唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

順宗・憲宗年表集約分

2020-02-20 10:00:00 | Weblog
ブログの構造上、逆進で読まねばいけないのはわかりにくいので、統合し集約しました。
内容の大きな変更はありません。
次回は穆宗では芸が無いので、あまり取り上げられない、唐最後の名君「宣宗」を予定しています。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805
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正月即位後27年を迎えた64歳の德宗皇帝は重病となった。
 ところが45歳の皇太子もまた重病で見舞いをすることすらできない状況であった。

正月癸已、德宗は太子の状況を悲歎しながら崩御した。

[当時の環境]
・官僚は、德宗晩年の停滞し姑息な治政に辟易し、特に皇太子周辺の若手官僚達は代替わりの期待しているが、皇太子の病状には動揺していた。
・河北や淄青・淮西など藩鎭は德宗の無為無策な政策に安住し特段の動きはなかった。
・他の方鎭は長期の在任が続き停滞していた。
・唐の財政はやや回復し再び軍事行動が可能になってきていた。
・皇太子の継承に対して病状を案じた宦官等より異論があったが、遺詔を奉じた翰林學士衛次公はこれを 威圧、しかし動揺が広がったので、皇太子は病状をおして九仙門に出御し、軍幹部を謁見し鎮静化させた。

正月丙申、皇太子は太極殿に即位[順宗とする]し、姿をみて群臣・兵士は安堵した。
 しかし順宗の病状は口もきけず寝たきりで、宦官李忠言と昭容牛氏が介助しなければ政務はとれなかった。二人と連携した翰林待詔王叔文王伾は、韋執誼や韓泰、柳宗元、劉禹錫など少壮官僚とともに積極的な新政を進めようとしていた。

二月、淄青平盧節度使李師古や淮西節度使呉少誠は、喪に乗じて東都をうかがったが、宣武節度使韓弘は同ぜずこれを阻止した。

二月辛亥、韋執誼が宰相となった。
 黒幕の王叔文・王伾はその身分上[正規の官僚出身ではなく、叔文は囲碁等をつうじて順宗の信任を得て、相談役となっていた]、表にはでれないので傀儡として少壮官僚の筆頭格である執誼を宰相とした。

二月辛酉,京兆尹道王實を更迭した。後任は王權である。
 實は圧政をしいていたので、庶民への人気取りである、権限が大きい京兆尹を自派で固めた。

二月壬戌、叔文は左散騎常侍翰林待詔、伾は起居舎人翰林學士等、自派の要職への登用を行った。
 
二月甲子、大赦が行われ、不要な役人・宮女の整理、減税、貢献の廃止等が矢継ぎ早に布告された。
 有力な節度使[義武軍張茂昭・西川韋皐・淮西吳少誠等々]への加官も実施。偏執頑迷な德宗が処罰後に長く赦さなかった陸贄、鄭餘慶、韓皋、陽城等も赦され召還された。

三月丙戌、浙西觀察使李錡の諸道鹽鐵転運使兼任が解かれ、宰相杜佑が就任した。
 中央への利権の回収であり、杜佑は傀儡で実権は副使の王叔文が握った。李錡は極めて不満であったが、鎭海軍節度使に格上げされたので我慢していた。

三月癸巳,順宗の長子廣陵郡王純を皇太子とした。
 順宗の病状は悪化し、宦官や官僚は憂苦し、また王叔文一党の専権を嫉視した宦官幹部の俱文珍、劉光琦、薛盈珍は中堅でしかない李忠言を圧伏し、不満派の翰林学士鄭絪、衛次公、李程、王涯を使嗾して立太子させた。当時、宰相執誼は叔文の走狗であり、賈耽・高郢・鄭珣瑜などは無力であった。

四月壬寅、弟二人や子十九人を王に封じた。
 唐では皇子[親王]は玄宗初期以降、正規の官職にはつかず、地方赴任もなく、封地もなく[これは唐初より]、税金に頼る京城の遊民と化した。王府の属官も単なる名誉職となり満足に充足されなかった。宦官が日常の世話をし、系図上でも孫以降はろくに記載も無い。そのため唐末の一例を除き、擁立されることもなく王朝の消滅ととも に簡単に消え去ることになった。但し、初期の親王の後継である嗣王は例外的に正官に任用されることもあった。[嗣虢王.嗣薛王.嗣覃王など]

五月辛未,右金吾大將軍范希朝を左右神策京西諸城鎮行營節度使に任じた。
 王叔文らは、親衛軍である神策軍を支配する宦官の兵権を奪をうと画策した。そこで当時の名将と呼ばれた希朝に副官として同派の韓泰を附け諸軍を奉天城に招集した。しかし幹部宦官はその計画を察して、諸軍に招集に応じないように命じた。結果として奉天には軍は集まらず、宦官達の反感をかうだけになった。

五月辛卯,王叔文は戸部侍郎となり、判度支、鹽鐵轉運副使を兼任し財政権を握った。
 しかし宦官俱文珍等は画策し、順宗皇帝との連携手段である翰林学士を削った。狼狽した叔文派は強請して「三五日一入翰林」の名を得た。

六月癸丑,西川節度使韋皐、荊南節度使裴均、河東節度使嚴綬などが上表して、皇太子への譲位を求めた。
 当然地方官が順宗の病状の実態を把握しているはずはなく、叔文に反対する宦官や官僚の画策によるものである。
 宰相韋執誼は形勢不利とみて、派より離脱を図り叔文と争うことが多なった。

六月丁巳,叔文は母の重病→死により官を去り喪に入った。
 反対派は皇太子の擁立を図って蠢動し、焦った叔文は宰相となり、軍を掌握しようとしたが、宦官勢力は重病の順宗に取り次がす却下させた。叔文派王伾・陳諫等は一掃されることになった。
 
七月癸已,河北五鎭の一つ橫海軍節度使程懷信が卒し、子の執恭が自立した。
 横海軍は滄景二州のみを領する小鎭であるが程日華→懷直→懷信と自立してきた。河北の藩鎭としては義武軍と同様に反唐朝姿勢は弱い。

七月乙未,皇太子が監國することになった。
 意識のない順宗の病状に乗じた宦官俱文珍等の画策である。

太常卿杜黄裳、左金吾大將軍袁滋が宦官勢力に推されて宰相となり、德宗以来の宰相鄭珣瑜や高郢は解任された。

八月庚子、皇太子[以降憲宗という]が即位し、順宗は太上皇となり、興慶宮に遷った。
改元して「永貞」となり、皇太子の母良娣王氏は太上皇后となった。
 →順宗は元和元年[806年]正月に崩御する。

