相達を左遷し、自派の敬宗を宰相としました。

十二月丁巳,蘇定方敗賀魯于金牙山,執之。分西突厥地置濛池、昆陵二都護府
西突厥が一応平定され、唐朝直轄となりまし。

十二月丁卯,以洛陽宮為東都。
高宗・武后は貴族勢力の強い長安を嫌い、洛陽を好みました。また關内は貧しく、兵が多いので食料が不足がちで、江淮からの供給がある東都に滞在する必要もありました。

顯慶三年 西暦658
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正月戊申,楊胄及龜茲羯獵顛戰于泥師域,敗之。
龜茲を完全に支配し、安西都護府を移した。高昌は西州としました。

十一月乙酉,貶杜正倫為橫州刺史,李義府普州刺史。
義府が専横なため、正倫が弾劾し争いとなった。両者が左遷されたが、武后の引きのある義府はまもなく復帰することになりました。

顯慶四年 西暦659
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三月壬午,昆陵都護阿史那彌射及西突厥真珠葉護戰於雙河,敗之。
西突厥の残党はまだ蠢動しています。

四月戊辰,流長孫無忌于黔州。于志寧罷。
武后はついに無忌とその族を追放し、両端を保った志寧を罷免しました。

七月、殺柳奭、長孫無忌。
武后はこれからも敵を徹底的に追いつめて行きます。

八月壬子,李義府為吏部尚書、同中書門下三品。
武后により義府は復帰しましたが、高宗はその貪汚を快く思っていませんでした。

顯慶五年 西暦660
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三月辛亥,蘇定方,新羅王金春秋率三將軍及新羅兵以伐百濟。
高麗の同盟国である百済を新羅と共に討伐することになりました。後援を断つためです。

戊辰,定襄都督阿史德樞賓為沙磚道行軍總管,以伐契丹。

七月乙巳,廢梁王忠為庶人。
武后の怖いところは、スターリン的に執念深くじわじわと段階的に追いつめていく所です。最終的には殺しますが。

八月庚辰,蘇定方及百濟戰,敗之。
十一月戊戌,蘇定方俘百濟王以獻。
百済は意外に簡単に滅亡します。しかし残党はまだまだ抵抗します。

十二月壬午,契苾何力,蘇定方,劉伯英,以伐高麗。
百済征討の勢いに乗って高麗を攻めます。

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