唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

乾寧二年 西暦895年

2020-08-27 10:00:48 | Weblog
乾寧二年 西暦895年
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正月壬申,護國軍節度使王重盈卒,其子王珂自稱留後。
珂は重盈の兄重簡の子で養子となっていました。実子の陝虢節度使珙や瑶は、豊かな河中節度を珂が継承したのが不満で、朱玫や朱全忠に依頼します。珂は李克用の娘婿ですので、その後援を受けています。周囲の勢力は河中の塩池の利権を巡って蠢動します。

二月乙未,太子太傅李磎為戸部侍郎同中書門下平章事。
三月,崔胤、李磎罷。戸部侍郎、判戸部王搏為中書侍郎、同中書門下平章事。
唐朝の宰相は周囲の藩鎭の支援で決まります。昭宗が望んだ李磎は朱玫が拒否して辞めさせられます。
崔胤は全忠派、王摶は茂貞・朱玫派です。

五月甲子,靜難軍節度使王行瑜、鎮國軍節度使韓建及李茂貞犯京師,殺韋昭度、李磎。
河中継承の提案を唐朝が受け入れないのが不満な茂貞・行瑜・建等は京師に侵入してきました。

是月,李克用陷絳州,刺史王瑤死之。
克用もまた河中に干渉し、実子瑤を敗死させます。

七月丙辰,李克用以兵屯於河中。戊午,匡國軍節度使王行約奔于京師。
克用はさらに進出して実力で河中を抑え、行瑜の弟である同州行約を駆逐します。

十月庚申,左右神策軍護軍中尉駱全瓘劉景宣、指揮使王行實李繼鵬反。行在莎城。
行瑜・茂貞派は昭宗を拉致しようとしますが、昭宗は莎城へ逃れ、克用の支援を求めます。

八月戊戌,李克用為邠寧四面行營招討使,鄜坊李思孝,夏綏李思諫,涇原張鐇為招討使。
辛丑,李克用為邠寧四面行營都統討朱玫・李茂貞。
克用軍は京師に侵攻し、昭宗を擁して玫・茂貞を討伐します。華州韓建はたちまち降っています。

八月李繼鵬伏誅。赦李茂貞。
養子繼鵬に罪を押しつけ、茂貞は表面上謝罪して赦されました。

八月壬子,崔昭緯罷。
玫・茂貞の手先昭緯が解任され、後日殺されます。
九月丙辰,徐彥若為司空。
十月丙戌,李克用及王行瑜戰於梨園,敗之。庚寅,王行約焚寧州以逃。
十一月丁巳,李克用及王行瑜戰于龍泉,敗之。丁卯,王行瑜伏誅。
朱玫・茂貞軍では勇猛な克用軍に敵うはずもなくたちまち追い詰められ殺されます。

十一月乙未,進李克用爵晉王、太師。
克用の絶頂期です。河北・河東・關内の大半が彼の勢力圏となりました。克用は茂貞も討つことを提案しますが、克用の巨大化を懼れた昭宗は認めませんでした。これは後に悔いを残すことになります。

十一月丁丑,王建陷利州、閬州、蓬州、渠州、通州。丙申,建寇梓州。
西川王建はどさくさにまぎれてどんどん茂貞領を奪います。克用に圧されて茂貞は動けません。

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