八月癸丑,劍南西川節度使韋皋が卒し,行軍司馬劉辟が自立する。
 西川は唐にとっての要地であり、安史の乱でも避難の地となり、奉天の変でも後背となった。また唐末でも避難の地となった。しかし永泰元年[765年]に武将崔寧が自立し、大暦十四年[779年]に寧が帰順して一旦回復したあと、興元元年[754年]に文官韋皐が赴任し、対吐蕃防衛で大きな功績[南詔と同盟し、吐蕃を大破し、失地を回復し強護な防衛戦を築いた]をあげていった。そして引き続き吐蕃防衛の為と称して租税を上納せず、地方官人事を専権していった。姑息な德宗皇帝はなにもできず見守るだけであった。閉塞した朝廷とは違い、威權のある韋皐の下、西川には多くの若手俊英官僚が集まっていった。劉闢はその筆頭格であり、盧文若、房式、韋乾度、獨孤密、郗士美、段文昌など後日にも活躍する人材を輩出していた。

八月壬午,奉義軍安黄節度使伊慎入朝し、十二月に右僕射となる。
 伊慎は対淮西[呉少誠]対策として、南部戦線の安黄二州に設置された奉義軍節度使の武将である。安黄二州は鄂岳觀察使韓皋が統合することになったが、安州はこの後も慎の子宥が安州留後として継続統治、やっと五年十一月に新任觀察使郗士美が、宥母の喪を理由に解任した。右僕射は高官であるが宰相ではなく名誉職である。

八月辛卯,夏綏節度使韓全義入朝する。
 韓全義は神策軍出身の武将で、宦官と結託し、淮西呉少誠討伐の主帥となったが、殷水で壊滅的な敗北をして逃げ帰った。宦官達は自分たちの責任もあったため、直接夏州に帰任させてごまかし、無気力な德宗皇帝は実情を知らなかった。德宗 以外はそれを知っていたため、当然憲宗もまた知っていた。全義は懼れて入朝し、太子少保致仕として処罰されることだけは避けて引退することになった。しかし甥の楊恵琳を夏州留後としており問題は続いている。

八月己未,宰相袁滋を劍南東西川山南西道安撫大使とした。
 自立した西川劉闢は追認を求めた。唐朝は新帝が即位したばかりでなかなか方針が統一できず、当面宰相袁滋を派遣して様子をみることとした。当時の宰相は賈耽は德宗以来の姑息な傍観派、杜黄裳は強硬な鎮圧派、袁滋は融和派、韋執誼は失脚寸前で発言権のない状況であり、憲宗は即位したてで決断できなかったようである。

八月癸亥,尚書左丞鄭餘慶が宰相となった。
 餘慶は正論を好む強硬派で討伐派が増加した。

九月己卯,王叔文派の少壮官僚韓泰、韓曄、柳宗元、劉禹錫、程异を左遷した。
 德宗の緩んだ治世に耐えきれず、有能な若手官僚が叔文についていたが左遷されることになった。これより長く貶せられ、劉禹錫や程异のように再び起用されるものもいたが、詩人柳宗元のように貶地で卒することななったものもいた。

十月丁酉,宰相賈耽が卒し、姑息派はまた減少した。

十月戊戌,安撫使袁滋を劍南西川節度使とし、劉闢の継承を認めず給事中として召還した。
 黄裳や餘慶など強硬派が強くなり、融和派の袁滋に解決を押しつけた。給事中は位階は低いが要職であり、文官として本来の劉闢の立場からは栄転である。

十一月壬申,宰相韋執誼が崖州司馬に左遷された。
 叔文の党であったのでいずれ左遷される運命であった。杜黄裳の婿であるので猶予されていた。前回左遷された叔文党派はさらに辺地へ左遷されていった。

十一月戊寅,新任西川節度使袁滋が吉州刺史に左遷された。
 劉闢の討伐に反対で、消極的で攻撃しようとしなかったため罷免された。

十一月回鶻懷信可汗が卒し、その嗣子である騰裡野合俱錄毘伽可汗が立った。
 唐と回鶻は同盟関係にあり、この時期は安定した関係になっていた。

十二月己酉,やむなく新任給事中劉闢[不受命]を西川節度副大使知節度事とした。
 衆論が一致しないため、德宗時代の姑息な政策にもどり現状を追認した。しかし強硬派の韋丹を東川節度使として劉闢を牽制することにはした。

十二月,翰林學士鄭絪を宰相とした。
絪は政策がなく、宰相の員数として黄裳の伴食として存在するだけであった。

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元和元年 西暦806
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正月丙寅、改元[永貞→元和]
 通常即位の翌年改元する。

正月甲申,上皇[順宗]が興慶宮で崩御した。

・西川劉闢は節度使を与えられたことに満足せず、東川節度を同僚の盧文若にすることを要求し拒否されると、東川節度使李康を梓州に攻囲した。

正月戊子,憲宗は激怒し、強硬派宰相杜黄裳、翰林学士李吉甫の献言を入れ、長武城に屯する左神策行營節度使高崇文を主将として神策軍を率いて劉闢を征討させた。
 当時秦州劉澭や范希朝など高名な将軍は何人もいたが、黄裳は敢えて生粋の武人である崇文を推薦した。これは朝廷政治のしがらみを考慮せず、ただ征討に専念せよというねらいであった。崇文は命を受けて即日全軍を率いて出征した。

その頃劉闢軍は梓州を陥し、節度使李康を捕らえた。

二月山西節度使嚴礪は西川劉闢下の劍州を陥し、刺史文德昭を殺した。

三月丙子,高崇文は東川の治所梓州を回復した。
 劉闢軍は戦わず撤退した。捕らえられていた前節度使李康は解放された、通鑑では責任を問われ処刑されたとなっているが、旧紀では雷州司馬に左遷されたことに。旧紀では嚴礪が陥したことになっているがこれは上奏しただけであろう。

三月丁丑,劉闢の官爵を削った。
 正式に叛臣ということになったわけである。単なる形式だが。

三月辛巳,夏綏節度使韓全義が入朝したあとは将軍李演が任ぜられた。
 しかし全義の甥楊惠琳は従わず自立した。朝廷は河東、天德の軍を派して討伐に向かわせていたが、いち早く夏州兵馬使張承金が惠琳を殺して帰伏した。

三月戊申,隴右經略使秦州經略使劉澭を保義軍節度使に昇格させた。
 領州は秦州のままである。河北の幽州節度使劉濟の弟で、兄と争い麾下二千を引き連れて唐朝に帰服していた。唐朝は有能な澭を対吐蕃対策として秦州に置いており、今回の劉闢討伐も澭が担当するのが当然と思われていた。この処置は澭の不満を慰撫するためである。澭が起用されなかったのは朱泚の前例を怖れたのかもしれない[德宗の建中年間、幽州節度使朱泚は入朝し、対吐蕃防衛にあたっており、西川への対吐蕃防衛にも出動した、しかし四年反して京師を陥し、德宗は奉天城に遁走する事態になった。]

四月丁酉[通鑑]/三月壬辰[旧紀],高崇文は東川節度使となった。
 韋丹は李康の後任として節度使となっていたが、崇文軍に根拠地を与えるべきだと上奏して認められた。丹は晉絳観察使に転じた。

五月庚辰,宰相鄭餘慶が罷免された。
 事務官の主書滑渙が宦官劉光琦と結託し専権し、宰相杜佑、鄭絪等はこれに媚びていたが、餘慶は同ぜず渙を叱責排除したため、、宦官勢力により罷免された。

六月癸己、冊太后により大赦。

六月丁酉,高崇文は鹿頭關に劉闢軍を破り、癸卯,漢州を収復した。
 山西嚴礪もまた劉闢軍を綿州石碑谷に破った。

閏六月壬戌朔,淄青平盧軍節度使李師古が薨じた。
 淄青平盧軍は山東十二州を領する大藩で、正己→納→師古と三代にわたり自立していた。師古もまた不順であったが、唐朝はその勢力わ怖れて侍中に任じて優遇していた。師古は弟師道と不和であったので、自分の死後に師道が継承することを嫌っていたが、幕僚達は擁立することにした。

七月癸丑,高崇文は劉闢軍を玄武に破った。

八月丁卯、皇子七人を親王に封じた。

八月己巳,李師道を平盧留後知鄆州事に任じた。
 宰相杜黄裳は劉闢討伐が完了していないため、師道の継承を上奏し、憲宗はやむをえず認めた。

九月辛丑,主書滑渙の収賄が発覚し殺された。
 しかし宦官達には処罰はなかった。

九月壬寅,高崇文はまた劉闢軍を鹿頭關に、嚴礪軍は神泉に破った。
闢將李文悅や仇良輔は崇文に降り、辛亥,西川の治所成都を制圧した。劉闢は捕らえられ、盧文若は自殺した。

・西川の幕僚房式、韋乾度、獨孤密、符載、郗士美、段文昌達は降り、京師に送られた。
韋皐が集めた有能な幕僚達であったので処罰されず憲宗・穆宗時に重用された。

十月甲子,河北五鎭のひとつ義武軍易定節度使張茂昭が入朝した。
 茂昭は父孝忠とともに建中河北の乱にも唐朝に味方していたが、入朝したことはなかった。当時、横海軍滄景と義武軍易定の二小鎭は唐朝に近く、成德王士真や幽州劉濟や魏博田季安も露骨な反旗を示すことはなかったが、唐朝に帰服しようという状況ではなかった。

十月丙寅,功績により高崇文が西川節度使になった。
 文盲で生粋の軍人である崇文にとっては、行政官で繁雑な政務がある節度使任命はありがた迷惑だったかもしれない。
 
十一月戊申,徐州武寧軍節度使張愔が病により交代を求め、東都留守王紹に代わった。
 また以前のように濠、泗二州を武寧軍に加増した。軍士は増領を喜び軍乱を起こさず紹を受け入れた。貞元十六年[西暦800年]徐泗濠節度使建封が卒すると、軍士は交代の節度使韋夏卿を受け入れず、建封子の愔を擁立した。徐州は対淄青平盧の最前線であり、江淮から東都への漕運の防衛拠点であるので重兵を置いていたのが仇となり唐朝は制圧できなかった。結果として徐州は愔の支配下に、他の二州は取り上げて淮南節度使に所属させていた。愔はよく統治していたが、徐州一州では財政的に苦しく、重病でもあるので奉還することになり、工部尚書となったがまもなく卒した。

十一月丙辰,宦官内常侍吐突承璀が左神策中尉となった。
 承璀は憲宗のお気に入りで、やっと軍權が旧德宗勢力から憲宗に移ったということである。德宗中期より、宦官が神策中尉となり親衛軍を支配し大きな権力を得るようになった。偏狭な性格の德宗皇帝が建中年間に諸将の反乱を受け、軍人に不信感を抱き、親任する宦官達を起用したことによる。

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元和二年 西暦807
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正月乙巳、宰相杜黄裳が同平章事河中晉絳慈隰節度使となった。
 有能な黄裳は劉闢討伐を主唱し功績を上げたが、主導権を握りたくなった憲宗配下の李吉甫や武元衡と合わなくなり、早期に身をひいた。宰相が辞めて出鎭する場合、同平章事がつく(使相という)場合は左遷ではないという慣例になっている。

正月己酉,戸部侍郎武元衡と翰林學士李吉甫が代わって宰相となった。
 本格的な憲宗政治の開始である。武元衡は執誼から排除され、吉甫は德宗時は長期間任用されず僻地に置かれていた。

八月幽州劉濟、成德王士真、易定張茂昭の河北の方鎭が私闘し、互いに告発しあった。
 唐朝はその間隙をつき、主導権をとろうとしていった。

九月浙西節度使李錡が入朝を求め、意に反して許可されると反した。
 錡は德宗時代は富裕な浙西に圧政をしき、激しい収奪をしては、一部を皇帝に直接上納するなどして放任されていた。ところが憲宗になり、劉闢・楊惠琳が誅されるのを見て怖れて形式的に入朝を求めて上意を窺った。藩鎭強硬派武元衡達は錡を罷し、左僕射という名誉職に転じさせようとした。錡は激怒して牙軍を指嗾して乱を起こし、支配地域の蘇、杭、湖、睦州を制圧しようとしたが唐朝は予期しており戦果はすくなかった。

九月乙丑,李錡の官爵を削り、淮南節度使王鍔を統諸道兵為招討處置使として,宣武、義寧、武昌、宣歙、江西,浙東軍を率いて討伐させた。
 王鍔は軍人出身であり、李錡の反乱を予期して配置されていた。

十月癸酉,李錡將張子良等は反して、錡を捕らえた。十一月誅殺された。
 浙西将張子良、李奉仙、田少卿等は、宣州攻撃を命ぜられたが、すでに唐朝が反乱を予期して対応を取っていることを察し、錡を見捨てて帰朝することにした。子良達は厚く賞された。

十月丁卯,宰相武元衡が門下侍郎平章事西川節度使として赴任した。
生粋の軍人高崇文は西川節度使になったが、文盲でもあるので典礼や文治に辟易し、辺境の防衛に戻してくれることを請願した。西川の順地化は唐朝の急務であるので信任厚い元衡を派遣して統治させることとした。単なる宰相解任ではなく現役の門下侍郎を付帯した使相という形をとった。崇文は対吐蕃前線の同平章事邠寧節度使諸軍都統として優遇された。

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元和三年 西暦808
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九月庚寅,山東節度使于頔が司空同平章事として入朝した。
 反抗的な淮西吳少誠と隣り合う山東節度使として德宗時代には横暴を極めた頔だが、憲宗に代わり、劉闢・李錡が討伐され、伊愼や韓全義が入朝するのをみて不安を感じた。そして子季友が憲宗の公主(娘)と結婚することを期に帰朝することとした。位階は高いが実権のない宰相職として遇せられることになった。代わって山東にには実務派の財政官僚裴均が赴任した。

十一月戊戌,宰相李吉甫が中書侍郎平章事淮南節度使として赴任した。
 吉甫は有能であり、強硬派として憲宗の親任は厚かったが、他の宰相等との折り合いが悪く問題を生じていた。そこで李錡後の江淮地域の安定のため派遣されることになった。元衡の例で現役待遇である。後任宰相には裴垍があてられた。

・淮南節度使として巨富を築いた王鍔が入朝し、贈賄して宰相となることを求めたがならず、河中節度使に転じた。

十一月甲午,橫海軍節度使程執恭が入朝した。
義武張茂昭についで二人目であり、唐朝の河北への影響力が増大していった。

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元和四年 西暦809
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二月丁卯,凡庸な宰相鄭絪が解任されて閑職の太子賓客となり、強硬派の李籓に代わった。

二月乙酉,河東節度使嚴綬を左僕射とし、鳳翔節度使李鄘と交代させた。
 長期間在任して宦官に頤使されていた綬を、文官強硬派の李鄘に交代させた。河東は昭義節度使と並び河北収復への策源地である。

三月乙酉,成德軍節度使王士真が卒し、子の承宗が自立した。
 士真は父武俊(朱滔を破る大功があり、中書令になった)が卒したとき、既に徳棣觀察使として任用されていて、その継承は当然であった。しかも士真は堅実に統治し唐朝にも融和的であったので在職中はゆるぎなかった。しかし強硬派が主流となり、西川・浙西問も解決した唐朝は承宗への継承をなかなか承認しようとはしなかった。

閏三月丁卯,憲宗長子の鄧王寧を皇太子とした。
 寧は即位できず元和六年十二月に卒した。賢愚は不明。

閏三月辛未,帰服してきた勇猛な沙陀族を河東軍に配属した。
 沙陀は突厥の一族でその崩壊後、吐蕃に帰属していたが、勇猛なため常に先陣に酷使されることに不満を持ち、途次多くの犠牲を払いながらも唐朝に亡命してきた。この配属により河東騎兵軍は飛躍的に強化された。唐末 李國昌・克用などが活躍し五代の「後唐」の基になった。

四月成德王承宗の継承問題の論議が本格化した。
 一般には宦官は唐朝を弱体化させたと言われているが、個々の利権はともかく集団とし ては寄生する王朝権力が強化されることを望み対藩鎭強硬派である。大荘園を所有する文官貴族は、戦乱を望まず融和派となる。宰相裴垍達は財政の悪化を怖れて継承を認めようとしたが、宦官の代表である吐突承璀は憲宗の意向もあって、討伐に積極的であった。そこへ両端に通じた昭義軍節度使盧従史が、みずからの留任のためにと征討を唆した。

六月朔方靈鹽節度使范希朝を河東節度使に移した。
 成徳征討の準備である。

八月成德王承宗は徳棣二州を唐朝下にすることを願い継承を求めた。
 戦乱を嫌う宰相達、迷いのある憲宗、弱気になった承宗による妥協である。

九月王承宗を成德軍節度恆冀深趙州觀察使、德州刺史薛昌朝[河北の旧相衛節度使薛嵩子、王士真の娘婿]を保信軍節度德棣二州觀察使とした。
 大鎮を分割する実利と、功績がある王氏一族を遇する妥協案であり、憲宗は不本意であるがこれで解決すると思っていた。

・承宗德州に派兵、昌朝を捕らえ、朝命を奉ぜず。
 王氏一族はともかく、領州を失う牙軍は同ぜず、同様の処置を懼れる魏博節度使田季安の協力を得て拒命し反旗を翻した。

当時の成德以外の方鎭の状態は以下のようである。
[自立藩鎭]
幽州 劉濟 唐朝を利用して南下し勢力拡大を図る
魏博 田季安 承宗を支援する、牙軍は強力だが本人に軍才はない
義武 張茂昭 唐朝方だが勢力は弱い
横海 程執恭 唐朝方、弱小で地理的に不利な状態。
淄青 李師道 承宗を支援するが、継承後でまだ不安定
宣武 韓弘 唐朝方、淮西や淄青を牽制はするが積極性はない
淮西 吳少誠 承宗を支援するが当時は病気で動きにくい。

[唐朝方鎭]
河東 范希朝 軍人.過大評価されている面がある。
河中 王鍔 軍人というより政將的色彩が強い
武寧 王紹 文官
昭義 盧従史 半文官.承宗に通じている
淮南 李吉甫 文官
西川 武元衡 文官
山東 裴均 文官.財政官僚

・保義劉澭は二年十二月、邠寧高崇文は四年九月に卒している。

十月癸未,宦官である左神策軍護軍中尉吐突承璀が神策軍等の兵を率いて王承宗を征討へ。
 ろくな将軍がいない唐朝であるが、監軍ならともかく主将が宦官というのは、玄宗時代に反乱した諸蠻族を討った楊思勗以来である。当然官僚は騒然となり反対論が噴出した。しかし憲宗は押し切り、周辺の藩鎮に成德征討を下命した。魏博田季安は当然成德を支援し、幽州劉濟は討伐に協力する姿勢を見せた。

十一月己巳,淮西節度使呉少誠が卒し、麾下の將の吳少陽[少誠の親族ではない]が自立。
 成德王承宗問題が解決しない間に、新たに淮西継承問題が勃発した。しかし少陽は少誠の親任が厚かったとはいえ、反唐的な少誠の子元慶を殺して自立したため、唐朝は微妙な立場となった。少陽も当然唐朝にすり寄る立場を示した。

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元和五年 西暦810
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正月幽州節度劉濟は自ら王承宗軍を討ち、深州饒陽、束鹿県を抜いた。
 河東、河中、振武、義武の四軍は定州に集合し成德へ侵攻しようとしていた。

正月丁卯,河東將王榮は洄湟鎮を抜く。
 征討が成功しているようだが、実情は宦官吐突承璀は統帥力がなく、敗戦が続き、実戦の大将である酈定進が敗死する状況であつた。

三月己未,以吳少陽を淮西留後とした。
 成徳征討が進まないので、二正面となる淮西征討は困難であったため。

・昭義節度使盧従史は、成徳征討を主唱したにもかかわらず、承宗に通じていてはかばかしい攻撃をしなかった。そのため承宗軍には余裕があった。怒った憲宗は従史を解任し捕らえて京師に送らせた。

四月丁亥,河東范希朝、義武張茂昭軍は承宗軍を木刀溝に大破した。
 実情は、勝利はしたのだろうが大勢に影響なしである。

五月乙巳,従史の党である昭義軍三千餘人が魏州に逃亡した。
 征討どころではなく、ボロボロである。

・幽州劉濟が深州安平県を抜いた。
 濟だけが着々と戦果を上げている。

七月庚子,王承宗が遣使して盧從史に全責任を押しつけて、表面上は謝罪した。
 淄青李師道なども取りなし、征討軍は敗北し、昭義軍は動揺しているので、宰相達は妥協を求めた。憲宗も含め強硬派は後退するしかなかった。

七月丁未,承宗を赦し、成德軍節度使とし、德棣二州も帰属させた。
 唐朝の完敗である。承宗は捕らえていた薛昌朝を釈放する条件だけであった。

七月乙卯,幽州節度使劉濟が、次子總に毒殺された。
 征討軍の中で唯一戦果を上げていた濟[中書令を加えられた]だが、長男緄に幽州の留守を任せていた。次男總は側近と共謀して緄が自立して、唐朝もそれを認めたという流言を巻き、狼狽した濟を毒殺した。そして緄をも反したとして殺し自立した。

九月辛亥,吐突承璀は左軍中尉に復した。
 宰相官僚はその失策を弾劾したため軍器使に格下げになった。しかし憲宗のお気に入りである承璀はまもなく復位する。

九月丙寅,太常卿權德輿が宰相となった。
 文人としては優秀だが政略はなかった。

九月義武軍節度使張茂昭は易定二州を唐朝に奉還し、一族を率いて入朝した。
 易定二州は貧しく、巨大藩鎭の間に自立していくのは困難であった。成德征討でも戦果を上げられず、その限界を感じた茂昭は、張氏の将来を唐朝に託した。成德・魏博両鎮は驚愕して制止しようとしたが、直前まで対立関係にあったため、義武牙軍に対する影響力が乏しかった。張氏一族は以降武官として優遇された。後任として文官の任迪簡が行軍司馬として赴任した。迪簡は徳人として有名であり、義武軍を撫したが、不満派の楊伯玉や,張佐元は蜂起して迪簡を捕らえた。しかし牙軍主流派は反乱軍を討った。やがて資財が到着し、將士を賞賜することができ迪簡は節度使に就任した。以降義武軍は唐朝からの供給を頼りとしその管轄下に定着した。易定二州が唐朝に入ることは成德王承宗にとって河東・昭義・義武の三方から包囲されることになり極めて苦しい状況であった。

十一月庚申,宰相裴垍が疾により辞任した。

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元和六年 西暦811
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正月甲辰,呉少陽が淮西節度使となった。
 成德征討に失敗した唐朝は少陽の自立を追認するしかなかった。少陽は積極的な反抗はしなかったが、協力しようともしなかった。

正月庚申,淮南節度使李吉甫が宰相に復帰した。
 やはりいろいろと問題はあるが剛腕の宰相がひつようであった。吉甫は自派の人材を次々と登用し、財政再建と対藩鎭強硬策をねりなおそうとした。

二月壬申,宰相李藩が罷免された。
 吉甫と合わない藩が排除された。

十二月己丑,吉甫派の李絳が宰相となった。

閏十二月辛亥,皇太子寧が卒した。

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元和七年 西暦812
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六月癸巳,宰相杜佑が老齢により辞めた。

七月乙亥,遂王宥を皇太子とした。
 後の無能な「穆宗」である。しかし生母は元老故郭子儀の孫という名門なので選ばれた。

八月戊戌,魏博節度使田季安が卒し、子の懷諫が自立した。
 本来は魏博征討のチャンスではあるが、唐朝にはまだその力がなく、まだ11才の懷諫の自立を追認しなければならない状況であった。

[河北三大藩鎭+淄青の特徴]
◎.幽州 奚や契丹や新羅という蕃族に接していて、交易で大きな利益を上げる反面、常に緊張状態を維持していた。そのため主帥である節度使は、幼少な者や無能な者は排除されていく傾向が強い。

◎.成德 有力蕃族騎兵軍の連合体の色彩があり、家系が重視される。幼少のものも許される。主帥の王氏は契丹系である。

◎.魏博 田承嗣が徴兵により編成した巨大な牙軍[親衛軍で代々継承している]が支配し、節度使の権力は強くない。無能な主帥の場合はすぐ軍乱が発生する。ただこの時点では田氏が継続支配している。

◎.淄青 安史の乱に遼東半島にあった平盧軍が移動してきた高句麗系の軍閥。朝
 鮮系の李氏の統制が強い。牙軍はさほど力を持たず、富裕で安定している[唐朝に所属することを望んでいない]

・魏博田懷諫は幼弱で、その臣蔣士則が専権し、唐朝も継承を保留したため、牙軍の不満は増し、親族で信 望が高い田興[賜名されて弘正]を擁立した。興は唐朝に従う旨を上奏し承認を求めた。宰相李吉甫・宦官梁守謙は、傍系である興をまず留後として遇し、牙軍の推戴をみて節度使にすること を提案したが、李絳は牙軍の推戴に関係なくいきなり節度使に継承させることで興を感激させるべきと 主張 した。

八月甲辰,興[以降弘正]を魏博節度使とした。

十一月辛酉,裴度が魏博を宣慰し、軍士に厚賞を与え、六州の税を一年免除した。
 牙軍は喜び弘正の権威は確立した。成德や淄青の軍士は動揺することになった。この時、淄青李師道は魏博へ干渉派兵を試みたが、宣武韓弘に威嚇されて断念した。

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元和八年 西暦813
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正月辛未,宰相權德輿が解任された。
 宰相として李吉甫と李絳は論争することが多いが、文人德輿は能力不足で関与できず解任された。失脚したわけではなく以降も禮部尚書・東都留守と任用されている。

二月丁酉,宰相于頔が恩王傅に左遷された。
 頔は山東節度より入朝しも高位にはあるが実権はなにもなく、宦官梁守謙に贈賄して節度使に任命 してもらおうとした。ところが詐欺師梁正言[守謙の親族と称した]や僧鑒虛に騙され、大金を巻き上 げられただけに終わった。それを怒った頔の子敏が正言の奴隷を殺害し遺棄したことが露見したためで ある。また頔の子季友[公主の婿]の不行跡も露見した。

三月甲子,西川節度使武元衡が宰相に復帰した。
 李吉甫が李絳との政争の援軍として復帰させた。
 
十二月庚寅,振武將楊遵憲が乱して、節度使李進賢を放逐した。
 憲宗は激怒して、夏綏節度使張煦に河東軍を指揮させ鎮圧させた。しかし内情は進賢が士卒を虐待 し、遵憲をまともな資財を与えず派遣したことによる。当時対吐蕃防衛に設定された軍備は形骸化 し、供給は諸将に横領され、將士は奴隷のような状態であった。宰相李絳はしばしば問題点を指摘 して争ったが、神策軍を率いる宦官勢力は利権を貪って改善しようとはしなかった。宰相李吉甫も 絳との政争から宦官側についていた。

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元和九年 西暦814
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二月癸卯,宰相李絳が解任された。
 絳は李吉甫や宦官勢力と激しく対立していた。絳がやめると宦官吐突承璀はただちに神策軍中尉に復職 した。唐朝の皇帝は宦官に育てられるために親近感が強い、反面その専権に対する怒りを持つという二 面性を持つが、官僚達もまた信用できないグループであるため、結局宦官に依存する。

六月壬寅,名門貴族張弘靖が宰相となった。
 祖父嘉貞、父延賞と宰相が三代続く名門貴族である。それなりに有能である。

閏八月丙辰,淮西節度使吳少陽が卒し,子の元濟が自立した。
 少陽は兵備を整え、周辺を寇掠するなど反抗的な姿勢を示していたが、簒奪した立場上すぐ反旗を翻 すことはできなかった。淮西は強兵を擁していたが領地は貧しいため拡大傾向は強かった。

閏八月辛酉,河陽節度使烏重胤を懷州から汝州へ移した。
 東都を魏博節度から防禦する河陽軍を、対淮西征討のために移転させた。魏博田弘正への信任と、実戦 能力を持つ河陽軍の転用である。

九月丙戌,山東節度使袁滋を荊南節度,荊南節度使嚴綬を山東節度使へ交代。
 袁滋は統治には優れていたが融和派で淮西への征討に反対していた。

九月丁亥,山東節度使嚴綬が忠武軍李光顏、李文通、烏重胤を率いて淮西を討った。
 嚴綬は高名ではあるが軍才は無い、すでに河東節度でしくじっているが、他の光顏、文通、重胤等 は新進で大将とはなれない。忠武軍は「山棚」などの山岳民を含み、唐朝としては強兵である。

九月丙午,宰相李吉甫が卒し、韋貫之が宰相となった。
 対吐蕃防衛では行き詰まり、淮西征討を主唱していた吉甫が死去した。貫之は融和派である。

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元和十年 西暦815
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二月甲辰,征討使嚴綬は淮西軍に磁丘で大敗した。
 相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無かった。大敗であり淮西軍は東都周辺まで侵掠した。

三月庚子,忠武軍節度使李光顏が吳元濟軍を臨潁等で破った。
 要は光顏が奮戦して侵攻軍を撃退したという程度である。

六月癸卯,強硬派の宰相武元衡が京師で入朝時に賊に襲われ殺害された。
 李師道や王承宗などが派遣した暗殺団が、強硬派の元衡や裴度を、入朝時に襲撃し元衡の殺害に成功した。京師は震駭したが、真犯人を捕まえることもできなかった。

六月乙丑,憲宗は強硬派の裴度を宰相とした。
 激怒した憲宗皇帝はあくまで成德征討を貫くことを示すため、負傷した強硬派の裴度を元衡の後任に登用した。

七月甲戌,武元衡殺害の犯人は王承宗とされ征討されることになった。
 真犯人は李師道の配下ではあったが、憲宗は承宗配下と思い込んだ。

七月丁未,淄青李師道の將訾嘉珍が東都で蜂起したが鎮圧された。
 東都の兵備が虚弱なことを知った師道は、乱を起こし唐朝を恫喝しようとした。なんとか鎮圧はでき、淄青李師道も討伐の対象となった。

九月癸酉,宣武韓弘が淮酉行營兵馬都統となった。
 弘は敗北した嚴綬に代わり征討使となったが、消極的であった。

十一月壬申,李光顏、烏重胤が淮西軍を破った。
 侵攻してきた淮西軍を撃退した程度のものである。

十二月甲辰,武寧將王智興が淄青軍を平陰に破った。
 淄青李師道が徐州に侵攻したのを撃退。もちろんたいした勝利ではない。撃退程度である。

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元和十一年 西暦 816
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正月己巳,宰相張弘靖が河東節度使となった。

正月乙亥,幽州節度使劉總は王承宗軍を冀州武強に破り陥した。
 幽州軍は成徳軍より強い、總は武強を制圧してそこで停止した。唐朝軍のお手並み拝見というところである。
 
二月庚子,王承宗が蔚州を攻撃した。

二月乙巳,李逢吉が相となった。融和派である。

四月、李光顏、烏重胤が淮西軍を、劉總軍や昭義軍や義武軍が王承宗軍を破る。
 いずれも小競り合いであり意味はない。諸将はわずかな功績を過大申告して恩賞をねだるだけである。

五月、李光顏、烏重胤はまた勝ったと上奏。

六月,甲辰,唐鄧節度使高霞寓が淮西軍に鐵城で大敗する。
 唐鄧節度は山東節度を二分割し、軍事行動担当の高霞寓[唐鄧]と、補給担当の李遜[山東]に分割したものであり、霞寓は宦官受けのする神策軍の将軍である。この敗北は本物で唐鄧軍は壊滅してしまった。後任唐鄧節度にまた融和派の袁滋が登用された。

七月壬午,宣武韓弘が淮西軍を破ったそうである。

八月壬寅,宰相韋貫之が解任される。
 成徳・淮西征討に反対したため罷免された。

十一月、容管で黄洞蠻が蜂起する。

十一月、憲宗は大軍の征討軍の將達がろくな戦果を上げず、徒食することを怒って、宦官梁守謙を派遣し恩賞を与えると同時に譴責した。

十二月丁未,財務官僚の王涯が宰相となった。
 戦費調達のため財政官僚が重視されるようになっていった。

十二月、義武節度使渾鎬が王承宗に大敗し、軍乱が発生した。
 旧義武軍の將陳楚が急派され沈静化した。鎬は名将渾瑊の子であるが軍才はなく、偵察なく猪突して敗北した。

十二月甲寅,李愬が袁滋に代わり唐鄧節度使となった。
 袁滋はひたすら淮西呉元濟にすりよって、その攻撃を避けようとしたため罷免された。現実には唐鄧軍は崩壊していて袁滋はどうしようもなかったわけであるが。愬は名将李晟の子であり、兄弟には聴[夏綏節度使]や愿[武寧節度使]など有名な将がが多い

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元和十二年 西暦 817
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三月、昭義郗士美、横海程權が成徳軍に敗北した。

四月辛卯,唐鄧節度使李愬及吳元濟軍を嵖岈山で破る。
 もちろんたいした勝利ではない。愬は壊滅した唐鄧軍に、中央軍より援軍を受け、將士や家族を撫育し、衆を持って寡を破ることで小勝を重ねて自信を回復させていった。また淮西将呉秀琳や李祐等を降して登用し、淮西の内情をつぶさに調査した。呉元濟は弱体の唐鄧軍や実績の無い愬を軽視し警戒せず、主力軍を北部戦線に集中していた。

四月乙未,李光顏が郾城に淮西軍を破った。
 決定的な戦闘ではないが、光顏は本気に戦うようになってきた。呉元濟は勇将董重質に主力軍を与えて郾城戦線に唐朝軍と対峙さ
 せた。

五月丙子,河北行營[王承宗征討]を罷め、征討軍を歸鎭させた。
 敗北が続き成果があがらず、費用だけがかさむ成徳・淮西征討に対して、宰相李逢吉をはじめとした官僚群は中止を求めた。憲宗は成徳をあきらめて淮西に専念することにした。

七月丙辰,宰相裴度が淮西宣慰處置使として出陣した。
 淮西戦線の戦況はやや好転したとは言え、征討使韓弘は消極的であり、李光顔や烏重胤などは地域的には勇戦するが、勇敢な淮西軍を圧迫するのがやっとであり、到底平定できる見通しがなかった。朝廷でも李逢吉や王涯など財政的疲弊から非戦論派が有力となり、憲宗皇帝は憂慮していた。そこで強硬派の筆頭である宰相裴度が自ら現地へ赴き、全軍の指揮を執ろうとしたわけである。しかし韓弘に遠慮して名目としては宣慰使である。

八月癸亥,烏重胤が淮西軍に賈店で敗北した。

九月丁未,非戦論派宰相李逢吉が罷免された。
 逢吉は淮西征討も止めるように進言し、憲宗の怒りをかった。

十月、宰相裴度は自ら前線へ出て督戦したが、淮西兵に逆襲されて敗走した。
 淮西軍は強く、唐朝の大軍に圧迫されながらも勇戦し、しばしば勝利した。戦線は膠着し唐朝の勝利にはほど遠かった。

十月辛未,唐鄧節度使李愬は淮西の張柴柵を陥した。
 將士達は単なる通常の偵察戦と思っていた、愬はそこで呉元濟の本拠地蔡州を襲撃すると布告した。唐朝軍にとって三十年以上も不入であった蔡州への進攻と聞いて、監軍以下の將士は戦慄したが、愬の威權は確立しており従うしかなかった。降将李祐の先導により極寒の中進軍した。

十月癸酉,李愬が蔡州を陥し、元濟を捕らえた。
 主力を董重質に任せ、裴度軍と対峙していた淮西は、蔡州城にはわずかな守兵しかおらず、容易に呉元濟を捕えることができた。落城を聞いた董重質は愬に降り、忠武李光顔は対峙していた勇猛な淮西軍を慰撫して接収し自軍に加えた。

十月辛巳,裴度は淮西節度使として蔡州に入り、軍民を赦した。
 淮西経済は長年の戦乱により疲弊していて、唐朝の慰撫にしたがい帰順することになった。

十月、淮南節度使李鄘が宰相に任用された。
 李鄘は宦官吐突承璀の推薦であることを聞き喜ばなかった。

十二月壬戌,裴度は凱旋し、馬總が淮西節度使となった。
 その後淮西節度使[蔡光申三州]は解体され、蔡州は忠武、光州は淮南、申州は鄂岳へと分離された。淮西の再結集を懼れての處置である。

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元和十三年 西暦 818
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五月丙申,忠武節度使李光顏が義成節度使へ転任
 淄青征討の準備である。淮西軍を加えて最強の忠武軍を率いての移動。

六月丁丑,河陽烏重胤が懷州刺史,鎮河陽に復する。
 淮西戦役が終了し、淄青征討時の渡河点の治安のための転任。

七月癸未,山東李愬が武寧軍節度使に転任
 淄青侵攻のため徐州に配置。旧淮西将董重質も愬の願いにより任用。

七月乙酉,宣武、魏博、義成、武寧、河陽、橫海軍討李師道。
 淄青李師道は暗愚で頑迷であり、この時点になっても自軍が唐朝に対抗できると思っていた。また妻女は子を京師に送ることを拒否した。準備万端の憲宗は淄青討滅を下命し、諸軍は勇躍して侵攻した。総大将は魏博田弘正であり、全軍を率いて出陣した。

七月辛丑宰相李夷簡が解任された。
 李鄘の代わりに宰相となった李夷簡は役にたたずすぐ転出した。

八月壬子,宰相王涯が免ぜられた。
九月甲辰,判度支皇甫鎛,塩鉄使程异が宰相となった。
 財政官僚の交代である。より有能[収奪に長けている]二人が任用された。裴度や崔群達は阻止しようとしたが、憲宗は強行した。

九月淮西戦では観望していた宣武韓弘は、全軍を率いて曹州を囲んだ。

十一月魏博田弘正は渡河し、義成李光顔と共に、鄆州に迫った。

十二月魏博・義成軍は淄青軍を大破した。武寧李愬も連勝し、金鄉県を抜いた。
 包囲網が完成し、危機的な状況にも関わらず、幕僚は頑愚な師道を懼れて直言できなかった

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元和十四年 西暦 819
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正月辛已,韓弘は考城を陥し、李聽は沐陽を降し、李愬は魚台を抜いた。
 ゴールの見えた戦いであり、従来の緩慢さと違い諸軍は本気で功績を争った。

正月丙申,田弘正は淄青軍を東阿、陽谷に大破した。

二月淄青軍を率いていた劉悟が反し、李師道を殺した。
 師道は悟に主力軍を率いさせ、魏博・義成軍と対峙させていた。悟は勝ち目が無いと判断し逡巡していたが、師道からの解任命令を受けて決意し鄆州城を襲撃し師道一族を殺し、帰順した。正己-納-師古-師道と四代に渡る高麗李氏は滅亡した。

二月己巳,淄青十二州を、淄青齊登來棣五州、鄆曹濮三州、兗海沂密四州の三道に分けた。
 統治を浸透させるため巨大藩鎭を分割した。徴税と官吏任命権が回収された。唐末まで三道は唐朝の領域として継続した。

二月劉悟は義成節度使に任命された。
 悟は師道の跡を継承できると思っていたが、憲宗はそんな事は許さず他地へ転任させた。悟は落胆したが、田弘正の大軍を前にしてあきらめ赴任した。

三月馬總が鄆曹濮節度使。薛平が淄青齊登萊節度使、王遂が沂海兗密觀察使となった。
 總[有能な行政官]平[忠順な軍人]遂[収奪に長けた財務官僚]という取り合わせ
 である。
 
・橫海節度使烏重胤が節度使の管轄を本州牙軍のみとし、支州の軍事力は州刺史のものとすることを上奏して認可された。当然軍人重胤の考えではなく、憲宗や中央官僚の代弁である。節度使の力はこれにより大きく削減され。中長期的には、徹底できなかった河北三鎮以外は大きな反乱を起こす力はなくなっていった。

・淮西・淄青の制圧により唐朝は安定期に入った。以降河北三鎮等が反旗を翻しても、
 単なる地方の乱であり、唐朝の命運を左右する程のものではなくなった。

四月丙子,宰相裴度が河東節度使に出された。
 用済みの強硬派の排除である。憲宗にとっては財政再建と吐蕃征討が主題になってきた。度は功績が大きいため、門下侍郎平章事が付帯である。

七月戊寅,宣武韓弘が汴宋毫潁四州を上納し入朝した。
 淄青が滅び、もはや漕運の重要拠点である汴州の独立が許される状況ではないと判断した弘の賢明な決断である。弘も韓一族も武官として優遇された。宣武の後任は元宰相の張弘靖が入り慰撫した。

七月辛卯,沂海將王弁が觀察使王遂を殺し自立した。
 財政官僚である王遂は赴任すると早速厳正に対処し、甘やかされていた將士を酷使した。兵士王弁は憤激し徒党とともに遂を襲撃して殺した。
 
七月甲辰,棣州刺史曹華を沂海兗密觀察使にした。
 文官では拉致があかないとみて、練達の武官の曹華を派遣し王弁を討たした。

七月丁酉,河陽節度使令狐楚が宰相となった。
 程异が亡くなったため、皇甫鎛が与党を求めた。

九月戊寅,王弁伏誅。
 弁は一介の兵士であり到底自立不能と感じていた。唐朝は開州刺史に任じると騙して、赴任途中に捕まえ誅殺した。沂州に自軍を率いて入城した曹華は旧鄆州兵1200名を殺害した。地元の沂州兵は残した。

十月壬戌,安南將楊清が都護李象古を殺して反した。
 楊淸は安南人の酋長である。象古は嗣曹王皋の子であり強奪圧政を敷いていた。唐朝は桂仲武を派遣し、清を瓊州刺史にしたが、王弁の事で唐朝の信用は落ちており、清は威權があったので仲武は入ることができなかった。

十月癸酉,吐蕃寇鹽州。
 この頃吐蕃は辺境をしばしば犯した。淄青が片付き、河北を帰順させた憲宗は主力軍を 西北へ移し、吐蕃を討ち安史の乱で失われた隴右・河西地方の回復を考えていた。

十二月乙卯,宰相崔羣が左遷される。
 裴度派の羣が皇甫鎛に追われた。度と違い使相でもなく觀察使へ左遷である。

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元和十五年 西暦 820 
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・憲宗皇帝はもともと仏教・道教を深く信仰していた。藩鎭征討が続く間はそれでも自制していたが、徐々にエスカレートし、特に道士の作る金丹を愛用して、精神に異常をきたすことがあった。もともと強情で激発しやすい性格でもあり、宦官達に対する懲罰も過激になることも増えてきた。
[唐の法律では奴隷であっても濫りに殺害することは禁じられていたが、皇帝にとっては宦官は家畜程度の認識である。]

・また憲宗は皇太子を評価せず[穆宗。凡庸で遊び好きで、確かに無能であった]、信任する宦官吐突承璀は澧王惲に交代させることを密かに進言していたが、太子派には既に洩れていた。太子は憂慮して義父の郭釗に相談し、大きな勢力を持つ郭家も画策していた。

正月、沂海兗密觀察使曹華が兗州へ治所を移した。
 王弁の乱が起こった沂州では、収拾はしたものの安定しなかったため。

正月、義成節度使劉悟が入朝し憲宗に拝謁した。
 単なる儀式でしかないが、このころ憲宗は体調不良で姿を見せない事が多く、群臣は憂慮していた。

正月庚子,宦官陳弘志が憲宗を弒逆した。
 弘志の個人的暗殺ではなく、太子[郭家]と反吐突承璀宦官グループのクーデターである。
公式には金丹による中毒死とした。宦官神策軍中尉梁守謙・馬進潭・劉承偕・韋元素・王守澄は太子を擁立し,吐突承璀と澧王惲を殺した。神策軍兵士達に莫大な褒賞を与えて慰撫した。
 
・これより宦官勢力は増大し無能な皇帝を擁立して勢力を振るうことになった。 外戚となる郭家は家長の郭釗が謹慎な人物であったので目立つことは無かった。 陳弘志は処罰されることはなく、この後も在任した[15年後の太和9年文宗により誅]。

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